第6話 本来怒りを向ける対象

2か月前にくぐった扉を通り、高原次郎先生のカウンセリングルームにやってきた。

目の前に座る髭面のおじさん。

一見少し怖そうだけど、私はもうこの人が怖い人ではなく、私の救世主だと知っている。


「お久しぶりです」

「はい、お久しぶりです。その後、どうですか?ご主人に対して怒りが溢れてくると言われていましたが、、、」

「はい、香に向かっていた怒りが今は旦那さんに向かっているような感じです。」

私はそこで一旦言葉を切った。

知らずお腹に力が入り、大きく息を吸った後思いっきりよく言葉を放つ。

「香が夜中に起きても起きない。夜勤がある日は香と二人で息を潜めとかなきゃいけない。おむつも変えてくれないし、ご飯も作ってはくれない。子どもには滅茶苦茶優しいのに私にはすごく冷たい。ご飯作りたくないのにお弁当じゃいやだって言うし、洗い物も洗濯物もお掃除も何も、家のこと何もしてくれないし、なんで私ばっかり?育休中で今仕事には行ってないけど、内職的に仕事してるし、仕事してるかもだけど、私は香のお世話してるし、子育てなめてるって思う。自分何もしない癖に香と一緒に居るだけでしょうとかって言ってくるし、自分は香と二人っきりで3時間過ごすのがやっとなくせして!!!」

「はぁ、はぁ」

一気にまくし立てた。

息が切れる。

目の前の先生は、「うんうん」とうなずいて聞いている。

そして、「一人で子育ても家事も頑張ってこられてるんですね。しんどかったですね。よく頑張られていますね」と私を労い慰めてくれた。

先生は、他の人の味方をしない。

例えば、私が同じような話を聞いたら、「大変だね、でも、旦那さんもやっぱりお仕事大変だから家のことができないのかもしれないよ」みたいに相手のフォローをしてしまう。かつて、教え子の相談に乗ったときはそうだった。でも、先生はそんな事しない。完全に私の味方だ。

かつてそんな人はいなかった。


そんな事を考えていたら目元が少し熱くなってきた。


「さて」

先生の優しい声がその場の空気を少し変えた。熱がこもっていた空間に冷静な色が広がった。

私も少し背筋を伸ばす。

「今日はもう少し込み入ったところまで掘り下げていきましょうか」

その声は優しいはずなのに、少し怖い気持ちが心に広がる。

私は恐々とうなずいた。

「最初に一つ、訂正させて下さいね」

私はまた頷く。

「怒りを向ける対象ですが、決して旦那さんではないです。そして、私は実家に帰られることをお勧めしません。もし、旦那さんと距離を取られるなら、実家に帰るのではなく、経済的に難しいかもしれませんが、娘さんと二人でアパートにでも住んで下さい。それがとても難しいことは分かりますが、それぐらい実家はお勧めしません。」

私は一瞬固まった。思考も止まった。

「本来怒りを向ける対象ですが、それはあなたのご両親です。」

私の中で予想外の言葉ではなかったように思う。

その一瞬に泣き続ける香の顔と母親の「あなたはいい子だったのに」という言葉が同時に思い出された。その意図する意味なんて分からないのに。

「全く考えてもいなかった、というわけではないんですね」

一層優しい先生の声といつもより優しい視線。

「今感じたことを教えてもらえますか?」

私は、少しためらいながら、さっき思い出されたことを先生にボソボソと話す。

旦那に対する怒りは勢いよく出てきたのに、、、


高原先生はうんうんと頷きながら「それを思い出して、今、どう思いますか?」と私に尋ねてきた。

私は色々考えて考えて、、、、

何故か思考がまとまらないことに驚いた。

「先生、よく分からないんです、自分の気持ちが、、、先生になんて言ったらいいのか、、、」

そこで一度言葉を切って、もう一度考える。

高原先生は静かに待ってくれていた。

「とりとめもない感じですけど、例えば、香もいい子だよ、とか、私いい子ってお母さんに言われた事なんてなかったとか、やっぱり泣いたら悪い子なのかな、、、とか、、、なんか、自分の気持ちってこれであってるんですかね?よくわからなくて、、、すみません。」

たぶん、高原先生相手じゃなければ「分からない」の一言で片づけたであろう自分の気持ち。高原先生になら正直な自分の思いを出しても良いように感じた。

それなのに、高原先生の雰囲気が少し不穏な方に揺れた気がした。

「まずまずですね、分からなくてもきちんと今の気持ちを言葉にできたのはとてもいいことです。」


「先生、私、自分の気持ちが分からないって思ったことなんてないんですよ。カウンセリングに来たらこんなに自分の気持ちが分からなくなるなんて、、、変ですか?」

先生はそこでスッと空気を変えた。

「響さんはそもそも自分の気持ちを誰かに聞かれたことはありますか?小さな時に遊びの感想を聞かれたり料理の感想を聞かれたことはありますか?その時に素直に自分の気持ちを伝えていましたか?相手が喜ぶ返事を返していませんでしたか?」

矢継ぎ早に問いがもたらされた。

私は記憶を探っていく。

最近誰かにどう思うか聞かれた事なんてないな。

直さんは自分がいいものを選ぶし、感想もいい感想以外は受け付けられないし、、、

子供の頃、、、そういえば自分の気持ちを聞かれることなんてほとんどなかった。

自分の希望を言うといつも反対されたし、選択肢のある中での感想ばかりで、本当に私の気持ちを聞かれた事なんてないかもしれない、、、、

そうだ、正解のある問いかけしかされたことがない。

だから、自分の思いであっても、相手の正解じゃなければそれは私の思いじゃない。いや、私の思いなんだけど、、、正解じゃないといけないから、、、

頭が混乱してきた。


フッと顔を上げると先生と目があった。

「今頭の中で考えていたことを教えて頂けますか?」

アレ?なんか違和感に襲われる。

嫌な違和感ではないけれど、私の中でしっくりこない。

私が何か頭を抱えていたら、高原先生が衝撃の一言をくれた。

「しゃべりたくなかったらいいですからね」

たぶん、今考えたことはこのカウンセリングでとっても大事なことだ。

私も教師をしている。

先生がカウンセリングの途中であんなに矢継ぎ早に質問を投げかけることなんてなかった。

だからこそ、この問いの答えがとても重要な意味を持つのだと分かる。

それなのに、先生は「私が言いたくなければ言わなくてもいい」と言った。

あぁ、分かった。

「先生、言いたくないわけじゃなくて、さっきの先生の教えて頂けますかという声掛けに違和感を感じて、何が違和感なだろって考えてたんです。で、今気付きました。先生はいつも私に選択権を下さっているんですね。私、今までの状況だと教えて下さいと言われて、絶対にしゃべる流れにもっていかれるんです。そう、選択肢はあるようでない。そんな状況ばかりでした。そして、さっきの質問ですが、よく考えたら、私の思いを聞かれたことなんてないんです。いつも相手が返して欲しい正解の答えがあって、正解じゃないとダメなんです。」

そこまで、ゆっくり自分の意見を自分で咀嚼するように話をした。

「そうですか」

高原先生は少し厳しい顔をしている。

「響さん、あなたは自分の気持ちを聞いてくれなかった相手に怒っていいんですよ。あなたの気持ちを大事にしてくれなかったのは誰ですか?」

「先生以外、みんなです。」

「いいですか、響さん。ことの発端はご両親との関係です。実は響さんがこれで正解ですか?というような質問をされた時から分かっていました。旦那さんも友達もご両親のコピーでしかありません。怒りを向ける対象はご両親なんですよ。ここまでは納得できますか?」

私は大きく頷いた。

先生も大きく頷いて、

「では、感情は込めなくていいのでこの場でお父さん大嫌い、お母さん大嫌い、と言ってみてもらえますか?」

私は一瞬先生が何を言ったのか分からなかった。

そして、なんでそんなこと言うんだろうって思った。

ただ、高原先生が言ってみてというのだから、言ってみるだけ言ってみようと頷いた。

「・・・」

私は口をパクパクさせただけだ。

声にならない。

「えっと、、、」

「お・と・お・さん、、、だ、、、」

何でこんなに片言なんだろ?

自分でもよく分からない。

「お・か・あ・さ・ん、、、だ、、、」

いつの間にか涙がこぼれ落ちていた。

大粒の涙が。

その内、嗚咽が上がってくる。

「先生、言えません」

私はやっとそれだけ先生に伝えた。

先生は優しく「大丈夫です」と言い私が落ち着くのを待ってくれる。


私が落ち着くのを待って、高原先生は話し始めた。

「生きづらさの元凶は親です。親から適切な愛情をうけとっていないことが生きづらさの原因になります。子育てで苦しむというのも生きづらさになります。原因の一つが自分の思いを聞かれて育ってこなかったことですし、嫌いというと嫌われて見捨てられると思うほど両親の顔色をみて育ったことです。これは適切な愛情ではないということは分かりますよね?」

「わかります」

私は「でも、、」と続けた。

「うちは虐待されていたわけでもないですし、一般的な家庭だったと思いますけど、、、」

「虐待されていなくても、適切な愛情がないと同じことです。そして、虐待されていないのに生きづらさで苦しんでいる方の方が実は治りが遅いです。なぜだか分かりますか?」

私は首を横に振った。

「虐待は分かりやすく親に憎しみを抱きやすいんです。でも、“普通”の家庭で育ったと言われる人の多くが自分を責めます。そして、親に愛されていた記憶を探して、愛情を注いで貰っていない事実から目を背けるんです。どんな子供でも親に愛されていたいんです。だから、愛されるように頑張る。本当はそのままで愛されるハズなのに、、、そのままで愛されなかった自分が悪いと心の奥底で認識してしまっているんです。だから、なかなかこの認識を変えるのが難しいんです。無意識ですから、、、」

私はこの説明を聞きながらふと思い出した。

「アダルトチルドレン」

言葉が口から零れ落ちた。

先生は大きく頷いた。

「そうです。アダルトチルドレンです。なかなか言葉にだしても自分がそうであるという認識は難しいんです。でも、その言葉を自身のこととして認識出来たら一つステップアップです。変わる準備が整ってますよ。」

高原先生は穏やかな顔でこちらを見ていた。


私はアダルトチルドレン。

納得のいくような、いかないような、、、

ただ、一つ言えることは、私は変わることができるという事だ。

もう一つステップアップしたと高原先生のお墨付きだ。


私はアダルトチルドレン。

ふと頭をよぎる両親の顔。

これをいうとうちの両親を貶めることになるのではないだろうか、、、


私の顔を見ながら高原先生が今日のカウンセリングの終わりを告げる。

私は次回の予約を取って変えることにした。

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