突然紙(サドンデス・カード)
朝倉亜空
第1話
夕暮れ時を過ぎ、すっかり暗くなった夜道を、帰宅途中の私はとぼとぼと歩いていた。私はしがないサラリーマン。
見るからにしょぼくれ、表情は暗く、虚ろな目には、まるで生気がない。今の私は腐りきった顔つきそのものをしているはずだ。
毎日だ。毎日。今日もあのパワハラくそ上司にいびりにいびられ、くさしにくさされた。そしてそれに歯向かえず、言い返すこともできない自分が情けない。その腹いせが、ついつい家庭内で妻に吐き出てしまう。もう、夫婦仲は険悪そのもの。カチコチに冷え切っている。まあ、妻にしても、万年安月給の亭主に横柄な態度に出てこられちゃ、たまったもんじゃないだろうが。なんなんだ、このクソ面白くもない最悪の人生は。じゃ、死ぬか。自殺するか。いや、出来ない。そんな怖いことは出来ない。最悪の人生を続けていくだけの情けない臆病者だ、私は。
「おやまあ、えらくお疲れのご様子ですね……」
家に向かう十字路の角を曲がった時、その十字路の街灯の下で、すれ違いざまに突然、私に声を掛ける人物がいた。結構な値打ちのありそうなスーツを着た、少し小太りの男性だ。「ああ……、そのお疲れの原因、あなたのご様子から判断するに、嫌ぁな対人関係によるものでしょう。わたくし、セールスマンとして、何千人、何万人の人を見てまいりましたので、一目で大体わかるのでございますです」
「へえ、大したものですね」力のない声で、私は言った。
「具体的には、いじわる上司のパワハラ攻撃にすっかり参っていると、言ったところでしょうか。本当、嫌ですよね。生きる気力もなくしてしまうってもんです」
「……」
「だからといって、実際に死ぬのは怖い。どうせなら、その憎いクソ上司が死ねばいいのにって思っていませんか」
「ははは。面白いことを言いますね。あたりです」
「あるんでございますです」
「何が? は。はは。怖いな」
「いーえいえ。冗談ではないのでございますです。少々お待ちを」小太りのセールスマンは手に持っていた真っ黒のアタッシュケースを地面に置き、中を開いて、手探りで、ある物を取り出した。それは、はがきほどの大きさのカードだった。「これこれ。どうぞ手に取って、ご覧下さい」
セールスマンに手渡されたそのカードもまた真っ黒な色で、表面にはどす黒い赤色の文字で「突然紙」とだけ書いてある。
「なんですか、これは」私は言った。
「それこそ、あなたの願いを叶えるもの、突然紙、別名サドンデス・カードでございますです」
「あなた、私のことを……」
「いーえいえいえ。からかってなどおりませんです。本気です。なんせ、わたくしは困っている人を助けるのが大好きなだけの、親切なセールスマンなのでございますですよ。ちょっと、この商品の使い方をお教えしましょう」
カードの裏を見て頂けませんかと言われ、私はそれを裏返した。
「ここにⅠから13までに区切られた、小さな記入枠がございます。これは正式には呪入枠と申します。この枠に、1日に一回、あなた様にとっての邪魔者の名前を書く、それを13日続ける、そして、そのカードを相手に持たせる。相手のポケットにそっと忍ばせるとか、机の引き出しに隠し入れるとかで結構です。あなた様がなさるのは、ただそれだけでございますです。すると、その最後の13日目に相手に何かが訪れますです。何かわかりますか?」セールスマンは上目遣いで私の顔を見ながら、ニヤーリとして言った。「どうですどうです、言ってごらんなさい。さあさあ」
私はカードの表の文字を思い浮かべながら、言った。「突然死……」
「ごっ名っ答っ!」セールスマンは大仰な仕草で、手をパチパチと叩いて見せた。「これさえあれば、憎い相手の命をあなた様が握ったも同然。いくらパワハラされようが、バカにされようが、なーんにも気にならない。腹も立たない。相手への憎しみも生じず、むしろ、丁寧な対応すらとれる。メンタルはノーダメージ。何せ、13日後には相手は……、ねえ、そうでしょう?」
「……ふむ、……」
「その心の余裕はあらゆる面に好影響を及ぼしていきますよ。お仕事は、はかどるようになり、ご家庭では夫婦円満になること請け合いです。おそらく、会社でのストレスを家に持ち帰っていて、奥方様とはえらくギスギスされていたんでしょう。大丈夫。さっぱり解消されますですよ」
「うむ。なるほどな……」もちろん、そんな話を本気で信じたわけではなかった。だが、このセールスマンの、嫌に自信たっぷりな話しぶりに、私の心は少しずつ動かされていた。しばらく考え込んだのち、私は言った。
「で、この突然紙はいくらするんです。あまり値が張るようじゃ、買うのは無理だ」
「おお、買ってみようかという気持ちになりましたか! お値段の方は心配ございません。人助けのためにやっておりますゆえ、サービス価格で販売中でございますです」
セールスマンの提示した金額は私の小遣いで間に合うほどのものだった。私は買った。
「お買い上げ有難うございます。本当に効果的ですよ、これ。わたくしが取り扱っている品物の中でも、一、二を争うほどの人気となっておりますですから。今日もいくつか売れておりまして、実はこれが本日最後のひとつとなっていたのでございますです。では、失礼いたしますです……」そう言って、セールスマンは歩き去っていった。
そこからの帰り道、私の足取りは軽くなり、妙に気分も良くなっていた。憎い野郎の生殺与奪の権利をこっちが握っている。嘘か真実かいまいち分からないが、そう思っているだけで、なんとも気分がいいものだ。
「ただいま。帰ったよー」やはり、その一言が、明るく軽やかだ。妻に向けて、ごく自然にニッコリと笑みを向けた。自分自身、驚く。
「あら、あなた、お帰りなさい。お疲れ様」妻もニコッと微笑み返した。こちらの柔らかな雰囲気が伝わったのだろう。お互いが笑顔を向け合うというのは、もう、ずいぶんと無かったことだ。さっそく、この「突然紙」の効果が表れていた。
「お仕事でいいことでもあったの? なんだか嬉しそうよ」
「特に変わったことはないさ。君の方はどうなんだい」
「私はね……」妻は一呼吸おいていった。「私は、あなたが幸せそうなのが幸せなのよ」そう言って、もう一度ニコッと笑って見せた。
その夜、就寝前に私は「突然紙」の最初の枠に上司の名前を記入、いや、呪入した。
この日以来、家での妻との生活はがらりと変わった。まさに、仲睦まじい理想的な夫婦の姿を取り戻したのだ。
会社内での日常は相変わらずだった。上司からはバカだのクズだの罵られ、他の社員のいる前でも大声で罵倒された。さすがにその時は少ししょげたり、ムカっときたりもするのだが、しかし、それを長く引きずることがなくなった。退社前に、上司に今日は本当に申し訳ありませんでしたと、ケロリとして言うと、向こうの方があっけにとられたような顔をして、私を見るのだ。
そして、深夜に「突然紙」の呪入枠に上司の名前を記す。もう、ワクワクしてくる。
あと、八日だ、あと、五日だと、まるで、お正月を楽しみに待つ小学生の様なものだ。十三日目が待ち遠しくて、仕方がない。
残り三日。残り二日。いよいよ明日。
遂に十三日目の朝を迎えた。就寝前の儀式となっていた呪入を、今日は起き抜け一番に行った。その「突然紙」を通勤バッグの中にしまい込む。さあ、うまく上司に渡さなければ。
妻との和やかな朝食の時間を過ごし、私は玄関へ向かって行った。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。あなた、忘れ物はない? 予備のハンカチ、バッグの中に入れておいたわね」そう言って、妻は通勤バッグを渡してくれた。
「ありがとう」
駅に向かって歩きながら、私はもう一度、「突然紙」を持ってき忘れてないかを確かめるため、バッグを開き、中を見た。確かにある。バッグの内ポケットの右サイドに、さっき妻が入れてくれたハンカチの手前に、あの特徴的な黒い紙がちゃんと差し込まれてあった。よし。やってやるぞ。そうだな、昼休みにでも、うまくやって、あの野郎の机の引き出しの中にでも放り込んでやるか。歩きながら、私は一人、ニヤけていた。
だが、この時、私は妙なことに気づいた。確か、朝、「突然紙」を自分で入れた時はバッグ内ポケットの左サイドに入れたはずなのだが。なんとなく変に思った私は、もう一度「突然紙」を手に取って、確かめてみたくなった。
バッグを開け、ポケット右サイドから「突然紙」を取り出す。別に変なところはなかった。黒い表面にどす黒い赤色の文字で突然紙の文字。私はそれをくるりと裏返した。
なんと、そこには上司の名前ではなく、十三個の私の名前が書いてあるではないか! しかも妻の筆跡でだ。そういえば、あの日のセールスマン、私以外にも「突然紙」を買ったお客がいるとか言っていたが、まさか……。
その時、突然、大音量でけたたましいクラクションの音を鳴り響かせながら、ハンドルを取られた大型トラックが私に向かって、猛スピードで突っ込んできた。
突然紙(サドンデス・カード) 朝倉亜空 @detteiu_com
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