七 執事
愛子に店番を任せ、北原が画廊の応接間に戻ると、彼は扉の脇にかけてある絵をぼんやりと眺めていた。
「その絵、私が小さい頃に、志麻さんが描いてくださったんですよ」
「志麻様が――?」
倉庫で見付けた北原の肖像画は、和室と洋間の二つある応接間の、洋間の方に飾った。
「顔に怪我をしてからしまい込んでいたんです。でもまた、飾ることにしました」
「画廊にずっと飾ってらしたのは、覚えています。そうですか――あの方が描かれたんですね」
老執事――
何か考え込んでいるような顔付きだったので、時間が許すなら志麻たちについて話を聞きたいと言うと、やっと、椅子にかけてくれた。
歓談用のテーブルとは別にある大きなテーブルに置かれた品物は、全部で十四点。時代はばらばらで、箱と中身が符合していない物もある。
劣化の著しい物は箱を開けずとも良いと先に言われたため、とりあえず傷みの少ない物だけ目を通す。鑑定や査定はせず、大きさや形状を記した覚書と預かり証を渡した。
北原は自分の感性で選んだ物に値段を付けて売るかたちの画商であり、古美術が専門ではない。だが、家にあったが何だかわからないので、ついでに引き取ってくれという依頼はよくある。すぐに値段がつけられる物は古物商や質屋に繋ぎ、文化的な価値が高い物は美術館や博物館へ繋ぐ。そこまで市場価値が無くても、自分が気に入れば買い取る物もある。
まだ価値の見当はつかないが、作品自体の質はいい。北原が指名されたのは、作品を気に入る人間に渡るようにということだろう。
「こちらは全て、志麻さんの私物ですか?」
ひと息ついたところで訊ねると、
「判断がつきませんでした」
「ご病気の時は
「三年前にこちらに――あの方がいらしたんですね」
会話は成立しているが、微妙に噛み合っていないように感じる。
「ええ。そういえば、あの日は五十代前後に見える背の高い男性とご一緒で、汲田さんはいらっしゃいませんでしたね」
入口の外で待っていて紹介もされなかったので、運転手なのだと思った。
それまでも、汲田が同行しないことはあったので特に気にしていなかったが、まだ、噛み合わない。
汲田が微かに驚いたように見えたのは一瞬だけで、困惑はしていない。
「――志麻様は、投薬治療で感覚が鈍ってはいましたが、思考自体の筋は通っていました。思い出すのに時間がかかることはあっても、記憶力は衰えませんでした。ご自身の持ち物に関しては、処遇を決めていただけました」
「そうですか」
北原の質問の仕方が悪いのかもしれない。汲田に会話の主導権を委ね、聞き手に回ることにした。
「
「ではこれは、本人の遺品ではなく、
うっかりまた、結論を急ぐ質問をしてしまった。汲田は北原の質問に答えてくれてはいるのだが、明らかに困っている。だが、問われる可能性は想定していた感じだ。
「末主家の物は定期的に目録を作り直しておりましたので、不明なものでも最低限、いつからあったかの記録はあります。こちらは志麻様のご実家の――
説明の難しい時というのは、経緯が複雑であるか、どこかに秘密が関係していて、それを避けて話すのが不可能に思える時だ。先にいくつか訊ねたことが邪魔になり、避けて話しても北原が秘密に気付いてしまうからかもしれない。
「汲田さん、もし話し難いことなら無理にお話いただかなくて結構です。ですが、私に話して楽になるようなら聞きますよ。秘密は守ります。私に何かできるなら、お手伝いします」
北原はあまり、志麻の実家のことを知らない。父が昔、語ってくれたのかもしれないが、自ら語らない限り、客には家族や家のことはあまり質問しない。志麻とは、絵画や美術の話をしていれば時間があっという間に過ぎた。旅行の土産を持って寄ることも多かった。
「
「嫁いでも、本人でなく娘だけ柄楠に戻れるということですか」
家父長制だと、妻が不貞をはたらいて、夫が知らないまま続いてしまえば血の繋がりが確かなものでは無くなる。女系で続ければ、どんな男との子であろうと、血の繋がりだけは確かだ。
「そうです。話を戻して申し訳ないのですが……三年前こちらにお邪魔した女性は、志麻様ではありませんね」
「え?」
先ほどの違和感の理由はわかったが、だとしたら、誰なのか。それを知らないから、噛み合わない。
「北原さんは、どちらの志麻様にもお会いになられた数少ない知人です」
「どちらのって――どういうことです?」
答えを言っても答えにならない。そんな感じだ。
言葉の意味から言えば、二人いるか、二種類の状態があるということになる。
「あの絵を描かれたのは、どんな経緯でしたか?」
汲田は、幼い北原の肖像画を見ながらそう尋ねた。
「父と末主家に画材を届けに行った際、志麻さんが描いてくれると――欧州から呼んだという画家の男性のいる、アトリエのような部屋です。当日は仕上がりませんでしたが、後日、仕上がったものが北原家に届けられました」
汲田はおもむろに立ち上がり、持ってきた中で一番小さな油絵を北原に見せた。
「画家というのは、この方でしょう」
「そうそう、その方です」
白人男性の横顔が描かれた絵は確かに、北原が知るより若い頃と思われる、彼の肖像だった。
作風は志麻の筆致とは違う、かなり癖のある筆運びだ。画家自身が描くなら、横顔を描くのは面倒だから、彼とは別の画家が描いたのだろう。
「彼はスミット氏。あなたの肖像画を描いた女性は
「双子」
厳しい印象だと思っていた志麻が、アトリエでは遊び心のある気さくな女性だと思った。末主家を訪ねたのは、あれが最初で最後だ。
北原が継ぐ前から、画廊を訪れる志麻とは概ね楽しく過ごしていたが、言われてみれば、体調が悪い時と機嫌の良い時の差が大きいと思っていたかもしれない。
だが、志麻さんと呼んでも訂正されなかったのは一体、どういう訳なのだろうか。父親もそうだった。アトリエを訪ねるほどの仲なら知っていても良さそうなことなのに、不思議だ。
最後に会った時も、その前と、まるで別人みたいだと思ったのは――つまりは、別人だったということだ。
北原は予想外の展開に戸惑いながらも、椅子をテーブルに寄せ、汲田の次の言葉に備えた。
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