第23話 兄を愛する人
一夜明けたがセシリアは戻ってこなかった。
僕の頭も冷えて仲直りしたい気持ちが無くはないが、自分から探しに行く気にはなれなかった。
部屋を出ると若い女性が床の掃除をしている。
彼女は僕を見つけると小走りで駆け寄ってきた。
「アリスタルフさま、よく眠られましたか?」
「えっ、ああ……おかげさまです」
二十歳位だろうか。
痩せぎすで少し釣り目なのでキツそうな印象を受けたが、
派手な美人ではないけれど素朴で暖かみのある好感が持てる女性だ。
「アレクサンドル様は騎士団の屯所に呼び出しがかかっているみたいですけど、できる限り早くこちらに来られるようです。
どうぞそれまでくつろいでくださいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
丁寧な言葉遣いをしているが、どこか気安さを感じる。
平民が騎士爵の人間を相手にする時はもっと畏敬というか警戒して然るべきなのに。
…………僕がこういうことを考えているといつもならセシリアがあーだーこーだ言ってくれるんだよな。
早く慣れないと。
彼女がいない時間がいつか当たり前になる。
親からの子どもが巣立つように、親しい相手との別れを繰り返すことは通過儀礼なのだから。
「アリスタルフさま?」
ぼーっとしていた僕を気遣うように彼女は声をかけてきた。
彼女のオリーブ色の瞳から発される視線は柔らかく甘みを帯びていて、思わず胸が高鳴る。
「大丈夫です。
あの、お名前を……」
僕が尋ねると、彼女は襟を正すようにして自己紹介を始めた。
「申し遅れました。
オーガスタ伯爵領サラトの街の保安官セルゲイ・ファミルが次女、イリア・ファミルです」
「イリアさん、ですか。
改めて、僕はヴァーリ・ランパードが次男アリスタルフ……もっとも勘当されているので家名を名乗ることは許されていませんが」
「アレクサンドル様はあなたを弟だと言っておられました。
追い出してしまった弟が逞しくなって帰ってきてくれたと、それはもう嬉しそうに。
貴族様がたの事情は複雑ですけれど、きっと、お兄様はあなたによくしてくださると思います」
イリアさんの笑顔も心浮き立つような喋り方も、眩しすぎて目が焼かれる思いだった。
呪いの言葉を吐いて家族を仇ではないかと疑っている僕の醜さが際立つようで。
その後、イリアさんは朝食を出してくれて洗濯物もきれいに折り畳んで返してくれた。
姉と妹は既に他家に嫁いでおり、彼女が家事を切り盛りしているという。
テキパキと働きながら疲れている様子も見せず、くつろいでいる僕と目が合うと柔らかく笑いかけ会釈してくれる。
単純でどうしようもないけれど、僕は彼女のことが好きだと思い始めている。
「ひどいもんだな。
女の人を傷つけて追い出した翌日にこんな気分になるなんて」
セシリアが言葉を返してくれるわけでもないのに独り言を漏らす。
落ち込みそうになったその時、イリアさんが声をかけてくれた。
「アレクサンドル様の代わり……とはなりませんけど少しお茶でもいたしませんか?」
コケティッシュな微笑を浮かべる彼女に誘われて僕はホイホイと応接間に移動した。
紅く透き通る紅茶がカップに注がれ湯気を立てている。
イリアさんの手作りのビスケットと共にいただくと温かく満たされる思いだった。
「アリスタルフ様もビスケットがお好きなんですね。
お兄様そっくりです」
イリアさんは慈しむような笑みを僕に投げかける。
が、それよりもアレク兄さんの嗜好を知っているような口振りが気になった。
「兄ともお茶を?」
「ええ。身分違いとは承知していますがあの方が誘ってくださいますので甘えさせていただいています」
……ふーん、兄さんが、ね。
「兄さんとはどんな話をするんです?
騎士になるために生きてきたような人だから洒落た話はしないでしょう」
「そうですねぇ。
だいたい私の話を聞いて相槌を打ってくれる感じです。
騎士の方はプライドが高くて自慢話ばかりする方が多いですけどあの方はそうじゃないみたいです。
命懸けのお勤めをされていらっしゃる方ですから、ここでの時間が癒しや安らぎになればとは思っていますけれど……私の方が良いように使わせていただいてるかもしれません」
フフっ、と笑うイリアさん。
無防備に緩んだ表情は甘いお菓子のせいじゃない。
これはもしや、と思い口にする。
「イリア、さん……間違っていたら申し訳ありませんが――――兄と、恋仲なんですか?」
僕がそう言うとイリアさんはポッと顔を赤らめて鼻と口を手で覆って笑った。
「エヘヘへ……他の人に面と向かって指摘されると照れますね。
ええ。お慕いしています。
アレク様も私の気持ちに応えてくださっています」
「あーー、やっぱりぃ」
…………ちっくしょう。
考えればわかる様なことじゃないか。
兄さんが懇意だからこそ僕を預けたのだ。
なのに一人で舞い上がってバカみたいだ。
内心の独り相撲を悟られないよう呼吸を落ち着かせていく。
幸い、僕は他人の恋人を横取りしたがるような願望は一切ない。
兄さんの恋人と聞いた瞬間、盛り上がっていた感情が一気に引いてしまった。
「兄さんが恋人を作るなんてね……正直驚きです。
家の事とかを優先して父が持ってきた縁談を受けると思ってましたので」
だけど今の状況、イリアさんを自分で選んで愛して、それで添い遂げられるならその方が良いに決まっている。
と、僕が気持ちを緩めたところにイリアさんがとんでもない事を言ってのける。
「ああ、そこはそうですよ。
アレク様は騎士団長のイワーク様のご令嬢をお嫁さんにいただくようです」
「ブッ!?」
僕は驚きのあまり口に含んでいた紅茶を吹き出した。
イリアさんはクスクスと笑って僕のズボンに落ちた紅茶を丁寧に拭う。
「イワーク様と御父君は無二の親友といった間柄のようです。
その絆を強めるために血の繋がりで両家を結びたいのでしょう」
「信じられない……
アレク兄さんは婚約者がいる状態であなたを妾のように囲おうとしているのか!?」
僕がゲスな物言いをした瞬間、終始穏やかだったイリアさんの表情が険しくなり、声を荒げた。
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでください!
アレク様はずっと前から私を選んでくださいました!
五年前、屋敷とお母様を亡くされて失意の中にいたあの方を慰め、励まし、支え続けて気持ちを勝ち取ったんです!
アレク様だって、私を嫁にもらってやるとおっしゃってくれていました。
それなのに……御父君が我が家では家格が釣り合わないと言って先の婚約を無理やり取り付けたのです!」
「なっ……!? 父さんが!?」
さっきからわけのわからない事ばかりだ。
父さんが騎士団長に気に入られているのは子供の頃から聞かされていた。
尊敬し慕っていることも。
だけど、父さんは自分の出世のために兄さんの結婚を利用するような人じゃなかったはずだ。
厳格な父親である反面、病弱な母さんに対してはガラス細工を扱うように丁寧に優しく接していたし、頭が上がらなかった。
それも全部母さんを深く愛していたから。
騎士は護るべき姫を心に抱くことで騎士たり得る――
当て擦られた古い価値観だけど父さんも兄さんもそれを信望していた。
なのに、どうして兄さんは護るべき姫を捨てる!?
父さんは兄さんから護るべき姫を奪う!?
何もかも納得が行かなさすぎる。
僕のズボンを拭き終わったイリアさんは立ち上がって背を向けた。
華奢な背中が震えているのを見ていたたまれなくなった。
「来月。アレク様は正式に婚姻を結ばれます。
この家に通うことも無くなるでしょう。
准男爵様が新妻を置いて平民の家に足しげに通うなんて風体が悪いですから」
それはそうだろう。
むしろ、今でも通っていることすら怪しいものだ。
そこに兄さんの捨てきれなかった執着を感じる。
カランカラン……
玄関につけられたベルが鳴る。
イリアさんは指で目元を何度か拭って、僕を置いて玄関に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます