八 抽象画

 小出は英介の講評を聞いてから、用事があるからとホールを出て行った。

 標文すえふみは、啓と英介が次に描く題材について話し込むのを聞きながら、見知った顔に挨拶したりしている。

「椎名さんは今日は、お仕事かな」

 話が途切れたところで呟いた、標文の視線の先には確かに、椎名八重しいなやえがいた。

 八重やえは新聞『あかつき日報』の地域面を担当している。地域の催しものとして、この学校の展示を取材しているようだ。

 カメラを持った同僚らしい男性が先に気付き合図すると、八重はこちらに手を振り、一人で歩み寄ってきた。


「どうも!お久し振りです。覚えてらっしゃいますか?椎名八重です」

 英介と軽く会釈をした後、八重は標文に握手を求めた。

 事件の際、坂上家で顔を合わせている。標文は『あかつき日報』を購読している。啓がその後も八重の話をしているから、忘れてはいないはずだ。

 そういうやり取りに、無流といる時とは少し違う、社会人の顔がうかがえて新鮮だ。

「標文先生が最初に気付いたんですよ」

 英介がそう言うと、八重はいつも通り明るく笑った。

「これは失敬。坂上くんも元気そうで良かった。さっき小出くんには会ったけど、和美くんは?」

「法事の手伝いだそうです。展示は、来週末に無流さんたちと回るって言ってました」

 無流と聞いて一瞬おどけて見せてから、八重は啓たちの展示の方に目をやった。


「絵の感想を言おうと思ったんだ」

「そっか、八重さんはどの現場にもいたから、和美と同じ光景を見てますもんね」

 和美が今回の絵に描いた場所には、小出も、八重もいた。八重は指を立て「そう」と頷いた。

「やっぱり、事件で見た光景だよね。多分そうだろうなと思った。暗いところで見えたものって、明るいところではっきり見えてる時よりむしろ、記憶に残るでしょ――ひと気のない夜道の心細さとか、小出くんを探しに行った時の空気とか、緊張感がよみがえった。一般的な評価のことは置いといて、和美くんに直接、言いたくて」

 八重に釣られ、また和美の絵を眺める。

「和美くんの絵はいつも、命の輝きと流れを表現するような作品だけど、今回は、光と闇の温度が描かれていますね」

 光の色と、闇の色。闇にも色の違いや重さなど、違いがあるのだ。

 英介が言うと、標文も頷いた。

「物の質感が面白いし、筆の流れに禅庭園ぜんていえんに似た美意識を感じる。枯山水かれさんすいも、真上から見ると幾何学的きかがくてきに整っているが、立つ場所や見る角度、その日の天候でも見え方が違う。題材の影だけでなく、絵の具でできた凹凸おうとつで更に明暗が生まれるのも面白いな」


「ああ――枯山水かれさんすいって抽象画ちゅうしょうがなのね?」

 八重が妙に納得しながら言って、一同、なるほどと思う。

 道具の形状によって絵の具の凹凸おうとつができるのが面白いとよく語っているが、確かに、生まれ育った禅寺の美意識が表れているのかもしれない。

「和美のうちの庭かぁ――確かに、あそこのお寺、庭も凄く明るくて綺麗なんです」

 標文はいつもだが、八重が誰より即座に理解し、直感で得たものをずばりと言い切ったことに、記者らしさを見た気がする。

「私、もう行かないと。お話、凄く面白かったです。ではまた!」

 八重が足早に去るのを見送り、話の続きは帰り道でもできると、啓たちも出口に向かった。

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