少女と呼ぶには遅すぎる

摂津

少女と呼ぶには遅すぎる(上)

高校の同級生が婚約した。

24歳というとまだまだ遊び盛りのようで、都会の基準だと少し早いような気もするが、地方では身を固めるには適した年齢だと思う。

彼女とは高校の頃、特別仲が良かったわけではないのだが、お互いの生活習慣や価値観なんかが同じで、なんだかんだと邪険にする理由もなく、なぁなぁで関係が続く間柄だった。

高校を卒業後はお互い別々の都会に進学したが、思い出したように連絡を取っては、今どうしているか、何をしているかと近況を報告したり、時には帰省のついでに会ったりして、お互いに少しだけ大人になった姿であの頃を懐かしんだ。

そんな彼女の生活が少し前、一時期だけわからなくなった。時々どうしているか、など気にかける事はあったが、すぐに他の事に意識を持っていった。そんな生活を繰り返していたある日、彼女は先に大人になって私の前に姿を現したというわけだ。

久しぶりに話した彼女は髪の色が明るくなり、あの頃よりも更に肌が白く、輪郭がはっきりしていた。化粧を覚えたのだろう。そんなものは彼女には必要ないと思ったが、世間はきっとそれを許さない。化粧は勿論、洒落込むことすら校則で厳しく取り締まれていた頃の当時の彼女は幸の薄い顔で、細くて長い髪が夏風にたなびく姿が眩しい、小細工なんかしなくても十分な美人だった。そんな彼女と、卒業後も同じ教室に居た異性としてただ自分一人だけ交流が続く事は、なんだか当時の他の男子たちよりも大人びているようで、誰かの人生に少しだけ深く踏み入れる事の出来る人間になったようで、嬉しかった。

そんな彼女が、久しぶりに自分の前で現れて、突然知らない男と「幸せになります」と言われて、へぇそうなんだ、幸せになってね、というような無責任な言葉を投げかける事が出来るかと言われると、難しいだろう。別に「当時から彼女のことがずっと好きだった」「俺のほうが先に好きだったのに」なんて言う気持ちは毛頭無いし、だいいち恋心を抱いた覚えも無いが、青春のうちの3年間に深く関わった"ひと"を過去のものとして断捨離する為には、私にはまだ若すぎたのだ。学生を終え、鬱蒼とした繰り返される労働の日々を酒でなんとか誤魔化しながら、いつ身体が壊れるのだろうと漠然としたいつか来る恐怖を意識して生きている自分にとって、過去は、あまりにも手放し難い。そんな日々の隙間に在る彼女の事は、恋人でも想い人でもない。ただ彼女は、少しだけ、ほんの少しだけ特別だっただけだ。


東京に進学し、大学に入って最初の定期試験を迎えた私は、その先にある夏休みを今か今かと待ち構えていた。

西日本のど田舎からいきなり東京に住むことになった私にとって、生活環境の劇的な変化は多大なストレスになっており、それが日々信じられない程の速度で心に積もっていくのが自分でも分かった。誰の目から見てもそれはホームシックと呼ばれる疾病だ。一刻も早く試験を終わらせて故郷に帰りたかった。18年間、嫌となるほど目に焼き付けた故郷の風景が一度瞳の奥に浮かべば、その全てを肯定する事が出来た。

気づけば私の独り言は愚痴と都会への憎しみで埋まっていた。

試験も3日目に至り、そろそろ地獄も折り返そうという日、既に言霊にでもなりそうな勢いの自分の愚痴とは別に一人、自分を変えようとする都会に抗う同胞をネットの海で見つけた。意外にもそれは自分の良く知る人物で、それが冒頭の彼女だった。

彼女とは前述した通り、特別に仲が良いわけでも悪いわけでもなかったが、都会を恨む気持ちと故郷を懐かしむ気持ちに、何より彼女自体が自分の故郷の一部である事が働いたのだろうと思うが、そこではっきりと彼女に同情の念を飛ばしてみた。

彼女は驚くほどその同情に反応を示し、同じ教室で過ごしていた頃にすら見せない程に意気投合した。こんなにも都会は地元と違うんだ、何もかもが違いすぎて疲れる、いきなり一人にされては心細い、早く田舎に帰りたい…お互いに(少なくとも私は)積もりに積もった気持ちを爆発させた。同郷の人間が同郷であるだけでこれほどにありがたいと思ったのは、この時が初めてだった。

次第に、都会の悪口に発展していった。空気が汚い、人が多すぎるなど、"そちら側"の生活に慣れた今となっては八つ当たりにも近い悪口が続いた。中でも海が汚い事に関しては罵詈雑言を尽くし、今すぐにでも故郷の海が見たいと言って嘆いた。彼女は激しく同意してくれた。

そこで積もりに積もったものを全て吐き出したので、私は来週の帰省について話し始める。早く帰りたいと言う話をすれば、彼女も来週帰ってくるらしい事が分かった。すっかり気がよくなった私は「だったら一緒に綺麗な海を見に行こうよ」と友達を誘うように提案した。刹那、しまったなと思ったが、彼女も気が良くなっていたのか驚くほど簡単に乗ってきた。私は一瞬拍子抜けしたが、気持ちが同じなら、考えることも共有できるだろうと深く考えず「いつ」「どこに」見に行くかの約束を取り付け、その時を待つことにした。


見に行く海は、ひとつ大きな峠を超えた向こうにあった。

私の地方では、峠(とうげ)の事を峠(だお)と呼ぶことがあり、この地域で一般に峠(だお)と呼ばれる所はここくらいなものだった。(以下「峠」はすべてこの「だお」である)

しかしこの大きな峠が厄介で、山陽道最後の難所とも呼ばれ、当時免許も車も持っていなかった私は、高校時代に使っていたチャリンコを引っ張り出してこの峠を越えようとしたのが災いした。

暫く使わなくなってから空気の抜けたタイヤ。真夏の照りつける日差し。難所と呼ばれるに相応しき急勾配。

普段ならば親の車で通るその峠は生身で登り切るにはあまりにも辛く、ペダルを一漕ぎ、一漕ぎしていくたびにぶわっと汗が吹き出た。彼女に会うまでどころか峠を越える前に熱中症で倒れてしまう気さえしたので、途中で降りて歩いて押す事でなんとか頂上近くまで乗り切った。

比喩抜きで死にそうになりながらも足を進め、峠も頂に差し掛かった所で大きな国道と合流した。ここの他に頂上を超えていく道はないので、車がびゅんびゅんと何台も何台も自分を追い越す中、追い抜いていく車を何度も恨めしそうな顔をして見つめながら、なんとか分水嶺を越えた。

上りの道を漕ぎきった事でそれまでの苦行が一転した。下り坂は一切ペダルを踏むことはなく、金切り声のような悲鳴を上げるブレーキを軽く握りながら、一気に国道を駆け下った。そのうち県道に入ると、棚田や段々畑のど真ん中を切り開いて、それが海までずっと続いていく道になった。

自慢じゃないが、この海は何度見ても絶景だった。前述した峠を越えた途端に現れる棚田や段々畑は、山の頂上から浜に至るまで延々と続いている。地中海気候である瀬戸内海では段になった畑に柑橘類が植えられており、酸い果実を実らせた香りが穏やかな潮風に混じり、濃い輪郭で立体感を帯びた入道雲が水平線から太陽の近くまで膨らんでいる。

そんな場所を長い長い下り坂で、自転車のブレーキを握りしめながら下っていくのは、まさに天国と地獄…いや、地獄からの天国だった。広がっていく景色の中を風を切り裂いて下っていく。何者にも代えがたい程の爽快感だった。

苦しいことは長く続くのに、楽しいことはあっという間というのは、大人であっても子供であっても、その中間であっても全く変わらないものだった。私は風を楽しんでいる間にあっという間に浜にある目的の海へたどり着いた。

私は駐輪場を探して駐車場の方に向かった。駐車場は松原の中にあり、木漏れ日は入るものの、概ね木陰になっているので、日射の量だだいぶ違った。

駐車線なんてもののない土地だけ駐車場なので、バイクもチャリもごった煮で止まっている。私は今日だけで歴戦の相棒になったチャリンコを松原の隅に停め、合流予定の彼女を探しに向かった。

浜に出て暫くうろついていると、携帯の方に彼女から連絡があった。

「着いた」とだけ書いてあるメッセージを開き、「今どこ?」と返す。

「駐車場~」と返ってきたので、私に無駄な行動があった事を悟った。「向かうね」と返信し、駐車場に戻っている途中で彼女とばったり遭遇した。


卒業してから約半年ぶりに会う彼女は、あまり変わっていなかった。相変わらず幸の薄そうな顔に、人種の違いを疑うほどの白い肌。細い腕をほとんど露出させる程の丈の半袖。動きやすそうなハーフパンツに何故か少し厚底のサンダル。

「何で来たん?」

「車で送ってもらったー」

「遠いもんなー」

同意はしつつも自分の苦労が何だったのか、自分で自分に呆れてしまった。

「何で来たん?」

「チャリで来たんよー」

「わー、えらそう」

えらい、という方言を久しぶりに聞いたので少し固まる。が、すぐに意味を理解した。

彼女の喋り方に対してたった半年近くなのに、やけに懐かしい気持ちになった。

「お、山口弁や」

「なんか久しぶりに喋ると安心するっちゃね」

「やけどあんまり使うとわざとらしゅうなるね~」

「それいねぇ」

そう言いながらもわざとらしくする彼女に合わせる。久しぶりに聞いても安心するので、この際わざとらしさを楽しむ。

「いやぁ海じゃねー」

「海やわ」

「最初はどうしよっか?」

「とりあえず浜辺をだーっと」

「じゃ、あっち?」

「ええね」

「行こかぁ~」


あ、今。


夏が始まったな、と思った。

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