第6話 懇願

 しばし呆然としていたが、我に返った私はひとまず先ほど突き飛ばした坊ちゃまの無事を確認した。

「坊ちゃま。ご無事ですか」

「あ、うん。大丈夫」

 少しこけただけだ、とでも言いたげな様子に肩透かしをくらう。あれだけ怯えていたのだからまだ動揺しているかと思ったのだが……意外と精神的にタフなのだろうか。

 私も衝撃から立ち直るにつれて、冷汗が流れそうになる。ゴブリンの魔法がたいしたことがなかったからよかったものの、もしも旦那様が使った魔法をゴブリンが使ってきたら。

(私は間違いなく、死んでいた)

 この体はごく普通の人間と大差ない。心臓を刺されれば死ぬし、病気にだってなるだろう。ゴブリンが怯えた気持ちもよくわかる。あの精霊、風と知恵の下位精霊シュトートだったか。あんなものに人間が太刀打ちできるわけがない。

 というか下位、という名前からすると上位精霊なんかもいるのか? ますます勝てる気がしない。

 ほっとしたのも束の間。

 旦那様に向き直ると先ほどのように怒りは感じないが、厳しい視線でこちらを見つめていた。

(ちょっと待って。この状況、不味くないですか?)

 私は私自身の心境はどうあれ、結果的かつ客観的に見れば坊ちゃまを守るために全力を尽くした。

 しかし旦那様がそう判断するとは限らない。人間という生き物は他人の働きをなかなか正当に評価しない生き物だ。特に、立場が下の相手に対しては。

 息子を危険にさらした無能者として処断される可能性はある。それを避けるために私がすべきことは……命乞いだ。

 惨めに泣き、無様に喚いて許しを請わなければならない。だがそんなことをしていいのか? 私は仮にも一団体の長だった記憶を持つ転生者。そんな誇りを投げ捨てるような真似が許されるのか?

(もちろん構いませんね!)

 心の中で即断する。くだらないプライドなど豚にでもくれてやればよい。私の命に代わるものなどこの世に存在しない。

(さあ来い旦那様! 命乞いの準備はできていますよ!)

 覚悟を決めてこちらに近づいてくる旦那様を表面上は尊敬のまなざしで見つめているふりをする。

 つかつかと歩みを進めた旦那様は……あっさりと私の前を通り過ぎた。

(あれ?)

 そして坊ちゃまの前で岩のように立ち止まり、その頬を思いっきり平手で打った。あまりにも強くぶたれたせいで地面に手をついた坊ちゃまは旦那様を呆然と見上げている。

「何をしている藤太! ゴブリンがいると言っただろう! なぜすぐに精霊を呼ばなかった⁉」

 かなりの剣幕の怒声を浴びせられ、坊ちゃまは声も出せずに怯えている。

 親子仲が良好には見えなかったけれどこれほどまでとは思わなかった。ヘイトが逸れたのはありがたい。ありがたいが……この状況をどう利用するべきか。

(奇貨居くべし、ですね)

 ここが勝負どころだと判断した私は意を決して旦那様に声をかける。

「申し訳ありません旦那様。私が坊ちゃまの邪魔をしてしまいました」

 私がしゃべるとは思っていなかったのか、振り返った旦那様の目は驚きにあふれていた。

「……今の話は本当か?」

「事実です」

 まっすぐ、目を逸らさない。大体の人間は何か後ろめたいことがあると他人を直視できない。もちろん、逆上することもあるのだが。

 予想通り旦那様は目を伏せた。

「……それなら、いい」

 その顔は苦々しく、後悔が見て取れた。……なんとなく、この二人の関係性がわかってきた。多分、ケレム様は藤太様に立派になって欲しいのだ。だから弱い所を見せた藤太に激昂した。要求が高すぎて過剰な教育が虐待に発展してしまうケース。それに対して藤太は期待に応えたいと思っている。

 あるいは、母親がいないからしっかり育てないといけないと思っているのか。よくある話だ。

 私にとっては実に都合がいい。

「お前たちは怪我をしていないのか?」

 旦那様はなるべく優しく聞こえる演技でもするように私と坊ちゃまに問いかける。

坊ちゃまはちらりと私に視線を送る。

「肩に黒い球のようなものが当たりました。それに何度か腕も殴られました。口の中も切れているかもしれません」

 私の美貌に傷がつかなかったことは幸いだ。

「黒魔法まで使ったのか。痛むか?」

 やっぱりあれは魔法なのか。黙って頷くと旦那様は肩に手を当てた。すると白い光に包まれ、少しだけ痛みが和らいだ。

(治療する魔法? 一瞬で怪我が治るわけじゃないみたいですが便利ですね)

「口を開けてみろ」

 少し上を向き、口を大きく開けて舌を出す。旦那様は顎を掴んで口の向きを微調整している。……何というか、今からキスでもされそうだ。まあただの治療行為ですが。

 やはり白い光が私の口元を覆った。

「応急処置はしておいた。後で本格的な治療を行うが、その前に組合に連絡しなければ面倒ごとになるだろう。藤太。お前も来なさい」

 まるで私と目を合わせることを恐れるかのように足早に家に向かう旦那様。

「は、はい」

 坊ちゃまはそれを追うが、一瞬だけ私と目が合う。それに対して私は笑顔だけを返す。それを見た坊ちゃまは申し訳なさそうな顔をしていた。

 ぽつんと庭に取り残される。さあ、それでは。

「いつの間にかいなくなっていた駄犬を問い詰めませんと」

 我知らず、とてつもなく凶暴な笑みを浮かべていた。

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