魔人兄妹は鉢合わせる

 兄について廊下を駆けながら、イロハは感動を覚えていた。


(空気が、遮られない場所がこんなに……)


 クロが使用した魔法【解放の門リバティゲート】によって開かれた施設外への脱出口により、空気を動かす自由度が大幅に増したためである。帝国軍の要塞としての側面もあるこの研究施設は防御力強化のため窓が存在せず、換気は壁に施された魔法による空気交換システムが用いられており通気孔もなかったため、一部とはいえ空気を自由に動かせる場所があるというのはイロハにとってかなり衝撃的なことだったのだ。


「にぃ様!空気が吹き抜けて行く場所が5ヶ所あるみたいだけど、どこから出るの?」


「さらりと施設全域の空気の流れを把握するとは流石だな妹よ。第3訓練場から脱出する。今は速やかにこの宿舎を離れた方が良い」


 階下から響いて来る爆音を注意深く聞きながら、クロはそう返した。元々はこの被験体宿舎の屋上から脱出する算段プランだったのだが、例の襲撃者たちは既に宿舎の下層に侵入しているらしく、いつ床を突き破って上がってくるかわからない状態だった。そのため、予備プランの1つとして考えていた第3訓練場準最短ルートを使うことにしたのである。


 この研究施設は真上から見るとドーム状の訓練場を頂点とした正三角形を描く巨大建造物である。外部からの襲撃と脱走の両方に備え、被験体たちの宿舎はその中心にあった。


 宿舎は5階層あり、イロハの部屋は3階の半ばにある。クロは当初、イロハの部屋から真っ直ぐ上昇することで脱出しようとしていたのだが、夜の散歩下見の結果クロの部屋の真上に警備員たちの詰所があることが判明し断念せざるを得なかった。加えてクロの部屋のすぐ目の前は5階に繋がる階段であり、巡回の密度が極めて高いためクロの部屋から出るというプランも危険ということで、イロハの部屋から廊下の北端へ進み、そこから上昇するルートを最短ルートとして設定した。その位置ならば4階部分は廊下、5階部分はほとんど人が入らない倉庫と危険は少なかった。


 だがそれも、現状では翻って最も危険なルートとなってしまっている。


(下に来ている魔物の強さは未知数。だが将軍級となれば、平気で地形を変えるような奴も珍しくないとは聞いている。仮に床を突き破って来るとして、その攻撃が屋上にまで達するという可能性を否定出来ない。上昇中――特に逃げ場のない倉庫内でそれが放たれれば回避はほぼ不可能だ)


 部屋を飛び出した段階でそう判断していたクロは、迷わず最短ルートを放棄した。目指すは廊下を真っ直ぐ走り抜けた先にある第3訓練場への下り階段である。


「分かったわ!このまま真っ直ぐね」


 上機嫌のイロハはそう言って更にスピードを上げた。長い廊下にはちらほらと他の被験体たちの姿があるが、隠遁の外套ヒドゥン・クロークの認識阻害がきちんと働いているらしく、兄妹を気に留める者はいない。彼らはどうするべきか決めあぐねている者、安全な場所へ避難を試みる者、あるいは嬉々として階下へと魔物の迎撃に向かう者と三者三様に動いていた。


(そういえば、こういう有事の際の対応については伝えられていなかったな)


 被験体たちの様子を横目に見ながら、クロはそう思い返した。仮にも要塞である以上敵の襲撃を受けた時のための対応マニュアルはあるのだろうが、それが被験体たちに伝えられる機会はなかった。


(もしかしたら不意の襲撃さえも訓練の一環にしてしまおうという魂胆なのかもな……例えば、“兵器らしく積極的に外敵を排撃すべし。参加者には成果に応じて成績にボーナス”、とかか。まあ実際は不参加者にペナルティが降りかかるんだろうが)


 クロは走りながら嘆息した。事前の命令があればまだしも、突然の襲撃では覚悟が決まらず咄嗟に動けない者もいよう。それでペナルティを課すのは理不尽ではなかろうかと思ったからだ。勿論実際に被験体の扱いがどうなっているかはわからないが、常日頃から兵器であれと言い続けている教官や研究員たちが動かなかった者に良い顔をするとは到底思えなかった。


 確実に言えることは、攻撃しに行かないどころか混乱に乗じて逃亡など図っている自分たちは極刑モノだろう、ということだ。


(もっとも、捕まるつもりは更々ないが)


 クロはいつの間にか前に出ていた妹の小さな背中の先を見据えた。襲撃者が宿舎下層にいる以上、施設の警備部隊の目はそこに向いている。第3訓練場などに人員を割く余裕はない。このまま廊下を駆け抜ければ、もう脱出したも同然だろう。


「にぃ様!止まって!!」


 クロのその思考は、宿舎脱出も目前という所で急停止したイロハの鬼気迫る声に断ち切られた。


「どうした!?」


 イロハは答える間も惜しいとばかりにクロの前に立つと、瞬時に空気を寄り集めて圧縮し、透明な防壁を作り上げた。


 直後、前方の床が爆発したかのような勢いで吹き飛ばされた。火山弾のように飛び散った床の破片が次々と空気の防壁に激突する。2人の視界は灰色のカーテンに覆われて全く様子がわからない状態になったが、瓦礫を防ぎきったイロハが防壁を突風に変化させて粉塵を廊下の奥に吹き飛ばしたことによって事なきを得た。


 斯くして2人は廊下の惨状を目の当たりにする。おそらくは真下からの衝撃によって床に直径5メートル程の大穴が空き、周辺の壁には床の破片が突き刺さった上でいくつもヒビが入っていた。


 そして、天井には、魔法照明を反射して冷たい輝きを放つ巨大な両刃の戦斧バトルアックスが突き立っていた。


「大丈夫?にぃ様」


「すまない妹よ、恩に着る。だが状況は最悪だ……」


 クロは目を細めて床の穴を睨んだ。次の瞬間、その穴の奥から人間のようなシルエットが飛び出して来て、天井に刺さった戦斧バトルアックスを引き抜きつつ2人の目前に降り立つ。次いで炎の塊のようなモノが浮上して、人影の隣に並び立った。廊下の気温が一気に上昇する。


「こうなる前にここを離れたかったが……全く図ったかのようなタイミングで上がって来てくれる」


 目の前のモノは、取り敢えずは人の形をしていた。


 特に身の丈の倍近くありそうな白銀の戦斧バトルアックスを担いでいる方は普通の人間の少年と大差ない容姿をしている。こめかみから前方に伸びる、一対のねじれた角だけが、少年が人間ではないことを物語っていた。


 そしてもう一方は、“炎の巨人”としか表現のしようがない見た目をしている。正確には、黒い重油のようなものが細身の人の姿を取っていて、それが激しく燃え盛っているような状態だった。腕組みをしたまま仁王立ちしており、頭の先が天井を黒く焦がしている。


 これが、兄妹が『魔物』を初めて目にした瞬間だった。

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