第03話 虜囚の宵子

 宵子は過去の世界にいた。

 それは夢を見ているようなものかも知れない。

 夢の中でなら、優しかった父と母にいつでも逢えるのだから。


 公園で遊んでいる、三歳頃と思しき宵子。

 すぐそばのベンチに腰掛けた両親が、満面の笑みを浮かべて宵子を見つめている。

 ブランコ、すべり台、鉄棒――宵子は楽しく遊んでいるだけなのに、「うまいぞ、宵子」という父からの声援がかかる。宵子はそれがちょっと照れくさくなって、母に駆け寄るとその陰に隠れた。

 だが、父が両手を広げて名前を呼ぶと、宵子はあどけない笑みを浮かべてその腕に抱かれるのだった。


 五歳の頃。

 遊園地でソフトクリームをねだる宵子。

 父と母に挟まれて歩きながら、ソフトクリームなめている。食べるのが遅いものだからソフトクリームはだんだん溶けてきて、宵子の手をベットリぬらしてしまった。

 母にハンカチで拭いてもらいながら、宵子はこんな失敗をしてしまった自分がおかしくなってケタケタと笑ってしまう。母もつられて微笑んでいる。


 七歳の頃。

 終業式の日。

 宵子は寄り道もせず帰ってきて、在宅していた母にオール5の通知表を見せた。

 母は目を丸くして驚くと、「今日は外で食事をしましょう」と声を弾ませる。

 オール5の連絡を受け、残業をせずに帰宅した父と合流すると、親子三人で駅前の有名レストランに向かった。宵子が頼んだのはハンバーグステーキだった。じゅうじゅうと熱い湯気をたてる鉄板の上のハンバーグを前にして、宵子は「いただきます」と手を合わせた。そして両親とハイタッチして喜んだ。


 そして十歳。つまり七年前。

 消防車と救急車のサイレンに胸をかきむしられるような焦燥を覚える。

 宵子は急ぐ、とにかく走って自宅へと急ぐ。

 はたしてそこで見たものは、オレンジ色の猛火にシルエットだけがはっきりと浮かび上がる我が家の姿だった。消防車の放水が何の役にも立たないほど、炎が荒れ狂っている。

 全焼した我が家からは、たいしたものは見つからなかった。

 当初は両親の遺体も発見されなかったことから、二人は外出していて火災には巻き込まれなかったのかもしれないという希望さえわいた。

 だがその願いもすぐに打ち砕かれる。

 指と指を絡めあった一組の男女と思しき手首の骨が見つかったのだ。

 それが宵子の両親のものであることは疑いようがなかった。

 彼女は三日三晩泣き尽くした。

 絡みあった指と指。手首の骨だけになってもお互いを求め合った両親の愛情に、宵子は最高の夫婦の姿を見た気がした。

 だがその両親はもう二度と戻ってこない。宵子は一人になった。孤独になった。父と母がいてくれれば。父と母さえいてくれれば……。

 そんなあるとき、いつものように宵子は両親の遺骨を見つめていた。

 宵子は両親の手首の骨をそっと持ち上げると、それを自分の目の前にまで持ってくる。

「……んっ」

 そしてたまらずその骨を食べた。両親とともに在り続けたいという一心だった。

 それは越えてはならぬ一線だったのかもしれない。

 だが、突き上げる衝動が収まることはなかった。

 ――目覚めると泣いていた宵子。心臓の鼓動が速い。



 時女宵子が目覚めたとき、最初に瞳に映ったのは煌々と光る満月だった。

『綺麗……』

 宵子は、自分がどのような状況に置かれているのか、まだ深く考えるには至っていない。

『確か、死ノ儀くんと自転車で美鶴神社に向かって……それからどうしたんだっけ?』

 白い霧の中に埋没していた記憶が、徐々に輪郭を取り戻してくる。

 そうだ、麒族を見た。三柱の大きな麒族だ。

 そのうちの二柱を、死ノ儀流一郎が鬼包丁で叩き割った――ところまでははっきりと覚えているが、その先が判然としない。

『残った一柱の麒族はどうなったんだっけ? あの天狗のような麒族は……』

『そうだ、死ノ儀くんは今、どこにいるんだろう?』

 そこまで考えてハッとした。ここはどこだ? と。

 背中全体にチクチクとした感触。そして濃厚な土の匂い。

 宵子は、自分が芝生の上に仰向けで寝ていることを悟った。

 視界には満天の星空と美しい満月、そして巨大な石……いや岩がそびえ立っているのが見えた。

 宵子は、なぜかこの景色に見覚えがあった。しかしあまりにも何気ない記憶だったものだから、それをいつ見たのか思い出せない。でも確か、死ノ儀流一郎と一緒に見たことだけは間違いなかった。

『あっ、美鶴神社の――』

 そうだ。美鶴神社を初めて訪れたとき。石段を上る途中で、ふと振り返って見た景色。

 巨石遺跡・カミヤムネ。

 そう、自分は今、カミヤムネにいるのだ。

 どういう経緯でそうなったのか、宵子にはやはり記憶がない。しかし、状況から察するに、自分が極めて危険な状態にあることは理解出来た。おそらくは今、自分は目覚めていることすら誰にも悟られてはいけない。

 誰に? ――決まっている、麒族たちにだ。

 宵子はゆっくりとしたスピードで、ほんの少しだけ首を巡らせた。

 右のほうに、ほんの少しだけ。

 すると、あたりには直立した巨大な岩がいくつも並んで立っていることが分かった。やはりここは巨石遺跡・カミヤムネの真っ只中なのだ。そしてそれらの岩の一つにもたれかかっている存在があった。岩が大きすぎて錯覚を起こしてしまいそうになるが、その存在もかなりの大きさだ。少なくとも身長三メートルはある。鼻高天狗がそこにいた。美鶴神社で遭遇したものと同じ個体なのかは分からない――いや、同じ個体なのだろう。顔の右半分がひび割れて崩れてしまっている。あれは確か、巫女隊の弓矢によって負った傷だ。

 宵子はしばらく鼻高天狗を見つめていた。

 するとどうだろう、彼は静かに羽ばたくと麓のほうへと飛び去ってしまった。

 宵子の脳は、だんだんと物事を考えることが出来るようになってきた。

 もっと情報が欲しい。宵子は続いて左のほうに首を巡らせる。

 ギョッとした。

 すぐそばに数柱の麒族たちがたむろしていたからだ。こんな至近距離にいながら、何の気配も感じなかったことに宵子は驚いた。もう少しで声を出してしまうところだった。

 ただ救われたのは、麒族たちが遠くの景色を眺めていたおかげで、直接目を合わせなくて済んだことだ。宵子が目覚めていることはまだ誰にも知られていない。

 宵子はもちろん麒族の専門家ではないが、それでもはっきりと分かるのは、ここにいる者たちの全てが一流麒族だということだ。

 なぜ、一流麒族だと思ったのか。それは彼らの佇まいが「人」としか形容のしようがなかったからだ。もちろん、巨大だったり、羽根が生えていたりはするのだけれど。しかし「人」だからこそ、理解しあえるはずだし、逆に憎しみあうことも出来るような気がする。この感覚は間違っていないと宵子は思う。

 かくして宵子はだいたいの状況を把握した。客観的に考えれば、これは絶体絶命としか言いようがない。夜の山中で一流麒族たちと過ごして命長らえるはずがない。一体、自分がどんな最期を迎えるのかすら想像がつかない。

 しかし宵子は絶望しなかった。

 死ノ儀流一郎が助けに来てくれるという希望。信頼感。

 そういった思いがある限り、宵子は決して絶望したりはしない。

 呼吸を整え、鼓動を落ち着かせて待てばいい。

 彼は来る。だってそういう人だから。

 だが、そうは思っていても、心臓の鼓動だけは早鐘のように打ち続けた。

「気分はどうだい?」

 突然話しかけられて、宵子は息を呑んだ。口からヒュッという変な音が漏れる。

 宵子は声がした方向――彼女にとっては上の方向に首を巡らせた。

 そこに知っている顔があった。

「餓鸞童子……」

「その名前は人間が勝手に付けたものだけど……まぁいいよ、僕の本当の名前は、君たち人間の耳では聴き取ることが出来ないだろうからね」

「聴き取ることが出来ないってどういうこと?」

「ははははは。そんなことを知りたいんじゃないだろう?」

「…………」

「知りたいことを教えてごらん」

「――私をさらってどうするつもり?」

「どうされたいんだい? 僕は一刻も早く殺してしまいたかったんだけど、他の仲間たちがきみを利用したいというからね……仕方なくここに放っておいたのさ」

「利用?」

「きみは、自分を助けに風月丸がやって来ると考えているだろう?」

「来るわ。だってそういう人だから」

「来たって大したことはないけどね。だって彼の手にはもう鬼包丁がないんだもの」

「鬼包丁がなくても彼は強いわ。きっと何とかしてくれる」

「何とか――ねえ。きみはずいぶんと考え違いをしているようだね」

「何がよ? 話をはぐらかさないで」

「はぐらかしてなんかいないよ。風月丸が来たところで、何も怖くないと言ってるんだ」

「…………?」

「分からないかなあ? 僕たちが恐れているもの。その本質を突き詰めればおのずと答えは出てくると思うんだけど……人間というのはつくづく愚かだね」

「私には、あなたが痩せ我慢しているようにしか聞こえないんだけど」

「じゃあ教えてあげよう。僕たちが恐れているのは、風月丸のような渡殺者わざものたちじゃないんだ。鬼包丁のように、まがつ鋼で出来た業物わざもののほうなんだよ」

「まがつ鋼……」

「宇宙の星々と大いなる大地が生み出した忌まわしい鋼さ。僕たちの身体をセラミックに変貌させる忌まわしい物質。宇宙の真理が設定した、僕たち麒族の唯一の弱点」

 宵子は少し混乱した。星々と大地? 宇宙の真理?

「まがつ鋼さえなければ、僕たち麒族は永遠に夜闇の住人でいられたはずなのに」

「でもあなたたちは人を食べるんでしょう? どっちにしろ人間たちだって黙っていないわ。放っておいても争いは必ず起きる」

「そうだね。それもまた宇宙の真理だ。僕たちは憎しみ合うように作られている」

 餓鸞童子は妖しく笑い、言葉を続けた。

「フフフフ……ようやく意見が一致したね。麒族と人間が理解しあえた。なんて奇跡だ!」

「茶化さないで!」

「本当のことなのに」

「そんなに死ノ儀くん――風月丸のことがどうでもいいんだったら、どうして私を人質みたいに扱うの? 彼をおびき寄せるために私を利用しているんでしょう?」

「そうだね。渡殺者のことを恐れていないとさっきは言ったけど、それは少し訂正させてもらうよ。渡殺者のことは恐れてはいないけど、憎んではいるんだ。だってあいつら、まがつ鋼を使うからね。だから風月丸を無視するわけじゃない。あいつは殺すよ。先代の風月丸には痛い目にあわされたからね。末代まで祟るなんて言わず、この代で終わらせてあげるのさ。三十八代目か……長い付き合いだったけれど、これで終わりだ」

 餓鸞童子が宵子の顔を覗き込む。

「それはそうと、きみの身体からはいい匂いがするね。なんてかぐわしいんだろう」

 そう言うと餓鸞童子は宵子のうなじに鼻を寄せた。

「やっぱりそうだ、これは死人の匂いだ」

「――!!」

「ははは。そうか、きみは人間を食ったことがあるんだね。あぁ、なんておぞましい。まるで麒族のようじゃないか」

 そう言って笑う餓鸞童子。

「違う、私は……あっ!!」

 宵子の胸に青白い炎が宿った。

 それはかつて、流一郎の部屋で見た鬼包丁が放つ光に似ていた。

 餓鸞童子がいぶかしげな表情を見せる。

 もう宵子自身は分かっている。

 自分が何をしたのかを。

 そして自分に何が起こっているのかも。

 ガシャーーーーン!!

 すぐ近くで破砕音が響いた。流一郎がやって来たのだ。

 宵子は跳ね起きた。一流麒族に囲まれた状況でも、流一郎が来てくれたというだけで、彼女には無限の勇気が湧いた。

 一流麒族たちも、音がした方向を一様に見やっている。

 彼らにとってみれば、今から流一郎を虐殺するという宴の始まりなのだろう。

 だが、これから起きることを正しく理解しているのは、おそらく宵子一人だ。そういう確信が彼女の中にはあった。

 満月の輝きがあたりを照らしている。

 その月明かりの中に、流一郎と五郎の姿が浮かび上がった。その姿はボロボロで、ここに至るまでに数々の激戦を繰り広げてきたことが見て取れた。

 周囲を徘徊していた二流麒族たちが一斉に流一郎に飛びかかる。流一郎は臆することなく前に出ると、金属バットを振り抜いた。破砕音が連続してあたりに轟き、二流麒族たちは粉々に飛び散った。

 ぐにゃりと曲がった最後の金属バットを投げ捨てると、流一郎は一流麒族の集団に向かってこう叫んだ。

「貴様ら! まつるぞ!」

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