Capacity - 区切り -
Capacity - 区切り - 第1話 記憶
「終わったね」
今日は唯依の部屋に泊まることになった七海を案内だけして、わたしと瑛梨も寝室に入った。
そこでようやくわたしは瑛梨に声を掛ける。
頷きを返した存在はわたしに抱きついてきて、その馴染んだ重みを受け止める。
いつも自信に溢れている瑛梨のこんな姿を見るのは数年ぶりだった。でも、それを受け止めるのはわたしだけだと自負はある。
「ありがとう、ゆかり」
「わたしは大したことしてないから。頑張ってくれたのは七海だよ」
一時期つきあっていたことのある矢塚七海は、目を離していた間に素敵な女性になっていた。その七海が瑛梨の娘である唯依とつきあい始めて、唯依を守ってくれたなんて奇跡でしかなかった。
「唯依と七海ちゃんを繋げてくれたのはあなたでしょう?」
「それは本当に偶然でしかないよ。唯依は七海とつきあい始めてから変わったし、七海も変わったと思う。二人が反発し合いながらもお互いを大事な存在にできたから、終わることができたんだよ」
わたしが瑛梨に再会する少し前、瑛梨は唯依の父親である飯沼が唯依に近づいていることに頭を抱えていた。あれから瑛梨とわたしと二人で協力しても断ち切れなかった繋がりを今日、ようやく切ることができたのだ。
「子育て終了で淋しい?」
「清々するくらいよ」
淋しい、それを口にできない瑛梨に瑛梨らしいな、と目を瞑る。
目を閉じれば瞼の裏に七海が生まれた日のことが蘇ってくる。
3つ離れた従姉妹、藤木瑛梨の出産には、母が立ち合うことになっていた。それが急遽母が立ち合えないとわたしが呼び出され、今、陣痛室で瑛梨の体を摩っている。
わたしにとっては瑛梨はただの従姉妹ではなく、憧れの人だった。
綺麗で、聡明で、やさしくて、しっかりしていて、神様は自分が選んだ人間には二物も三物も与えるのだと思っていた。
瑛梨に対しての想いは、初恋なんてレベルじゃなくて、その人に惹かれない方が人としておかしいとさえ考えていた。でも同性の自分の想いは瑛梨に届くことはないと早々に諦めはついていて、ただ出会えて従姉妹として接せられることが喜びだった。
その瑛梨が彼女の家から放り出されたと聞いたのが3ヶ月前、母が急いで瑛梨をうちに連れて来た時には既に瑛梨はお腹に子供を宿していた。
母から瑛梨には事情は一切詮索しないこととは言いつけられていて、彼女が望んで妊娠をしたわけでないことは何となく察せられた。わたしは今年高校生になったばかりでも、どうすれば子供ができるかくらいは知識はある。
今年の春に大学生になった瑛梨がやってきたのは5月の半ば。出産予定日から逆算してもお腹の子供は高校在学中にできた計算になる。同年代の恋人との間にうっかりできてしまった子供だとも考えられたけれど、瑛梨の様子を見ればそんなわけがないことは分かった。
以前は自信に満ちあふれて、誰しもを魅了した瑛梨の姿は今は全く消え失せていて、ただの生きる屍のような姿が痛ましかった。
瑛梨は子供を産むことを望んでいるのだろうか。
そんなことすらもわたしは聞けなかった。
やがて陣痛の間隔が狭まってきた瑛梨は、看護師に介助されながら分娩室に向かう。
「瑛梨、待ってるから。元気な赤ちゃん、産んで」
諦めたような瑛梨の手を取り、わたしは思わずそんなことを言っていた。
小さく頷く瑛梨を見送り、分娩室近くの待合でわたしは時間を過ごした。
わたしの母が着いたのは夜になってからで、それまでに瑛梨は女の子を出産していた。
「ゆかり、あなたが名前を考えて」
もう疲れたから今日は休みたいという瑛梨が最後に出した要望がそれだった。
そんな重大な責任は負えないと瑛梨には言ったけど、自分ではつけられないと瑛梨は譲らなかった。
結局、瑛梨が退院するまで悩んで、わたしが考えた名前が『唯依』だった。
「あまり深く考えてないから、違う名前を考えてくれたらいいよ」
子供に名を与える重みが悩んだけどわたしは分からなくて、可愛くて呼びやすいだけでその名を候補にした。
「可愛いじゃない。それでいいから。ありがとう、ゆかり」
退院をした瑛梨のサポートは主にわたしの母がしていたけど、母には仕事もあるので、わたしも積極的に手伝っていた。
幸い父は単身赴任中で、わたしの双子の兄だか弟だかは高校からスポーツ留学をしていて不在だったため、瑛梨を刺激する可能性のある男性の姿が我が家にはないことには安堵していた。
我が子を抱きながら授乳をする瑛梨の姿に、本当に母親になったのだな、と感慨が湧く。瑛梨はまだ以前の姿は取り戻せてはいないけど、産む前よりは明るくなった気がしていた。
瑛梨は出生届を『唯依』で出してしまって、いつの間にかわたしも赤ん坊を唯依と呼ぶことに慣れていた。
しばらくは育児に専念するとしても、今後瑛梨はどうするのだろうかとは聞けないまま三ヶ月が過ぎ、年も越した。
この頃から瑛梨と母がよく夜に二人で話をしているのを目にするようになった。耳を澄ますと、どうやら大学に復学するかどうかを話し合っているらしかった。
それでも瑛梨が復学することはなく、正式に大学は退学したと耳にする。
「大学に行きたくなかった?」
「勉強をしろって言われても唯依がいる状態で、どうやれば集中できるのよ」
「そうだね」
「ごめんね、ゆかり。関係ないのに唯依のことにいっぱいつき合わせて。ゆかりはやりたいことを優先させたらいいから」
「唯依可愛いから放っておけないよ」
その言葉に瑛梨は自嘲する。唯依は小さいのに瑛梨にそっくりだった。
「お前が母親だ、って私への当てつけかなって思うくらいそっくりなんだもん、唯依は」
「……瑛梨、無理に母親として頑張らなくていいと思うよ。母さんもわたしも、何でも手伝うから」
「ありがとう、ゆかり」
瑛梨がわたしの家から姿を消したのは、唯依が1歳半になった頃だった。唯依は、もう自分で立てるようになっていたし、毎日家中を走り回って、よく追いかけっこをした。
瑛梨も唯依も家族のように感じるようになっていたのに、これ以上世話になるわけにはいかない、と言い残して瑛梨はわたしの前から姿を消した。
あれから瑛梨の行方は十数年掴めなくて、よく再会できたものだと今でも思っている。
「瑛梨、唯依の名前をどうしてわたしにつけさせたの?」
「懐かしい話ね」
そこで区切って瑛梨は耳元に掛かる髪を掻き上げる。
「望んで産まれたわけではない子供に私が名前をつけても、愛せないと思ったの。ゆかりは覚えていないかもしれないけど、分娩室に入る前に『元気な赤ちゃん、産んで』って言ったのよ。覚えてる?」
「そんなこと言ったっけ? 一緒に陣痛室に入ったのは覚えているんだけど」
「ゆかりは可愛い制服姿だったわね」
「………そういうのはいいから」
「唯依がこの世界に生まれることを、初めて望んでくれたのがあなただったのよ。だから、あなたが名前をつけた子供なら愛せる気がした、かな。私だって、母親としての心構えができていたわけじゃなかったから、縋るものが欲しかったのかも。まさかその名付け親のゆかりが、唯依のことを我が子のように思って、こんなに助けてくれるようになるなんて、あの時は思わなかったけどね」
「あの頃から、わたしは瑛梨と唯依のためなら何だってしようって思っていたよ」
「ありがとう、ゆかり。わたしも唯依も愛してくれて」
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