第2話 召喚は一方通行でした1
カーテンが閉じられたままの室内は薄暗く、陰鬱な空気が漂っている。部屋の真ん中にある大きな寝台の上でイモ虫のような塊がもぞりと動いた。
大きな虫ではなく上掛けをすっぽりとかぶった人間、美波藍華である。
この世界に飛ばされて数日が経過していた。
(うぅ……、もう日本に帰れないだなんて……。しかもよりにもよって、サロチョコ当日に、それも推しのチョコレートをゲットする前に飛ばされるとか……。そんなことってある? せめて帰り道がよかった……)
すでに百回くらい嘆いた言葉が再び頭の中に浮かび上がる。
藍華はイモ虫よろしく丸まり悲嘆に暮れていた。自分は、俗にいう異世界トリップをしてしまったのだ。しかも一方通行。そう、片道切符なのだ。往復ではなかった。酷い。
なんの心の準備もないまま、元の世界から切り離された。家族や友人にももう会えない。愛する推しのチョコレートももう食べられない。三度のごはんよりもチョコレートが大好きで、チョコレートホリックと称されてきたのに。チョコレートが大好きすぎて最近ではビーントーバーにまで手を出し、各種ワークショップに参加をするほどにカカオ豆への愛を募らせていたというのに。
新宿の歩道橋の上で突風に飛ばされた藍華は気付けば異世界へ渡っていた。空から落ちた藍華を助けてくれた青年はクレイドと名乗った。
彼は呆然自失の藍華を応接室へ連れて行き、布張りの長椅子に座らせた。すぐにお仕着せを着た女性がお茶とお菓子を持ってきてくれて、藍華は湯気の立つカップを手に取り、そろりと口を付けた。ハーブか何かだろう、少し独特な味がした。
暖かいものが喉を通り、胃に落ちたことで、少しだけ落ち着いた。
「あ、あの。ここは本当に地球ではないんですか? あなた、コスプレしているだけとか。そういうことではないんですか?」
藍華も必死である。クレイドの言うことすべてを鵜呑みにすることなどできない。異世界トリップではなくてテレポートの可能性もあるではないか。
「コスプレ? なんだそれは。この世界にチキュウという国はない。きみは、《女神の風》によって、この世界とは別の世界から運ばれてきた。この世界を創生した女神とは違う神が作った世界から、女神が招いた客人だ」
「女神……作った?」
「ああ。この世界の創世神はなんの気まぐれか、異世界から人を召還する」
「どうしてそんなことをするんですか」
「我ら人間には分からない。何かしらの意図があるのだろう。女神が異世界から人間を呼ぶと、空の色が変わる。薄紅色から紫、そして青へと変化する光が空から降り注ぐと言い伝えられている。実際、きみが落ちてくる直前も同じ現象が起こった。晴れていたのに、突然に空の色が変化した。長い光の橋が空から地上に降るかのようだった」
空の色が変わり元に戻った直後突風が吹くのだという。そしてその風に乗って異世界人が落ちてくるのだという。文字通り空から真っ逆さまに。
「女神さまはわたしを殺す気ですか⁉」
「まさか。きみには女神の加護が働いていた。地上に近付くにつれて落下速度が遅くなるよう、風がきみを守っていた」
「あれ、あなたが手品か何かをしたんじゃなかったんですか?」
「いいや。私は炎と雷の属性魔法しか使えない。風は門外漢だ」
(ん? 今、この人魔法って言わなかった?)
引っ掛かりを覚えたが、それどころではない。
「とにかく、その話が本当なら、女神さまに頼んで地球、日本に返してもらいたいです。わたし、今日は大事な用事があって。正直、一年で一番楽しみにしていたイベントだったんです。推しのチョコレートを買える年一の大チャンスで。早く帰らないと売り切れちゃう」
「いや……その……。ええと、きみ名前は?」
「美波藍華といいますけど……」
なぜだかクレイドの顔が陰りを帯びた。
「ミナミが名前?」
「いえ……美波は苗字……ええと、家名です。わたし個人の名前は藍華です」
「アイカか。いい名だ」
青年クレイドがふわりと微笑むから、一瞬藍華は呼吸を止めた。銀髪碧眼の美形男子の笑みは恋愛ド底辺の自分をもときめくくらいの破壊力があるらしい。
「アイカ殿、きみにとっては辛いことだが、《女神の風》によって運ばれてきた異世界人は、元の世界に帰ることはできない。帰る手段は不明なんだ。残された記録によると、これまでにも幾人かの客人が現れたが、皆この世界に留まったままその生涯を終えた」
そのとき、ぴしりと世界が割れる音がした。頭が真っ白になって、心臓がバクバクと大きく脈打った。
あのときのことを思い出すと、正直今も泣きたくなる。
実際藍華はあのあと、ひとまず落ち着くようにと案内された客間にずっと閉じこもったままなのだ。
(だって……呼ぶだけ呼んで一方通行とか……そんなのありえない)
一体女神はなんの目的で異世界から人を呼ぶのだ。人の承諾も得ないで何様だ。いや、女神さまなのだろうけれど。
と、今日も女神さまを恨めしく思ったところで扉が控えめにノックされた。
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