浴槽の熱い湯に首まで浸かりながら、幸子は三〇分以上考えた。苛酷な三〇分間だった。逃げ続けることは許されない。結論を出すしかない。幸子は追い詰められ、仕方なくそれを出した。

 部屋の照明は暗くしてあった。浩一は眠っているのか、巨大なベッドで背中を向けている。浩一の顔を直視せずにすむことが、幸子には救いに思えた。バスローブを羽織った幸子は、浩一の後ろに火照った身体を潜り込ませる。浩一は幸子に背中を向けたまま、手を回してきた。その手がバスローブを割って、幸子の下腹部に触れる。

 幸子の頭にかっと血が上り、身体が痺れ始めた。

〝このまま忘れてしまいたい……〟

 だが幸子は、浩一の手を両手で握った。

〝話さなくちゃだめ!〟

 幸子は、萎えそうになる意志を奮い立たせた。のどの渇きを意識しながら、結論を実行に移す。

「……話があるの。私、美樹さんたちに会っていたの――」

 浩一は一瞬動きを止めてから、ゆっくりと身体を反転させて幸子の目を見つめた。

「美樹?」

「高橋美樹。知らない?」

 いったん口を開くと、後は恐れていたより簡単だった。頭の中ではちきれそうになっていた渦を、順番に吐き出すだけだ。

 幸子は、全てを語った。一切の脚色なしに、美樹と洋の行動と言葉を聞かせた。黙って幸子の言葉を聞く浩一の表情は、驚きから冷笑へ、そして怒りに変わっていった。かすかな明かりだけでは顔色は読み取れないが、時折もれるうめき声が浩一の憤りを語っている。

 通り魔が浩一だと言われたことを明かした瞬間、浩一は幸子を抱きしめてつぶやいた。

「バカな……」

 幸子はそのまま浩一の胸に顔を埋め、不意に現れた大介の行動を話し続けた。

 幸子が全てを話し終えてからも、浩一は五分以上沈黙した。その間幸子は、自分が下した結論を後悔し続けた。

〝黙っていた方がよかったの……? 私、嫌われたの……?〟

 浩一の目を見ることができない。だが、いたたまれなくなった幸子がベッドを出ようとした時、浩一は腕に力を込めてささやいた。

「ごめん、幸子。辛い思いをさせちまって」

 幸子は素直にうなずく。涙が吹き出した。

「うん……辛かった……」

 だが幸子には、浩一が真っ先に『ごめん』と謝ったことがうれしかった。自分が大切に思われているという安心感が、浩一の体温と共に全身にしみ込んでくる。

 浩一は身体をわずかに離すと、じっと幸子を見つめて問う。

「信じたのか?」

「信じたなら、探しません。こんなこと、話しません」

 浩一は、ようやく笑顔を見せた。

「俺もおまえを信じていた。間違っていなかったな」

 浩一との一体感が、幸子の怯えと緊張を溶かしていく。幸子はいつのまに、全身を金縛りにしていた重荷から開放されていた。

「信じているのは、あなただけ……。でも、本当のことが知りたい……」

 浩一はうなずいた。

「打ち明けなければならないと、ずっと思っていたんだ……。でもまさか、こんなに早く美樹が来るとは……。騙そうとしたわけじゃない。ただ、きっかけがつかめなくて……」

「いいのよ、気にしなくて。話してくれる? なぜ美樹たちがあんなことを言ったのか。あんなに悪く言われなくちゃならないのか」

「もちろんだ。それにしても、おまえの親父さんには参ったな……。病院を出てから、部屋に訪ねてきたんだ。俺の声を録音するって言うから、妙だとは思ったんだけど……」

「脅されたの?」

「いや、謝りたいって。おまえに聞かせるためだっていうから、従ったんだけど……。そんな芝居に使われたとはな……」

 浩一の表情は、苦渋に満ちている。

 幸子は改めて覚悟を決めた。

〝何を聞かされても平気。信じているから〟

 幸子は毅然と問いただした。

「あなた、本当に美樹と付き合っていた事があったの?」

 浩一もきっぱりと答える。

「ある」

 幸子は詰めていた息をもらした。

「やっぱり……」

 だがその声には、落胆よりも安堵がにじみ出ていた。

 浩一が言った。

「がっかりしたか?」

「少し。でも、仕方ない。嘘をつかれたら、もっとがっかりする」

「じゃあ、驚かないな?」

「はい」

 浩一は幸子の目を見つめてうなずいてから、語りはじめた。

「美樹に会ったのは、確かに精神障害者の施設だ。バイク便のバイトで、たまたま配達に行った先だ。だが、声をかけてきたのは向こうだ。恐る恐るっていう感じで、緊張が手に取るように分かった。外人だと思って、遊び相手にしようとしたらしい。ところが俺はこの通り、日本語の方が得意だ。で、逆に美樹は緊張がほぐれて、その夜のうちにホテルへ行った。ホテルったって、タクシーで山中湖まで飛ばしたんだぜ。何とかっていう一流ホテルで、そこの代金もタクシー代も美樹がカードで払った。アメックスのゴールドカードだ。断っておくが、美樹と寝たのはその一度きりだ。あの浪費を見ただけで、傲慢でわがままな箱入り娘だと分かる。まともに付き合える女じゃない。山中湖にいるうちはカップルの振りをしてやったけどな。立場を無くさせたんじゃ申し訳ないから。だけど二度目は断った。『君と付き合う気はない』ってな。その日からあいつは、俺に付きまといはじめた」

「付きまとうって……?」

「最初はバイト先に押しかけてきた。居留守を使って何度か追い返した。だが美樹は、そのたびに何十万もする時計だのコロンだのを『プレゼントだ』って置いていく。なんだか居づらくなって、とうとうバイトを変えるはめになった。次はアパートへの電話、そして玄関先で座り込み。ダチの部屋へ逃げ込むことになった。そんなふうに無視し続けたら、どうやって調べたのか携帯に無言電話だ。最後にはヤクザを雇って、俺に関するデマを流して歩いた――。結局バイトを三つふいにした。ただでさえ苦しい生活だったのにアパートまで追い出されて、帰る場所もなくなった。ダチのねぐらを転々とする、ホームレスさ。仕方なく本人に会って『やめてくれ』と直談判したよ。『私の男になるならやめる』だとよ。『これからは金の心配もなくなるから』ってな。あいつは性格が歪んでる。表面はおとなしくて品のいいお嬢さんだが、セックスしか頭にない雌犬さ。相手の気持ちなんか何とも思っていない。自分がどうしたいか、何が欲しいか――それがすべてだ。てめえの親父を含めて、世の中の人間は全部召使いだって思っていやがる。言葉じゃ優しそうに気取っても、それが本性だ。なのに俺は、あいつの命令を聞かなかった。言いなりにならなかった。それが美樹には我慢できない――と言うより、怖かったみたいだな。自由にできない人間がこの世にいることが、恐ろしいんじゃないか? 敵のように見えるんだろう」

 幸子にはその言葉がすんなりと納得できた。程度の差はあっても、美樹からは浩一の分析通りの仕打ちを受け、同じように感じてきた。

「それから?」

「説得は諦めた。頭がおかしい相手じゃ、何を言っても無駄だ。で、美樹の親友を探して、そいつから諭してもらおうとしたんだ」

 幸子がつぶやく。

「真奈美……?」

「正木さん……か? 真奈美っていう名前だったのか……」

「知らなかったの?」

「ああ。美樹の部屋を見張って、遊びに来た最初の女に話しかけただけだ。正木さんとは、その晩に喫茶店で二時間ほど会っただけだ。俺が美樹から受けている嫌がらせを全部話した。彼女は、いちいちうなずいて熱心に話を聞いてくれた。美樹の性格が分かっているようだった。俺に同情して、バカな真似はやめるように話してみると言ってくれた。実際に何をしてくれたかは、分からないがな――」

 信じたかった。だが、証拠として見せられた写真から受けた衝撃が忘れられない。反射的に言葉を挟んでいた。

「うそ……」

「なぜ嘘だって?」

「だって……あなたと真奈美が一緒に写った写真を見たのよ……」

 浩一は唇をわずかに歪めた。

「ああ、そう言ってたな。ほんと、汚い手を使うぜ……」

「何なの?」

「たぶん、フォトショップ」

「え?」

「コンピュータのソフトさ。簡単に写真を合成できる。美樹と俺が山中湖で撮った写真も見たって言ったよな。美樹の手元には正木さんの写真もあるだろう。その顔だけを、美樹の代わりにはめ込むんだ。プロに頼めば、本物と区別ができない合成写真が造れる。素人だって、ちょっと頭を使えばそこそこの仕上がりになる。バンドの連中は、バイトで買ったアイマックでCDジャケットを作ってる。デジカメの写真の色や雰囲気を変えたり、文字を書き込んだり……俺はやったことないけどな。映画だってCGばかりの時代だ。写真や映像なんて何の証拠にもならない」

「あ、コンピュータか……それって、髪型も変えられる?」

「当然。結婚式場なんかで、そんなのなかったか? ウエディングドレスの写真に自分の顔だけはめこんで見せる装置。髪型だって自由になるんじゃないか? 髪型が気になる?」

「うん……写真に写っていた真奈美、美樹と同じベリーショートだったから」

「正木さんは、初めて見た時からショートだったぜ。美樹と同じ美容室でも行ったんだろう。髪型が同じだから、たぶん美樹の親友だろうと思って、話しかけたんだ」

 幸子はようやく納得した。

「そうだったんだ……。でもあなた、私にベリーショートにしろって言ったでしょう? あれって、どうして?」

「どうしてって……深い意味はないさ。ショートが好きなんだ。寝返りをうつたびに髪が絡まったりしないし。それに、幸子には絶対ショートが似合う。いつかはバンドの仲間にも馴染んでほしかったしな。どうして髪にこだわる? 特別な意味があるのか?」

「そういうわけじゃないけど……。でも、警察は真奈美とあなたが付きあっていることを突き止めたって……」

 浩一は、悲しげなため息をもらした。

「あれ、な。正木さん、覚醒剤をやっていたんだって? 俺は信じない。美樹がヤクザをけしかけて射たせたんだろう。正木さんが口出ししたんで怒ったのかもしれない。迷惑かけちまったよな……」

 幸子は驚きのあまり浩一を見つめる。

「美樹がやらせたの⁉」

「そう考えるしかない。俺をはめるのが目的なら、いい手だ。正木さんは覚醒剤で飛んでる。注射を打たせた美樹は、正木さんの部屋に俺の住所を書いたメモを残して警察にたれ込む……。サツが部屋に踏み込めば、ギター小僧はブタバコ。サツは、バントの連中はみんなヤクでイッてると決めつけてるからな」

「嘘……あんまりよ……。いくらなんでも、真奈美まで……? そんなひどいことをして……その後どうするつもりだったの……?」

「あいつの考えはお見通しさ。サツに捕まった俺は、何も分からずにうろたえる。そこに、テレビドラマから抜け出したような優秀な弁護士が現われる。美樹に雇われた犬だ。弁護士は耳元にささやく。『刑務所か美樹さんの奴隷か、選べ』……窮極の選択だな」

「恐い……。でも、実際にはそうはならなかったんでしょう?」

「正木さんが警察に、俺との事をきちんと話したらしい。美樹に何をされたのかも分かっていたんだろう」

「でも、そんな悪巧み、警察には見抜けなかったの? それに……」

「それに?」

「父さんは、あなたが覚醒剤の売人だ、って……」

「だからさ、俺みたいに浮ついたフリーターをはめるのなんて、簡単なんだって。国保だって滞納ばかりで、いつ差し押さえに入られたっておかしくないんだから」

「そうはいっても、警察はそう信じてる……」

「君のお父さんがそう言った、だろう? 絶対に嘘はつかないと言い切れるか? 本気で俺と別れさせたいと思っているなら、美樹の嘘に便乗するのは利口な手じゃないか?」

 幸子は不意に、大介が監察に追われていることに思い当たった。父親が不正を犯したとは思いたくないが、娘に何かを隠していることは確実なのだ。

「それはそうだけど……」

 浩一はふんと笑った。

「警察は公務員――社会の公僕って奴だ。標準語に翻訳すると『金持ちのケツを舐めて回るコバンザメ』って意味になる。サツなんか、札束をちらつかせられたら――ごめん、お父さんも刑事だよな……」

「いいの。いつも似たようなこと言ってるから。縁も切るし……」

 浩一は真剣な目で幸子を見据えた。

「いいのか……本当に?」

「もちろん辛い。だけど、他に方法がないなら……」

「幸子……。強くなったな」

「あなたに出会えたおかげ。でも……」

「なんだ?」

「なぜ札幌に来たの? なぜ、私のところに?」

「理由は同じ。正木さんには迷惑をかけた。だが、他に頼れる人間もいない。美樹を説得できる人を探さなければ、嫌がらせがエスカレートする。命に関わる恐れも感じた。あの時は、なによりも美樹から逃げたかった。だが、やみくもに逃げても先がない。で、札幌に住み着いて、味方を探そうと思っていた」

「札幌に、って……美樹ちゃんを追いかけてきたんじゃないの?」

「逆さ。俺が来たんで、美樹も戻ったんだ。正木さんも帰っていると聞いたんで、一度だけ連絡を取った。拝み倒して、幸子の名前を教えてもらった。住所はすぐ分かったが、美樹の手下がどこで見張っているか分からない。仕方なく、幸子の後を尾行して本屋の人込みの中で声をかけた。ありふれたナンパに見えるようにね」

 幸子は不意に、外国人に誘いをかけられた時の驚きを思い出した。

「私、びっくりしちゃった……」

「正直いえば、喫茶店に入った時に本当の話を聞いてもらいたかった。だが幸子は、今まで俺が見てきた女とは違った。理知的で、壊れやすそうで……守ってやりたくなるような女だ。たぶん俺は、初めて会った時に恋をしたんだと思う。それなのに……」

 幸子は喜びで胸を詰まらせた。だが、まだ聞かなければならないことが残っている。

「みんな、どうしてあなたが犯人だなんて嘘をついたの……?」

「騒いでいるのは、美樹だけだ。西城っていう坊やは美樹の言いなりで、君のお父さんは二人に騙されている。公園でたまたま俺が幸子を助けたんで、犯人にでっち上げる気だ。シャブの売人の次は、凶悪なストーカー。ぶち込まれたら、また例の弁護士の出番だ」

「じゃあ、私を襲った犯人は……」

「西城だな。あの場にいたことは認めているんだろう? あいつは、美樹の操り人形だ」

 幸子にも、そうとしか考えられなかった。だが心の一部では、反発も感じる。終わったこととはいえ、気持ちを通じ合わせたことはある。その洋が自分を襲うとは考えたくなかった。美樹のために犯罪を犯す理由も分からない。そもそも美樹が、そこまで悪辣な策略を操るとまでは思えない。

 一体、何のために……?

 心の隅に隠れている、小さな綿埃ような疑問――。

「でも、どうして今まで美樹のことを言ってくれなかったの?」

 浩一は怒ったように答えた。

「言えるか? 俺は恋をした。幸子が正木さんのような目にあったらどうする? 惚れた女を、そんな危険な目に合わせられるか」

 小さな疑問など、吹き飛んだ。幸子はこらえきれずに、浩一にしがみついた。その胸に顔を押しつけて涙を流す。

「私、どうなってもいい……。あなたが一緒なら……」

 浩一は幸子の頭をしっかり抱き止めながら、言った。

「俺はいやだ。こんな邪魔に敗けるか。汚らしい濡れ衣まで着せられて……。なにがなんでも、お前と幸せになる。逃げよう。誰も追ってこないところまで、逃げるんだ」

「うん。逃げよう……一緒に……」

 浩一はさらに力強く幸子を抱き返す。

「お前は俺の子供を産め。俺がこの世に生きた証を、その身体で残せ……そして誰も追ってこないところで、俺と子供と優しい母さんと――三人で幸せに暮らすんだ……」

「でも……」

 浩一は幸子の目が見えるように身を引いた。

「不安か?」

 幸子は素直にうなずく。

「恐い……」

 浩一はかすかな微笑みをもらす。

「俺だって恐い。将来どうなるか……自信なんかない。君のお父さんから『ホームレスで終わるかもしれない』となじられれば、言い返すこともできない。でも、夢は捨てない。狙いはグラミーだ。ホームレスかグラミーか……これも究極の選択か? どっちに転がろうと、おまえは俺の女だ。こうして生き抜いた俺の子供を、この世に残せ」

 幸子は言った。

「子供、産みます。もう一度」

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