雨のち晴れ

華月

第1話 ハガキ

 純喫茶『雨のち晴れ』は今日も元気に営業中だが最近、気になるお客様がいる。

 そのお客様は女性で、見た感じ三十歳前後。店内の一番隅の、テーブル席をいつも愛用される。日の当たらない、静かな席だ。いつも、マスター雨宮のスペシャルブレンドをご注文される。そのコーヒーを飲みながら、色鉛筆で熱心に絵を描いている。

 そして描き上がると席を立ち、お会計を済ませて店を出るのだが、いつも描いた絵をテーブルに残して行くのだ。

 もう何枚目だろうか…。

一応、雨宮が預かっている。

 最初は忘れ物として、声をかけたのだが、女性はただ、あいまいな笑顔を見せるだけ。

雨宮は声をかけず、女性がどうしたいのか待つことにした。

 女性の名は愛梨という。イラストのサインには漢字の他、平仮名で『あいり』と記されている。送り主の住所も苗字もない。しかし、届け先住所と宛名は書いてある。松重要。多分『まつしげかなめ』で良いのだろう。恐らく二人をモデルにした、ほのぼのと暖かな色彩で描かれている。

 イラストはこんなにも暖かいのに、何故彼女は送らないのか。テーブルに置いて帰るのか…。

何か訳があるのだろう…。

雨宮はそっと、心配していた。

 愛梨と松重要は、大学を卒業してから同居を始め、もうすぐ十年になろうとしていた。

彼女は、大学卒業後すぐ大手企業へ就職。そのまま十年程、勤めている。しかし、彼氏となる要は卒業後すぐ就職したものの、三カ月で退職。再就職しても長くは続かず、今はアルバイトもしていない。

 きっと天職は見つかる。

愛梨も始めは応援していた。しかし、年月が経つうちに諦めへと変わり、絶望へとつながっていった。

 同居して十年。彼女は、長いと感じた。

そんなある日、愛梨は荷物をまとめて出て行った。

 要は驚いていた。今までケンカらしいケンカもして来なかった。転職にはそりゃ、苦戦しているけれど、理解してくれていると信じていた。彼にとって十年は、ちょうど良い長さだと思っていた。けれど、彼女は出て行ってしまった。つなぎとめる言葉も、今は持ち合わせていない。

 愛梨がいない部屋。けれど引越す気にもなれず、待っていても帰ってくる可能性はないのかもしれないが、要は待ち続けた。いや、待っていたかった。

 そんな状況を雨宮は知る由もないのだが、ある日お会計の際に、彼女に声をかけた。

「貴女の大切な方を、ぜひご招待させて下さい」

彼は宛名のない宣伝用のハガキを手渡した。

「本日一杯無料とさせて頂きますので、どなたかご招待させて頂けませんか?その方もコーヒー一杯無料とさせて頂きます」

彼女は受け取った。

「…ありがとうございます」

戸惑いながら、ためらいがちに、けれどちゃんとバックにしまった。

 そして数日が過ぎた。

純喫茶『雨のち晴れ』に、ハガキを携えた男性客が現れた。

「…あの、コーヒーを頂く前に、このハガキ」

彼はハガキの宛名を見せた。

松重要。送り主は無記載。しかしそこは重要ではない。

「この筆跡、送り主の女性は常連ですか?」

雨宮は笑顔で答えた。

「お客様のことはお伝え致しかねますが、お好きなコーヒーを一杯差し上げます」

…そっか…。

要は少々ガッカリしたが、当然のことだとも思っていた。

「ありがとうございます。では、マスターおすすめブレンドを」

「かしこまりました」

要はカウンター席についた。

 雨宮は、コロンビアやブラジル、マンデリン等を配合し、コクのあるコーヒーに仕上げた。

「お待たせ致しました。本日のブレンドです」

要はコーヒーを一口飲んだ。

「…すげぇ」

なんか分からないけど、おいしい。普段飲むコーヒーとは全然違う。

 こんな素晴らしい喫茶店に、なぜ自分は招かれたのか。真っ直ぐ聞いても何も教えてくれなさそう…。

要はまず、自分の話を始めた。

 彼女とは大学の同期であること。十年共に過ごしたこと。就活が上手くいかないこと。出て行かれたことを。

 雨宮は一通り、静かに話を聞いた後、口を開いた。

「一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか?」

「ええ。どうぞ」

「ご就活が上手くいかないとは、何が原因か分析出来ていらっしゃいますか?」

「そりゃもちろん!」

要は自信たっぷりに答えたが、実のところ分析をしたことがない。

…原因分析…。

店を出た後、考えてみた。

 仕事がしたいと思ったとする。何をしたいか、今まで何をやってきたか、何がやれるか…っていうか、あのコーヒー、すごくおいしかったな…。

 あれブレンドとか言ってたな。

どんなコーヒー使っていたんだろう?どんな勉強したんだろう?どのくらいでマスターとかになれるのかな…?

 気づけば、コーヒーについてネットで検索を始めていた。

 一方、愛梨もその後、ハガキの件には一切触れることなく、変わらず絵はがきを描き続けていた。以前との違いがあるとするならば、店内の一番隅のテーブル席から、窓辺の席に座るようになったこと、ぐらいだろうか。

 愛梨はいつものように、絵を描いていた。

描きながら、ふと窓の外を眺める。

彼女の動きが、止まった。

歩道のガードパイプに男性が腰掛けて、店の窓辺にいる。

要!

彼女は要に、少し待っててと合図を送り、雨宮に声をかけた。

「あのっ!待ち合わせてた友人が来てて」

雨宮が店のドアを開けた。

チリンチリ…ン来店を告げるチャペルが響く。

「どうぞ中へ。お連れ様がお待ちです」

要が入店する。

「マスター、ご無沙汰しております」

「お帰りなさいませ」

雨宮は『いらっしゃいませ』とは言わない。

一度でも来たお客様に対し、お帰りと声をかける。雨宮は要を、彼女の座るテーブル席へ案内した。

 二人は向かい合って座っている。

雨宮は先日出した、同じ配合のブレンドコーヒーを用意した。

コーヒーの香りが、店いっぱいに広がる。

しばしの沈黙の後、愛梨が口を開いた。

「…いい香りね」

「…うん」

会話が広がらない。

「お待たせ致しました。おすすめのブレンドコーヒーです」

要は、まずは落ち着こうとコーヒーを一口、口にする。

「やっぱり、おいしいなぁ。マスター、コロンビアをベースに配合されてますよね」

「お見事でございます」

雨宮はにこやかに、答えた。

「…招待状くれたの、愛梨だよね?」

彼女は静かに、うなずいた。

「あの後、マスターのコーヒーが好きになって。コーヒー入門書とかも買って…」

もう一口、飲んだ。

「俺、いつかは専門店開こうと思って。今は就活中だけど、コーヒー専門店に入社して、いっぱい勉強して、それからお店を出そうと思ってて…」

愛梨は、優しく微笑んだ。

「要なら、やれると思うよ」

彼もようやく、笑顔を見せた。

 コーヒーを囲んで、暖かな時間が流れていく。

雨宮はカウンターから、窓の外を眺める。

しばらく晴天が続くといいな…。

彼は静かに願うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨のち晴れ 華月 @tsu-ki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ