ハニカムランド――永久少女大陸――

ポピヨン村田

『彼』の終の日

やわらかい陽光のが差す、ふかふかの草のベッドのの上で、少女たちが歓声を上げて戯れている。


 女王サマ、女王サマ、そう呼んで自身を慕う少女たちを慈しみながら、女王は空を見上げる。


 女王は言う。


 地上には、もうずいぶん長いことミツバチが飛んでいないの。


 でも大丈夫。『彼』を解放する時が来たわ。


 長い冬が終わるのよ。


 外界とハニカムランドを隔てる透明なドーム壁の向こうには、幾百年降り止むことのない大雪が、相も変わらず地上を氷の国へと仕立て上げていた。 




 その現象を、過去の偉人たちは『全球凍結』と呼んだらしい。


 ある時から地球の一切合切が氷と雪に覆われ、それまで地上を席巻していた生物は、まるごと死に追いやられた。


 ほんのわずかな人類だけがしぶとく生き残ったが、文明は捨てて逃げるしかなかった。


 地上の片隅に残された、周りに比べたらほんの少しだけ暖かい場所に集まって、生き残った人間たちは身を寄せ合うようにして暮らしている。


 そんな数少ない生き残りでさえ、きっと、もうすぐ……。




 ハザマ少年は、もうとっくに手足の感覚をなくしていた。


 生まれてから共同体コミューンを一歩も出たことがないハザマにとって、前後左右から容赦なく吹き付けてくる怪獣のような吹雪は、聞きしに勝る地獄の使者だ。


 呼吸すらままならない。このままでは身体の先端から、凍傷で腐ってしまう。


 それでも、歩みを止めることはできない。


 救おうとしている女たちに止められながら、ハザマはそれを振り切って故郷を旅立ってきたのだから。


 しかしひとかけらの命の存在も許さない沈黙の世界は、少年ひとりなど実にあっさりと雪に沈めた。


 倒れ伏したハザマは、容赦なく雪に飲まれる。


 大見えを切っておいて、ここまでか……。ハザマは降りてくる瞼を止めることができなかった。


 しかし最期の瞬間に見たものは、一面を白に塗りつぶされた無機質な大自然ではなく。


 女の――、少女の、顔だった。



「こちら探索隊№44ハナコ。未登録区画エリア73にて生存の可能性有りの規格外・放浪者ストレンジャーを発見。管理者サクラに判断を求む」


 一寸先もが吹雪で隠される世界の中に、一筋の光があった。


 光の主はちいさな身体でずんずんと深い雪をかき分け前進し、とうとう虫の息の人間を掘り合てるに至った。


 雪中で活動するための技術の粋が詰まった頑強で堅牢な装備に身を包み、無機質なゴーグルで白き死の世界を見る者――その正体が可憐な少女であったことは、無線を通して語りかけた者のみが知る話である。


『こちら管理者サクラ。了解。探索隊№44ハナコに命令する。また、これより管理者権限により、無線通信にレベルAの暗号化を設定する』


 管理者サクラが大きく息を吸い込む様子が音声として伝わってきた。


『……ハナコ、その放浪者を連れ帰りなさい。誰にも見られてはいけないわ。極秘裏に行うの。女王様にも報告してはいけないわ』


「了解。管理者サクラ」


『……あと、それから』


 管理者サクラは、たしなめるような口調で言った。


『二人きりのときは、私のことをおねえさま、って呼ぶようにいつも言っているでしょう?』


 それに対しハナコは、


「はいお姉様。身体保定」


 と淡々と返し、氷の彫像と化していた放浪者を拾い上げると、背負っていたバックパックに機械的に放り込んだのだった。


 バックパックの内部で放浪者の身体を固定する音と、スピーカー越しのちいさなため息が、ハナコの耳に届いていた。



 ハザマ少年は夢を見ていた。


 全球凍結の訪れから間もなく、人間の心は急速に荒んでいき、それまで人類が積み上げてきた倫理はすぐに見る影をなくした。


 男は現実の辛さから逃れるべく、女を道具として扱うようになった。ただでさえ過酷な世界の下で、女はどんどん死んでいった。


 女が減れば子供は生まれず、人類の滅亡は加速度的に近づいてくる。


 それでも男は女を馬車馬のようにこき使い、『搾取』をやめない。


 けれども、ハザマの共同体にはたったひとつだけ、間違いなくヨソにはない希望が存在する。


 原始の時代もかくやというほど生活水準の後退した共同体の文化レベルを幾段も押し上げた天才科学者と、『彼』の愛したひとりの美しい少女の、儚くも美しく、そして健気でいじらしい恋物語。


 ああ、自分もいつかそんな恋をしてみたい。『搾取』のない世界で、愛おしい人を見つけて――。



 ずいぶんと賑やかだ。耳元がかしましい声にくすぐられている。


 遠くから運ばれるに幸福の賛歌に身を包まれ、なんだかとても心地が良い。そのうえふわふわとした暖かい物が、全身をくるんでいる。


 これが、『彼』の残した文献の中にあった、春という季節――?


「ハッ」


 ハザマは勢いよく半身を起こし、そして呼吸した。


 生きている。


 そして、五体も満足だ。


 夢の続きかと思ったが、意識が鮮明になっていくにつれ肉体の重みに気づき、今自分が清潔なベッドに寝かされている受け入れがたい奇跡も現実なのだと知ることができた。


「お目覚めね。よかった、医療班を呼ばなくて済んだわ。本当によかった」


 女の声がした。


 視線をやれば、見知らぬ女が壁に寄りかかり、腕を組んでハザマの顔を見ている。


 女は、地上すべてが凍りついた星の住人とは思えないように薄く、また機能美とはかけはなれた装いをしている。物語の中の天女の如くきらびやかな純白のドレス姿は、女の豊かな生活をそのまま象徴していた。


「お、お前は――雪の中で出会ったよな――?」


 女は顔をしかめる。


 女という生き物が露骨に嫌そうな表情をして自分を見る瞬間に生まれて初めて立ち会ったハザマは、面食らった。


「初対面なのにご挨拶な坊やだこと。……でも、この際贅沢は言っていられないわね」


 女が何かの装置に手を触れると、目に優しい色をした絨毯の一部に丸い切れこみが入り、そのままにゅっと上に向かって伸びた。


 丁度腰の高さになった丸に、女は優雅な立ち振る舞いで座る。どうやら椅子だったらしい。


 ハザマはその様子に息を飲んだ。


 ほんのちいさな火を守るストーブを神の道具と呼んではばからないハザマの共同体が子供だましに見えるほどの、恐ろしい技術力。それを、女ひとりが当たり前のように扱うほど恵まれた環境。


 間違いない。この場所こそが恋人との駆け落ちの末、『彼』が造った大陸の最後の楽園――。


「ハニカムランドへようこそ、外界の少年。私はサクラ。この居住区の一角の労働者階級をまとめ上げる管理者の立場にあるわ」


「やはり、ここがハニカムランド!」


 歓喜のあまり身体が跳ねたハザマは、サクラに掴みかかろうとし途端心臓がぎゅっと締め上げられたような感覚を覚えて胸を押える。


 肩を上下させて苦しむハザマを見てサクラはぎょっとしていた。


「ちょっと……大人しくなさい。まずは私の話を……」


「頼む! 俺の名はハザマ! 大陸の果ての共同体の者だ! どうか我が故郷を助けてほしい!」


「……この国であなたの素性を言うのは禁止するわ。あなたの身の為にもね」


「サクラとやら……俺の故郷はどうしようもなく、貧弱で困窮している……どうしてもこの国の技術力を持ち帰りたいのだ! そのためなら何だってする! 何だって……」


 サクラの言葉を遮ってまで主張を続けたが、ハザマはすぐにせき込んでしまって何も言えなかった。


 しばらく、ハザマは空気を求めて必死にあえぐ。


 その間、サクラは何もせずにその様子を注視していた。故郷の女ならこんなときは何も言わずに背中を撫でるものだが。


「……話をしていいからしら、ハザマ」


 ようやく肺が落ち着いて空気を取り込めるようになったハザマは、淡々としたサクラの口調に困惑してしまった。


 どう考えてもあの吹雪の中を助けてくれたのはこの少女だが、その少なくない労力を払った『献身』は、この様子だと親切心からではないらしい。


 では、一体何の目的が――?


「お姉様、入ります」


 そのとき、唐突に、どこかから、主のいない声が鳴り響いた。


 ハザマは思わず身を屈める。しかしサクラは動じず、何もない空に向かって頷く。


 その際、サクラの目元が緩んだのを盗み見たハザマは、それを目の錯覚かと思った。


 人の手に触れられず開いた不思議な扉から、もう一人の少女が現れた。


「ハナコ。任務お疲れ様。御覧の通り外界の君が目を覚ましたわよ」


 少女はツカツカとベッドまで歩み寄り、ハザマの顔を見止める。


 武骨で地味でずいぶんとガタがきている作業着姿だが、ジッと、どこまでも無垢な瞳を一身にハザマに注ぐその視線の持ち主は、サクラと寸分違わぬ容姿をしていた。


「……ハザマ。この子は私の妹のハナコ。氷の大地に迷い出たあなたを助け出した、いわば恩人よ」


「……お前が……」


 なるほど、気を失う寸前のことはよく覚えていないが、確かにこの少女の顔を、見た気がする。サクラと姉妹でしかも同じ顔ならば、間違えるのも道理だ。


 ハナコはハザマの顔を、飽きることなく見つめていた。


 サクラもハナコも豊かなるハニカムランドの住人だけあってか、栄養が身体中に満ち足りた張りのある肌をしている。その上『彼』の見初めた美しい少女の子孫だけあってか現実離れした美貌の持ち主なので、故郷の女と違いすぎる贅沢な容姿がハザマをどぎまぎさせた。


 どうにもハナコの視線がくすぐったいハザマは話を本題に戻す。


「サクラ……ハニカムランドの者ならば『彼』とその恋人である少女の物語を知っているだろう? 俺は『彼』と同じ場所から来たのだ。どうか俺の願いを……」


「お姉様、お姉様」


 懇願の途中だと言うのに、ハナコはサクラの袖を引っ張って無遠慮に会話を遮った。


 サクラもサクラで、妹に話しかけられたらすぐにハザマを蚊帳の外に置いてでれっと表情を崩す。


 ハザマはむっとしてサクラの注意を引き戻そうと口を開くが、逆にハナコの言葉に気がひかれて黙ってしまった。


「どうしてこの人間は私達やお姉様とのですか?」


 ハザマはきょとんとする。


 この子は何が言いたいのだろう。


 顔が違う?


 サクラとハナコの姉妹が人外であるならいざ知らず、同じ人間であるならば目も口も鼻も同じだろう。


 ハナコの奇妙な言動に考え込むあまり口を噤んでしまったハザマを見かねたのか、サクラは片手を壁にさらした。


 そして、無を撫でるように左から右へ、大きく中空を掻く。


 すると一面の壁でしかなかった場所に、サクラの手の動きに合わせて光の洪水が忽然と生まれ出で、ハザマは思わず目を腕で覆う。


 気づけば周囲から一切壁がなくなり、辺り一面が屋外に面していた。


「なっ――」


 それだけでも十分に目を疑う光景ではあったが、唐突に、ベッドごと外に放り出されたハザマが目の当たりにしたものは、何もかもが常軌を逸したハニカムランドでも特に際立った異質さを放っていた。


「大丈夫。ここは居住区の一室で、外からはの様子は視認できないわ」


 サクラが何か言っているが、それどころではない。


 街にひしめく天を衝くほどに巨大な建物群。往来には四角い光があちこち浮かび上がり、その中で休むことなく絵が動き続けている。引手もないのに恐ろしい速さで走る車、相変わらず荒れ狂う吹雪を遮る街を覆う透明な天蓋、どういう理屈でそうなっているのか全くわからない、街中で絶え間なく浮遊する虫のような形をした謎の巨大オブジェ――。


 そしてそこにひしめく人、人、人――。


 その人は、みな――。


「改めてハニカムランドへようこそ、ハザマ。ここは『彼』が造った人造都市にして『彼』の連れてきた少女ミライが女王として君臨する奇異の王国よ」


 街を行き交う住人。誰もが自身が幸福であることを疑わず、愛の歌を歌いあげる人々。


 は全員、サクラ、としてハナコと全く同じ顔をしていた。



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