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三枝浩一は、堅い丸椅子に腰掛けていた。壁にもたれて時折うたた寝をしながら、ベッドに横たえられた幸子を見守っている。
こうして付き添っていられるのも、個室が取れたおかげだ。担当医も、幸子のために規則を緩めた。起きた時に〝夫〟が枕元にいることが、精神の安定をもたらすと判断したのだ。
外は、まだ暗い。病室の照明も小さな非常灯だけで、幸子の姿はぼんやりとしたシルエットでしかない。
それでも浩一は、目を離せなかった。
〝今日も、スタジオは休まなくちゃな……。都合のいい仕事なのに……下手するとクビだな。この不景気に、またバイト探しか……。しんどいけど、仕方ないよな……。家族を持つためなんだから……〟
浩一は、自分が時間にルーズだと分かっていた。仕事場でも上司から白い目で見られる。欠勤や遅刻のたびに嘘でごまかしてきたが、どうせ長くは続かない。今までも、そうやって職場を転々としてきた。貸しスタジオもそろそろ危ないと感じていた。
だが、たとえ今の暮らしに便利なアルバイトを失っても、幸子は放っておけない。病室は離れられない。
〝俺の子供、か……。今回は運が悪かった。だけど、一度は子供ができたんだ。本当の家族が持てるかもしれないんだ……〟
幸子とともに救急車に乗った浩一は、ずっと夫を演じていた。一度だけ意識を取り戻した幸子は、錯乱状態で浩一にすがりついた。それを見た病院側は、浩一を親族として扱ったのだ。直後に幸子は鎮静剤を注射され、それ以後は眠り続けている。
簡単な手術と検査の後、浩一は幸子の様態の説明を受け、入院手続きも済ませた。母体に心配はないと聞いたので、気持ちは落ち着いている。
〝家族、なんだよな……〟
浩一は、幼い頃に捨てられた。物心ついた時には養護施設で暮らし、持っていたのは一枚のカラー写真だけだった。色が抜けてセピア色に近くなった母親の写真――。
自分の身体に混じっている欧米人らしい血が誰のものかも、本当は知らない。だが、同じ境遇の子供たちと暮らせる施設では、不安も不満もなかった。
社会に出てからは、職場で仲間を作ることもできた。家族から離れて街をふらつく中高生ともたくさん出会った。
流行のファッションでクラブに通い、顔見知りと群れる仲間たち。その中でも、浩一のルックスの良さは際だっていた。新宿や渋谷を歩く時は、必ずタレントやホストクラブのスカウトに声をかけられる。整った容貌があるだけで、どこの街に行っても浩一の居場所は約束されていた。
それでも、彼らには家族がある。『親なんて邪魔なだけだ』と息巻いていても、家族を尻尾のように引きずっている。
浩一とは、どこかが違っていた。
その頃から浩一の中に、自分は不完全なのではないかという恐れが芽生えた。
家族という言葉は、浩一には羨望と憎しみ、そして諦めが入り交じった特別な意味を持っていたのだ。
その宝物のような言葉が、今、手の届く場所で強烈な光を放っている。
浩一は、満足そうに微笑んだ。
〝これからは全うに生きるんだ。家族のために。家族を守るために……〟
窓にようやく薄日が差し始めた。
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