みんな うそ
岡 辰郎
第一章・暴行
1
無意識に漏らした独り言が、近田幸子を怯えさせた。
「やっぱり……堕ろすかな……」
即座に否定する言葉が頭に閃く。
〝いやだ! 変なこと考えて……〟
深夜の公園に人影はない。シベリア寒気団が吹き下ろす寒風が、足にからみつく。身を支えるものを求めて座った錆びたブランコが、かすかに揺れながら軋んだ。
錆の匂いが鼻腔に忍び込む。
〝血の匂いみたい……〟
幸子は、鋭すぎる嗅覚を恨んだ。
いったん頭に浮かんだ血のイメージは、消えない。カーペットにこぼしたコーヒーのように、しみを広げていく。
鉄錆からの連想が、股間から掻き出される胎児へ変わる。手慣れた医師の手によって運び去られる、血まみれの物体――。
〝そんなの、怖いよ……〟
幸子は重苦しい溜め息とともに真っ暗な空を見上げた。
札幌の副都心――オフィスビルに囲まれた空には月もない。都市再開発によって周辺に住む子供が減り、その公園は価値を失っている。手入れもされていないブランコや滑り台を照らしだすのは、せわしなく瞬く一本の街灯だけだ。
ブランコではしゃぐ子供たち――。
子供たちを空想すると、幸子の気持ちは重くなる。
〝仕方ないじゃない、子供なんて大嫌いなんだから……〟
子供が欲しいと願ったことは一度もない。犬や猫は、可愛いと思う。だが、子供からはいつも目を背けてしまう。赤ん坊との生活を真剣に思い描いた経験もない。幸子が描く未来像には、子供の姿は描かれていなかった。
幸子にとって子供とは、幼稚園の庭で金切り声を張り上げる凶悪な集団でしかないのだ。その片隅で身をすくませていたのが、五歳の頃の幸子だ。
〝母さんさえいてくれれば……〟
何の前触れもなく母親が失踪し、幸子は無骨な父親の手で育てられた。
子供たちの中に入ると、常にそれをからかわれた。入らなければ、追ってくる。先生たちが幸子をかばえば、目の届かない場所でいたずらが暴力に変わった。
小学校に上がっても、参観日に家族は誰も来なかった。クラスには片親の子供も多かったが、ほとんどは母親と暮らし、祖父母がいる。幸子とは違い、見守ってくれる家族が教室の後ろに立っていた。ひとりぼっちの幸子は、数少ない仲間にさえ裏切られたように落ち込んだものだ。
幸子の場合、父方の両親は早く死に、多いとは言えない親類も本州に住んでいる。にぎやかな集まりとは無縁で、正月のお年玉もわずかだ。何もかもが周りの子供たちと食い違っていた。幸子は教室での話に溶け込めず、孤立し、いじめられる原因を重ねていった。
子供たちは冷酷だった。暴力は振るわなくても、幸子を見る視線にはいつも優越感が漂っていた。幸子は本と空想の世界を鎧にして、幼い魂を守ることしかできなかった。
子供はいつも、恐怖の対象だった。
〝大嫌いなんだもの……〟
それでも、体内に宿った命を粗末にすることはためらわれる。出口を間違えたゲームをリセットするように、舌打ち一つで堕胎を選ぶことはできない。
〝でも、赤ちゃんだと決まったわけじゃないし……〟
風が一段と強くなる。
四月に入って、街中に山積みになっていた雪は急速に姿を消した。ここ数日は暖かな日が続いている。それでも深夜の冷込みは厳しい。薄いスプリングコートを羽織っただけの幸子は身を震わせた。
風にあおられて、地面に置いたコンビニの袋がぱたぱたと音をたてた。幸子はビニールの袋を見下ろした。中にはアイスクリームのホームパックと一〇〇%のレモン果汁が二瓶も入っている。不意にたっぷりとレモンをふりかけたアイスクリームを食べたくなった幸子は、理由も考えずにコンビニに飛び込んだのだ。
針の先ほどしかなかった希望さえ、脆く崩れる。
〝バカ……絵に書いたような妊娠じゃない……生理だって来てないし……〟
頬に涙がこぼれたことにも気づかなかった。ブランコの鎖に腕を回し、自分の胸を抱いて身を屈める。
錆びた鎖が、断末魔の捨て猫のように鳴く。
キー……。
寒く、心細い。
しかし、一人暮らしのアパートに帰るのはもっとつらい。
〝家を出なきゃよかった。父さんに救けてもらえたかもしれないのに……。孫ができたら、彼のことだって許してくれたかも……〟
だが、幸子には分かっている。それは虚しい幻想だ。
母の失踪以来、幸子は父親と二人で暮してきた。刑事の父親は眠るためだけに帰る生活を誇りにする男で、息苦しさを感じたことはない。普通の娘なら親の監視に腹を立てる年頃でも、自由に過ごしてきた。
父親が家族に無関心だから、母親は逃げ出したのかもしれない――そう思い当たったのは、高校に入ってからだった。
それでも、父親を憎む気持ちはなかった。マンションは自分だけの部屋のように使えたし、生活費の心配もない。大学を卒業して建設会社の事務員として働くようになっても、給料を丸まま使うことが許された。結婚したOL仲間と比べれば、明らかに恵まれている。
これといって大それた夢を持っていたわけではない幸子には、居心地のいい温室だったのだ。
しかしその安定は、トランプで組み上げた城のように吹き飛んだ。
春のそよ風で――。
幸子が恋人ができたことを告げた数日後、父親は『別れろ』と命じた。理由は、男が職業と呼ぶに足るものを持っていないことだった。
幸子にとっては初めての、真の恋愛だった。父親が、二十五才を迎えてようやく巡ってきた娘の独り立ちを邪魔するとは思わなかった。親しい上司から『父親にとって、娘の恋人は恋敵に等しい』と聞かされて初めて納得ができたほど、幸子は男の気持ちに疎かったのだ。
幸子は、恋人か父親かの選択を迫られた。結論は、一人でのアパート暮しだった。ほんの二か月前の事だ。
一度飛び出した以上、父親のマンションに帰ることはできない。つい三〇分前に別れてきたばかりの恋人に泣きつけば、うっとうしく思われるに決まっている。
どんなに人恋しくても、一人で耐えるしかない。
胎児の父親がその男であることは確かだ。幸子が身体を許した男は一人しかいない。そして、その男が自分を愛していることも信じていた。
たった四ヶ月前に出会った男と、幸子は熱烈な恋に落ちたのだ。
だが、幸子の涙は止まらなかった。
〝私……妊娠したら捨てられるかも……。つき合いも浅いし……。やっぱり、黙って堕ろそうかな……。子供嫌いなのに赤ちゃんを育てるなんて、どうせ無理だし……〟
男は、チャンスを求めてもがき続けるマイナーミュージシャン。一歳年下で、レンタルスタジオでバイトをしているギタリストだ。
青臭い夢を追うフリーター――不安定な生活に娘が潰されるのを父親が防ごうとするのは無理もない。
その気持ちは理解できる。幸子自身が恋人に『結婚したい』と切り出せずにいるのだから。そんな相手が、子供を受け入れるとは思えない。
幸子の心が、また軋みながら振れる。
〝でも、彼なら……もしかしたら……〟
男は優しかった。幸子が思い描き続けた空想の恋人より、何倍も優しかった。
幸子は完璧な恋人と肌を重ねる幸せに、ほんの一時間前まで浸っていたのだ。マンションに一人残された父親など、一瞬も思い浮べずに――。
なのに妊娠を疑ったとたんに、幸子の自信は揺らぎ続ける。
〝やっぱり、お父さんが正しいのかな……浩一さん……なんて言うだろう……〟
男の名は三枝浩一。バンド仲間は、〝トム〟と呼ぶ。アメリカ人の血が流れ、誰もが『横顔がトム・クルーズに似ている』と言うからだ。幸子は、かつて横須賀に住んでいた父親がハーフだったらしいと聞かされている。
長身でスリムな浩一は、街ですれ違う娘たちを必ず振り返らせる。
浩一と腕を絡めて大通公園を歩く時、幸子はいつも伏し目がちになった。不釣り合いなことは、痛いほど分かっている。幸子に羨望の眼差しを向ける娘たちが、自分の凡庸さを嘲笑っているような気がしてならない。背が低く、むしろ太り気味の肉体をかき消してしまいたくなる。
だから幸子は、浩一のバンドメンバーと会うことも避けていた。もともとロックやラップには関心がない。良し悪しも聞き分けられない。子供の頃から友達が少なかったせいもあり、オリコンチャートを追わなくても不都合はなかったからだ。
それに気づいているのか、浩一もバンドの練習や集まりに誘ったことはない。幸子は、自分の劣等感を見抜かれている気がして余計に落ち込んだ。
浩一は、最近もこう言った。
『幸子は、髪を思い切り短くしたほうがイケるぜ』
幸子は、意地の悪いジョークだと思って泣きだしそうになった。小太りの自分にベリーショートが似合うとは信じられない。しかし恐る恐る覗き込んだ浩一の目は、真剣そのものだった。
翌日、美容室へ行った。
それでも、髪は肩まで切るのが精一杯だった。新しい髪型を見た浩一は一瞬、不快そうな表情を浮かべた。幸子は、その目を忘れられない。
〝なんで言われた通りにできないんだろう。自尊心? 羞恥心? そんなものの代わりに、浩一さんを失ってもいいの……?〟
幸子は理想以上の恋人に巡り会ったがために、絶え間ない迷いを強いられてきたのだ。自分には恵まれすぎた恋人――その思いが、幸せと表裏一体となって胸をしめつけた。
迷いを忘れられるのは、暗やみで互いを求めあう時だけだ。浩一の体重と温もりを全身で受け止め、貫かれる瞬間――。大きな手のひらで背中をきつくつかまれる痛みさえ、麻薬のように甘い。幸子が唯一信じられる、真実の時――そのひとときを危機にさらす事件は、何もかも避けていたかった。
〝また捨てられるのは、いや……〟
数年前の、苦い記憶が甦える。
大学時代、文学サークルで親しかった男友達がいた。抱かれたことはなかったが、互いの才能を尊敬し、夢を語り合い、結婚も願っていた。
しかしその男は幸子から離れ、幸子の女友達と付き合うことを選んだ。女友達は、札幌の経済人の間では名が通った資産家の娘だった。張り合える相手ではない。
しかもその娘は、幸子の高校時代からの親友だった。もう一人の友人と三人で、大学に入ってからも多くの時間を共に過ごしていた。
だが、幸子が恋人を奪われて以来、三人の気持ちはばらばらに離れた。大学卒業後、二人の友人は東京へ出て、幸子と男が札幌に住み続けた。だが幸子は、その男と連絡を取ろうともしなかった。
男は文学という夢よりも実生活での成功を求め、失敗したのだ。
残ったのは、女同士の友情の崩壊――。
幸子が初めて思い知った厳しい現実だった。たやすく夢を忘れて女友達の仲を砕いた男を、一時は激しく憎んだ。だが憎しみはすぐに自分への嫌悪に変わり、幸子は荒れた。
部屋に引きこもり、過食と拒食を繰り返し、極端にやせ細った時期もあった。詩や文章を書きたいという気持ちも萎えた。書くべきことは失恋しかない。忘れたい痛みを文字に刻めるほど、強くはなかった。
思えば幸子の父親は、その男を紹介した後も、『あいつには気をつけろ』と高飛車に命じた。幸子は二度と二人を会わせなかったが、父親の勘は正しかったのだ。
犯罪者を見分ける刑事の直感が、男の本質を見抜いたのかもしれない。
だが父親は、幸子の失敗を責めなかった。それどころか、仕事を二の次にして幸子の苦しみと向かい合った。警察の専門家に相談し、評判のいいカウンセラーを探し、食べ物の栄養バランスにまで目を配った。それでいて幸子に精神的な負担をかけないよう、一定の距離を置く気遣いも忘れなかった。
娘の生活には無関心なように見えた父親の、予想外の一面だった。
幸子は『たかが失恋』と笑い飛ばされると覚悟していたのだ。父親の支えがなければ、大学卒業は難しかったに違いない。
幸子は父親に心配をかけたくない一心で、立ち直ったように見せた。その演技が、いつの間にか現実を変えた。心の傷は時間とともに塞がり、カサブタをはがそうとする衝動も抑えられるようになった。
そしてようやく今、浩一との出会いが幸子を解放し始めたのだ。
失恋を描いた本や映画には、まだ近づけないが……。
泥沼のようなあの苦しみは、忘れられない。二度と味わいたくない。
危機は、避けなければならない――。
幸子は自分を抱きしめた腕を緩めて、顔を上げた。
浩一は、子供を受け入れるかもしれない。一〇〇に一つの確率で。しかし残りの九九の確率で、赤ん坊は浩一の夢を打ち砕く。
〝私はあの頃、夢を捨てた男を恨んだ。だから、浩一さんの夢を奪う権利はない。大切なのは、彼の夢よ……〟
幸子は地面に脚をついてブランコを止めた。自分を奮い立たせるために言う。
「明日、お薬を買ってチェックしよう」
幸子はコンビニの袋を取って立ち上がると、確かな足取りで歩き始めた。
背後に人の息づかいを感じたのは、その瞬間だった。
幸子は振り返った。
ほんの一メートルほど脇に、真っ黒な固まりがあった。公園を飾るオブジェのような物体――。そんな物があった記憶はない。
それが動いた。
黒い陰が分かれて手足に見える。人間だ。
幸子が考え事に気を取られていた間に、誰かが近づいていたのだ。
陰の手に握られた何かが、街灯を反射して瞬く。
キラリ――。
幸子には、それが大きなナイフに見えた。
ひっと息を呑んだ。
か細い声が絞り出される。
「だれ⁉」
答えなかった。素早く飛びかかってくる。
幸子は、悲鳴を上げることすらできなかった。喉に、大きな固まりが詰まっている気分だ。足も動かない。自分の顔を腕で覆うのが精一杯だった。
大きな陰は真上からかぶさるようにして、荒々しく幸子を抱きかかえた。
幸子の頭に恐怖が炸裂する。
〝いや! たすけて!〟
声にならない。
やみくもに振り回す幸子の腕が、陰の顔に触れた。パニックに陥りながらも、柔らかい毛糸の感触をはっきりと感じる。スキー用の目出し帽だ。
陰は、全身真っ黒の服装で幸子を襲ったのだ。
恐怖が膨れ上がる。
〝強盗⁉ それとも⁉〟
陰は腕に力を込め、幸子の向きを変えた。後ろから腹を抱え込み、引きずっていく。
〝いや……いや……いや……〟
抵抗できない。身体が強ばり、呼吸さえ忘れていた。頭に昇った血が、渦巻いて沸騰する。
陰は、幸子の身体を横に投げ出した。
幸子は滑り台に叩きつけられて、鉄の階段を抱え込んで腹ばいになった。
すぐさま、背後から重い陰がのしかかる。
そしてナイフが、氷柱のように冷たく幸子の頬に触れた。
動けない。
陰の手が、幸子のスプリングコートをまくり上げた。ジーパンのジッパーを下げ、パンティーと一緒に引き下げようともがく。
幸子の頬は、冷えきった階段に押しつけられた。口の中に砂つぶが入り込む。
陰が、喉の奥でくくくと笑う。
陰はさらに体重をかけて、幸子を階段に押しつけた。熱い息が、幸子の首筋にかかる。陰の指が、ジャングルに蠢く昆虫のようにパンティーの中を這い回る。
鉄の階段が、涙で濡れた。
〝いや……いや……いや……〟
その時、遠くに叫び声がした。
「何してる⁉」
男の声――。
幸子の背中から、ふっと重さが消えた。
手を引き抜いた陰が身を起こし、走り去る気配があった。
「ちっ!」
幸子の耳に、陰の舌打ちが反響した。
幸子はぐったりと滑り台の階段にもたれ、動けないままだった。
足音が近づく。
「大丈夫⁉」
陰を追い払った男だ。彼は、そっと幸子の背中に手を置いた。
幸子はびくんと全身を震わせた。
男は言った。
「大丈夫だね。とっちめてやる!」
再び男が走り去る足音がした。陰を捕らえに向かったようだった。
遠ざかりながら、男は幸子に命じた。
「動かないでよ! 救急車呼ぶから!」
幸子はようやく息をついた。
その瞬間、オーデコロンのかすかな香りを臭いだ。弱い柑橘系の匂いが、意外なほど鋭く鼻を刺激する。
新鮮な空気が肺にしみ込み、酸素が脳に巡る。沸き立っていた血が冷えていった。
〝助かったの……?〟
ゆっくりと頭が働き始める。
幸子は、階段から起き上がろうとした。が、足に力が入らない。そのままうずくまるようにして、土の上に横倒しになった。
〝なぜ……私、どうしちゃったの……?〟
倒れた幸子の目の前に、小さな草むらがあった。瞬く蛍光灯に照らされている。
幸子はぼんやり草むらを見つめた。すぐ鼻の先に、汚れた石ころのような固まりが転がっている。
犬の糞だった。
そう分かった瞬間、幸子の鼻に強烈な悪臭が流れ込んだ。それはまるで、陰が握ったナイフのように、幸子の脳髄を突き刺した。
〝いや!〟
それでも幸子は、動けない。全身が麻痺している。堅く目を閉じることしかできない。
頭の中に、犬の糞の匂いが容赦 なくふくれ上がる。
〝いやよ! いやよ!〟
幸子は、股間に生暖かい感触が広がるのを感じた。生理の出血と似た、ぬるぬるとした不快感――。
濃厚な血の匂いが辺りを包んでいくような気がする……。
血は、幸子が流していた。
〝いや……そんな……いや……赤ちゃんが……私の赤ちゃんが……〟
幸子は、胎児を案じていた。子供が嫌いなことなど、頭から消えていた。
〝いや……〟
指先一つ動かせない。意識は正常に戻りつつあったが、身体が反応しない。
〝いや……私も……死んじゃうの……?〟
そのまま時が過ぎ去っていく。
時間の感覚がなくなっていく。
〝寒い……どうして動けないの……? もう……死んじゃったの……?〟
その時、幸子は地面にかすかな振動を感じた。身体が麻痺した分、神経が敏感になったかのように。
誰かが走ってくる。
そして、また男の声が頭に響いた。
「幸子? 幸子なのか⁉」
さっきとは声が違う。
幸子は目をつぶったまま、ぼんやり考えた。かけがえのない声。暖かい声――。
〝浩一さん……浩一さんなの? 赤ちゃんが……死んじゃう……捨てないで……何でも……言うこときくから……お願い……〟
幸子は、自分の上に屈み込んだ男が肩を揺さぶるのを感じた。
「幸子! 大丈夫か⁉ どうした⁉」
幸子は自分が生きていることに気づき、ゆっくりと目を開いた。瞬き続ける街灯に照らされた顔が、はっきりと見える。
男が自分を覗き込んでいる。やはり三枝浩一だ。
涙が吹き出した。
幸子は擦れた声でつぶやく。
「浩一さん……」
浩一は驚きに目をむいている。幸子の背に腕を差し込み、上体を起こす。
「何があった⁉」
「助けにきてくれたのね……」
「元気がなかったから、心配で」
幸子はかすかに微笑んだ。
「うれしい……来てくれて……。これからは、あなたの言うこと、何でもきく……。髪も……ベリーショートに……」
幸子はぽろぽろと涙を流しながら、ぐったりと力を失った。全身から生命力が蒸発するように――。
幸子にとっては、現実の苦痛から解放される至福の時だった。
唇には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
浩一は幸子を抱きしめて叫んだ。
「幸子! しっかり! ひどい血だぞ!」
遠くに救急車のサイレンの音がした。
幸子は次第に耳障りになるサイレンを聞きながら、海底に沈んでいくような解放感に身を委ねた。
意識が遠のく――。
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