6

 浩一は無意識に立ち上がっていた。

〝言いなりにはなれない!〟

 大介にしがみつきながら訴える。

「話を聞いてください!」

 浩一の腕を振り払った大介の目が、燃えるような怒りを吐き出す。

「貴様が妊娠させたんだな」

「責任は取ります! だから一緒に――」

 浩一は大介に手首をつかまれた。

 幼稚園児が引きずられるように、力任せに戸口へ導かれる。浩一には、警察の訓練と苛酷な勤務で鍛えられた大介に抵抗できる力はなかった。

 大介は命じた。

「外で聞く。腹をくくって話せ」

 毛布をかぶって小刻みに震える幸子を残して、二人は病室を出た。

 大介は、浩一を投げ飛ばすように廊下に押し出し、音をたててドアを閉じた。

 浩一は倒れそうになるのをこらえて、大介に対峙する。

 しかし大介は、浩一に口を開く間を与えなかった。声を落として命じる。

「大声は出すな。幸子が怯える」

 廊下には、数人の患者とナースがいた。異様に張りつめた空気を察したのか、ナースが浩一たちに目を向ける。

 浩一は、繰り返した。

「結婚させてください!」

 いったんは封じ込められたかのように見えた大介の怒りが、蘇っている。

「貴様……何を考えている……? 孕ませておきながら……なぜ黙っていた⁉」

「知らなかったんです! 子供ができたなんて……。でも、それで分かりました。幸子が必要なんです。家族が必要なんです!」

 浩一は再び大介に衿をつかまれた。ぐいぐい押され、反対側の壁に押しつけられる。

 大介ににらまれた浩一は、言葉を失った。

「貴様は生まれつきの嘘つきだ。俺は騙せないぞ!」

 浩一は、大介の怒りに怯えた。だが、負けるわけにはいかない。

〝家族を作るんだ!〟

 恐怖を忘れて叫ぶ。

「嘘じゃない! 妊娠は知らなかったんです。結婚したい! 生まれ変わります。今までのことは忘れてください。幸子さんにふさわしい男になります! だから結婚を――」

 浩一は最後までしゃべれなかった。

 目の前に拳がふくれあがり、視界が揺らぐ。ぼこん、と、重たい音が全身に響く。殴られたと分かったのは、倒れそうになった身体を大介が引き起こしてからだった。

 大介は囁いた。

「ここで殺そうか?」

 遠くに、女の悲鳴が聞こえた。ナースが二人の争いに気づいたのだ。 

 そして、浩一は痛みを感じた。

 殴られた頬、反動で壁に叩きつけられた後頭部、ねじあげられた首が一斉に痛み始める。口に広がる血の味。息もできない……。

 だが、遠くのナースの叫びははっきり聞こえていた。

「誰か先生を呼んで!」

 浩一は、ぐっと顔を近づけた大介ににらまれて、すくみ上がっていた。

 大介は、もう一度つぶやいた。

「死ぬか?」

 浩一の衿から大介の手が下りる。大介は離れ、浩一に背を向けた。

〝助かった……〟

 と、大介はくるりと振り返った。全身の力と反動を乗せて、二発目を打ち込んでくる。

 その目を見た瞬間、浩一は大介の言葉が脅しではないことを知った。

〝死ぬ……〟

 浩一の耳に、パンチが当たる衝撃と大音響が襲いかかった。

 大介の拳は、浩一の顔面を外していた。壁に打ち込んだ拳をおろす。モルタルの上塗りがごっそりはげ落ちる――。

 大介は念を押した。

「次は、殺す……」

 浩一には、大介が涙をこらえているように見えた。

 そこに、男の声が割って入った。

「何をしている⁉ 乱暴はやめろ!」

 廊下を走りながら叫んだのは、白衣を着た医師だった。大介より上背のある、体格のいい男だ。

 浩一は壁により掛かって放心したまま、医師を見ていた。

 医師は大介の腕をつかんで捻りあげると、言った。

「やめろ! 病院だぞ!」

 大介は不敵な笑みをもらす。全身にみなぎっていた怒りが消え去っていた。

「用事は済んだ」

 医師は浩一を見ると、言った。

「君、大丈夫か?」

 浩一は『はい』と答えたつもりだった。だが、言葉が出ない。

 医師はすぐさま近くのナースに命じた。

「ストレッチャー! 外科へ運べ! 私が診る!」

 廊下が急激に騒がしくなった。人々の足音と叫び声や命令が交錯し、その一つ一つが浩一の意識を揺さぶる。だが頭の片隅では、意外なほど冷静に辺りを観察していた。

 新たに現れた若いナースが医師に問う。

「警察には……?」

 医師は、憤りを隠さずに答えた。

「連絡しろ。大至急!」

 大介が落ち着いた声で応える。

「私は警官だ」

 医師は手を離し、ぼんやりと大介を見つめた。長い間を置いてから怒鳴る。

「警官が人を殴ったのか⁉ 病院で⁉」

「その通りだ」

「頭がおかしいのか⁉」

 大介の口調は冷静だ。

「娘を守るためだ」

 そして大介は幸子の病室へ向かった。

 医師が叫ぶ。

「動くな! どこへも行くな!」

 大介は医師を無視してドアを開いた。そして戸口から、意外なほど穏やかに幸子に語りかけた。

「……三枝を殴った……骨が折れた……。話は退院してからだ。それまであの男は近づけるな。絶対に。命令だ」

 その間に医師は、浩一の傍らに立って脇の下に肩を差し入れていた。

 身体を支えられた浩一は、逆に足から力が抜けていくのを感じた。

 意識がかすみ始める。うつむいて、床を見た。小さな血だまりができていた。その上に、さらにぽたぽたと血が滴っていく。

〝俺の血……〟

 医師は、大介の背中に吐き捨てた。

「この青年、二、三日ベッドから出られないだろうな」

 大介は、ふんと笑った。振り返りもしない。

「死にはしない。私の指を治療してほしい」

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