魔界で農夫、ときどき英雄。
S/1116
第1話 死ぬか、生きるか
薄暗い、知らない場所で目が覚めた。
あたりを見回してみたら荷車っぽいのとか、農機具の類いみたいなのがある。
古いな。型が古いとかじゃなくて、昔のものって感じ。
いや、ほんと、ここどこ?
ガタガタって戸が開くような音がして、人影が近づいて来た。
背はあまり高くない、白髪のじいさんが古めかしいランプを持って、おれに声をかけてきた。
「起きたか、行き倒れ」
行き倒れ?
おれ、行き倒れてたの?
「あのー……ここ、どこですか?」
「魔界じゃ」
「まかい?」
まかい、まかい……まかい村とかまかい町とか、そういうとこかな?
え? 東京にそんな地名ありました?
「お前、人間じゃろ。憐れな」
オマエニンゲンジャロ?
しかも憐れまれてる。
どういうこと!?
「人間はこの国では長く生きられん。せいぜい十日じゃ。これもなにかの縁じゃろうから、屍くらいは埋めてやろう」
——いきなり余命宣告された。
「それってどういうこと? おれ死ぬの? もう確定事項? ここどういうとこなの!?」
じいさんはおれに三歩近づいた。
悪人面じゃないけど頑固な職人っぽい感じ。
「ここは魔界、天界から脱走してきた堕天使が住まう国よ」
まかい? てんかい? 脱走? だてんし?
「じ、じいさんは、人間じゃないの?」
「わしゃ誇り高い堕天使じゃ」
泣きたくなった。
言葉は通じるけど会話の中身が理解できない。
なんでこんなことになってんですか? おれ、バイトでピザ運んでただけなのに。
あ——そうだ、おれ、ピザ運んでた。夜九時半。
夕方、急に雨が降ってきて人手が足りなくなって残業になって。
それでキャノピー乗って、配達に……。
思い出した、対向車がセンターライン越えて、おれの真正面に飛び出してきたんだ!
でも、なんでこんなわけのわからない場所に……?
しかも十日くらいで死ぬって、いったいどうなってんの?
「なにもわからんままでは憐れだから教えてやろう。人間は魔界の食事ができんと聞く。飲まず食わずでは死ぬといわれる。動けるか? 試しにこっちに来い」
体に痛みはなかった。起き上がってじいさんの後についていった。
いかにも田舎って感じの素朴な木造の家の中に呼ばれて入ると、人のよさそうなおばあさんがいた。
じいさんがテーブルに向かって座りながら言った。
「ダルー、こいつは人間じゃった。なにかのはずみに紛れ込んだんだろう」
おばあさんも、悲しそうな憐れみの表情。
「そうだったのかい……かわいそうに」
死ぬの、確定みたい……。
椅子を勧められて座った。
「葡萄酒を出してやれ……最後に味わうものじゃから、ビン詰めで余った最上級酒をな」
まるで告別式のよう……。
おばあさんに勧められたグラスをじっと見た。
今、おれの頭の中は大混乱だ。この人たちを信じていいのかさえわからない。
まかい、てんかい、だてんし——ここは本当におれが知らない世界なのかも。
なにもかもが理解の範囲を超えてる。
もしまかいが魔界で、てんかいが天界で、だてんしが堕天使なら……どうしておれがこんなとこに堕とされてるんだ。
もっと堕としていい奴がいるだろ! 悪徳政治家とか! 贈賄業者とか!
確かに二十五にもなってバイト暮らしなんて人生してたけど、仕事もなにも真面目にやってきた。こんな目に遭わされる理由ないでしょ!
「陛下や最高位の方々にしかお出ししない最上級酒じゃ。うまいぞ」
それが本当にうまいのかどうかはわからない。ただ、香りはすごくよかった。
葡萄酒って言ったけど、柑橘っぽかったり、かすかに花みたいないろんな香りがする。香りだけは本当に美味しそう。
たぶん毒は入ってない。殺すつもりなら最初から助けないだろうから。
わざわざ行き倒れを助けてくれた人だ。信じる。
グラスを持ち上げて、呷った。
呆然とした。
滑らかで、円やかで、豊かで、尖ったアルコールっぽさが全然なくて、本当にうまい。
鼻に抜ける香りにうっとりする。
でも、その美酒をおれは一分足らずで吐き出した。
じいさんが言ったとおり、体が受けつけなかった。
「わかったじゃろ、この世界ではお前の命は繋げんのだと」
よくわかった……このままでは死ぬんだってことは。
「どうする、ゆるゆる死ぬか? それともひと思いに死ぬか?」
確かに飲食できないんじゃ確実に死ぬ。
だけど——。
「生き残る方法はないの?」
質問したら、じいさんはちょっと考えて教えてくれた。
「なくはない」
「どうしたらいいの?」
「堕天しろ」
「堕天って?」
「天使が堕天する時に食った果実がある。それが食えれば、お前も堕天できるかもしれん。そうすれば生き延びられる可能性はある。ただ、体が受けつけるかどうかはわからん」
「堕天って——人間やめるってこと?」
「人のまま死ぬか、堕天して生きるか、どちらかじゃ……堕天できればな」
究極の選択だ、これは。
「人間の世界に帰れないの?」
「そうじゃな……たったひとつ、あるかもしれん」
思わずテーブルに両手をついて立ち上がった。
「それって! どうしたら?!」
「時空を超える時計なら、可能かもしれんな」
「それってどこで手に入るんだ!?」
「手には入らん。陛下のご所蔵品だ」
「どうしたら借りられるの?」
急にじいさんの顔が険しくなった。
「陛下にやすやすとお目通りなど適うか、愚か者」
そうか……『陛下』ってことは、王様や皇帝だ。簡単に会えるわけがない。
たった十日、こんな短い時間で偉い人になんて会えっこない。
簡単に人間界に帰るのは無理だとわかった。
選択肢はふたつ。死ぬか、生きるか。
『生きられれば』の話だけど。
「悪いことは言わん、自分の世界に帰りたくば命を繋げ。死んでは元も子もないぞ。生きられる保証はないが、生きられるかもしれん」
まったくそのとおりだ。
このままなら徐々に弱って死ぬ。葡萄酒がだめだったってことは、たぶん水もだめだ。
水を断ったら人間の命は数日だ。
「——その果実って、手に入れられるのかな?」
「樹を守護する蛇に勝てばな」
「蛇?」
「天界を追われた蛇じゃ」
——それって、もしかして『サタン』とかいう奴ですか?
あの、人間をたぶらかして知恵の実食べさせたっていう?
それって、レベルマックスまで上げた勇者がパーティー組んで殴り込むとか、そんな感じのアレだよね?
これ、無理ゲーとかクソゲーとかいう類いのものだと思います……。
だっておれ素手だし! 装備はピザ屋のジャケットと黒ズボンとスニーカー、攻撃に対する防御力なんか皆無ですよ!
即死じゃん。
「ここ、剣とか槍とか、ないよね……」
「あるわけなかろう、葡萄酒を造っとる農家じゃぞ」
「なにかないかな……こう、なにか戦えそうなもの」
「納屋に木の棒があったな。それを貸してやろう」
うわー……木の棒と布の服だ。どこかのゲームの初期装備みたい。
その日はもう夜だったから、じいさんの厚意で納屋で寝かせてもらった。
横にはなったけど、まだ頭の中がグチャグチャだ。
もしかしたら交通事故で瀕死の重傷負って、病院の集中治療室で夢みてるのかも。
それはそれでハードだけど。
キャノピーで車と正面衝突なんて、普通死ぬよな。
助かってもきっと完治は無理だろうな。どんな障害が残るんだろ……。
よく眠れないまま朝を迎えた。
おばあさんがくれた水はすごく美味しかったけど……やっぱり吐いた。
確定した。このままならおれは死ぬ。
「堕天の果実の樹ってどこにあるの?」
じいさんいわく「葡萄畑を抜けた先の森を通って進むと丘がある」とのこと。
あ、意外と近いかなと思って外に出たら、見渡す限り、背が低い葡萄の木があった。
森なんて全然見えない。
「この道をまっすぐ進め。森の一本道の先に分かれ道がある。その右側に行けば近道じゃ」
「どれくらいかかるかな」
「歩けば一昼夜じゃな」
…………。
飲まず食わずで一昼夜歩いて、木の棒と布の服でラスボスと戦う?
まあ、木の棒は二メートルくらいあるけどね……重さは気にならないけど、あと三十センチくらいは欲しかった。
親切なじいさんばあさんに見送られて目的地に向かって歩き出したけど、本当は無理だとわかってた。
でも、足掻きたかったんだ。
なにかしてないと頭がおかしくなりそうだったから。
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