第二章 生者を護ること、死者を救うこと
第10話 歴史的瞬間
その日、クエルの町の住民たちは思い出した。
自分たちが謳歌している平和が氷の上に立つような危ういものであることを。
ユーレミア王国の西部に位置するこの町は王都から遠く離れた辺境でありながら2万人近い人口を抱え、それなりの発展を見せていた。
町が発展する大前提として、モンスターに襲われない平和的な環境であることが挙げられる。
クエルの町は小規模ながら冒険者ギルドが設置されており、常時50人近い冒険者が登録されモンスターの駆除に当たっていた。
また、背面が川に面しており、前面は5メートル近い城壁で囲まれている。
百年以上前のモンスターが大量発生した時代に造られたものであるが今でも健在で外部の襲撃を阻んでいる。
この二つの要因がクエルの町の住民に平和な環境を授けていた。
その日までは。
予兆はあった。
ひと月ほど前、クエルから少し離れた森で狩人がトロルを発見した。
すぐさま冒険者ギルドに討伐依頼が出され、街でも腕ききのパーティが二組12名でそれに臨んだ。
トロルは3〜5メートルの体躯をした巨人型のモンスターである。
一般的にずんぐり腹の出た中年男のような体格で、動きは鈍重で知能も低い。
されどその体重から繰り出される攻撃は凄まじく、丸太や岩を武器にする程度の知恵や器用さを持っていることから油断ならない敵と冒険者界隈では恐れられている。
それでもBランクパーティと昇級目前のCランクパーティが連携を組めば危険のない依頼だった。
にも関わらず、その二組のパーティは討伐計画の期限を過ぎても帰ってこなかった。
半月過ぎた頃から、これはおかしい、と判断したギルドマスターが偵察依頼を発布した。
それを受けたのはBクラスの冒険者で斥候の任務を得意とするものだった。
彼はパーティこそCランクであるが、個人の能力はギルド内で一二を争う有能な冒険者だった。
彼が偵察の任務如きで失敗することはない、誰もが信じて疑わなかった。
町の城壁を越えて彼の頭部が投げ込まれる瞬間までは。
平和な町に惨劇の香りが漂った————
「ヌオオオオオオオオン!!」
鼻を詰まらせたような野太い声が何重にも重なって城壁の外から轟いた。
住民たちは梯子を使って城壁に昇り、町の外を見た。
そして、目の前の光景に絶叫するのだった。
「ト……トロルだぁっ!!
トロルの大群だ!!」
それは100を超すトロルの群れがノシノシと町に押し寄せてくる姿だった。
人間の何倍もの大きさの連中が作る群れの大きさは凄まじく、天災を思わせる。
即座に町中の冒険者に討伐司令が出た。
しかし、誰も城壁の外に出ようとはしない。
当然である。
通常、モンスターというものは複数の人間が集団で討伐するものである。
トロルは巨大で攻撃力も強く、周囲を取り囲むようにして的を絞らせないことが基本の攻略法だ。
なのに、今、町に残っていて戦える冒険者は30人ほど。
この力で遥かに上回る相手に少数で挑む無謀者はいない。
冒険者は冒険してはいけない。
その格言が浸透した現代の冒険者たちは前時代の冒険者に比べて、知的でまた連携能力に長けている。
彼らは間違っていない。
ただ、このような勝ち目のない状況では無力なだけだ。
「に、逃げよう。
今ならまだ全力で走ればなんとかなる!」
冒険者の一人がそう言い出した。
当然、そのような臆病で身勝手な発言は否定する者が出てくる。
しかし、
「命あっての物種だよ!
ここで全滅して何になるんだよ!」
「そうだ! 誰かが騎士団に状況を報告するんだ!
それまで籠城して耐え忍べば!」
「無駄死には誰のためにもならないよ!」
勝ち目のない戦いに挑むことを否定する声がそれを上回る。
冒険者たちの感じた恐怖は住民たちに伝播し、町の中は混乱と絶望に包まれた。
泣き崩れる人、怒り散らす人、誰もがそう遠くない時に訪れる自分の死を予感していた。
クエルの町の町長の息子であるヨゼフも城壁の上で絶望していた人間の一人だ。
彼は王都の学院に留学し、そのまま役人として十年ほど働いていたが、父の後を継ぐため、一年前にこの町に戻ってきた異色の経歴の持ち主である。
故に、町では頭抜けた教養者である。
彼は、慌てて逃げ出した冒険者を見て、失笑した。
「バカだな。トロルの動きは鈍重。
ただし、それは近接戦闘における敏捷性の話に過ぎない。
人間の何倍も長い脚をしている上に、スタミナはその比ではない。
障害物や隠れる場所もない平原で逃げ回っても、すぐに追いつかれる」
彼の宣告通り、逃げ出した小柄な冒険者が息を切らしてしまい、トロルの手に捕まった。
その後は幼児に弄ばれる人形のように、無惨な形に変形させられ力尽きた。
「と、言っても遅い早いの違いか。
あれだけの数のトロルを討伐できる騎士団は伯爵様の元にもいない。
王都に情報が伝わり、討伐軍が編成されるまで、何万人の犠牲者が出ることやら――――」
虚無的な気分に支配されていたヨゼフの目に、想定外の事態が映った。
城壁からヒョイ、と飛び降りる者がいたのだ。
漂白されたような白い髪は太陽の光を受けて銀色に輝いていた。
後頭部に下がった長い一本の三つ編みは少女のようだが、長身で細身ながら肩幅のある体格から男性であることが判る。
纏う服は町の衣料店に置かれている物で、戦闘職の纏う物ではない。
にも関わらず、その右手には巨大すぎる大剣が掴まれている。
「なんだ? 冒険者……ではないよな?」
ヨゼフ以外に城壁に登っているものもトロルの群れに向かって歩いていくその少年に視線を注いだ。
「気狂いだ! 恐怖でおかしくなっちまったんだ! アハハハハハハ!!」
すでに正気を失った男がそう言って大笑いした。
悔しいながらもヨゼフも同じような感想を抱いていた。
少年は人々には聞こえないような声で小さく呟く。
「修行が終わった途端にこれって…………
あなたの差金ですか?
……言ってみただけです。
……そうですね。ベントラ師匠やナラ師匠にも見ていただきたかった。
まあ、こんなのは、ものの数にも入らないでしょうけど」
少年はクスリと笑みを浮かべ、大剣を抜刀する。
鞘を天に向かって投げると共にトロルの群れに向かって駆け出した。
すると、トロルたちも少年に群がるようにして集まってくる。
城壁でその光景を見つめる者の多くは少年の無惨な死を想像した。
だが、一部の戦闘感覚に長けた冒険者や冷静な教養者は違和感を覚えた。
「あの少年…………速過ぎないか?」
まるで放たれた弓矢のような速度で突進していく少年。
それは遠目だからかろうじて認識できるもので、近くならば目にも止まらない。
現にトロルたちは少年の残像を追うかのように近づいても速度を緩めはしない。
そして、接敵の瞬間。
少年は高く跳び上がった。
その跳躍力はトロルの頭上に到達する凄まじいもので、人びとは目を疑った。
だが、それは序の口に過ぎない。
彼が跳び上がった次の瞬間、正面にいたトロルが前のめりに倒れ、さらにそのトロルが地面に倒れた直後、隣にいたトロルの首が体から離れた。
その間は五秒にも満たない。
そして少年は地面に降りることなく、トロルの肩や頭を蹴って次から次へと飛び移る。
トロルたちは虫を払おうとするように腕を振り回すが、その時に少年はおらず、数秒遅れて、トロルの首が地面に落ちていく。
誰もが目の前で起こっている事を現実とは思えなかった。
恐怖のあまり、都合のいい幻覚を見ているのではないかと自らの頬を張る。
そんな中、ヨゼフは一番早く、現状を理解した。
「英雄だ…………」
口を突いてその単語が溢れだす。
それは彼が幼少の頃に読み漁った物語の中に。
それは彼の住む町から少し離れたところにある寂れた祠の中に。
それはかよわき人々の希望として語り継がれる伝説の中に。
そして、今、彼らの目の前に――
「英雄だ! 英雄の出現だ!!
偉大なる三英傑!
冒険者の祖ベントラ!
賢者の中の賢者ナラ!
無敗の英雄ザコル!
それに次ぐ英雄が今現れたのだ!!」
ヨゼフの叫びによって、絶望に落ちた町の人々を引き上げられたかのように、城壁に上り少年の姿を見ようと集まった。
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