Fangs

加茂波奏人

1章

Fangs

 男は土砂降りの雨の中をただひたすらに駆けた。

何の突起物もない金属の角柱、ビル群の壁に男の姿が反射して汚れた衣服を映し出す。

常人にはとても出しえない速度で、脱兎のごとく合間を縫って、一呼吸のうちに3つはビルを越した。


 加茂修一は自身がなぜ追われているのか、自身でさえ理解が追いつかなかった。

法に触れたわけでもないのに、制服を着た警察官3名にいきなり取り押さえられそうになったから、つい逃げ出してしまった。


 逃走劇からおよそ5分、今までに3度も発砲され、23回止まれと叫ばれた。

通信機で応援を呼ばれた為、車両の通れない路地裏に逃げ込んだ。


 これだけやってもまだしつこく追いかけられるほど、自分は重大な罪を犯してしまったのだろうか。


 事象に心当たりはある。

何故なら今、現在進行形で加茂修一の身に起こっている現象はどう考えても異常だからだ。


 まず大前提として、加茂修一の知る加茂修一は、走る行為が得意ではない。

家から駅までの徒歩5分で息が上がる軟弱男児の自分に、警察との大立ち回りを敢行できるほどの体力はないのだ。


 では加茂修一の体力を向上させた事象とは何か。

それを説明する為には、今から10分ほど遡る必要がある。


(……なんだこれ)


 綺麗な青色の『牙』。

肉食動物の犬歯だろうか、外見としては非常に鋭利さを感じさせた。

道端に落ちているのを見て、加茂は一度拾い上げてみると、金属を加工して作ったらしく重量感があった。


(…………)


 加茂修一が出した結論は、『コスプレ用の入れ歯』だ。

アニメやゲームのことは詳しくないが、犬歯の青いキャラクターなんて1人くらいいるだろう。

そう思ったわけだ。


 で、ここからが本題だが、加茂修一は犬歯が若干外側に飛び出たいわゆる八重歯というやつで、本人はあまり好ましく思っていなかった。

青色の牙の根元を見るとなんの取っ掛りもない形状をしているのを不思議に思って、服で擦って汚れを落としたあと、ショーウィンドウを鏡代わりにして取り付けてみた。

取り付けると言っても金具やへこみがある訳でもないので歯茎に押し付けただけだが。


 するとグキッ、と神経の奥に何かが突き刺さる感覚が加茂を襲った。

驚いて手を引こうとしても、入れ歯がくっついて離れない。


 5分もの間、外れない入れ歯と格闘したあと、道行く人の視線が加茂の口元に向かっているのに気づき慌てて場を後にした。


(なんで外れないんだよ……)


 周囲の目を気にして移動していたのが不審に見えたのか、警察に職務質問を受けて今に至るという訳だ。


「いたぞ!」


 野太い男の声と共に曲がり角の奥から懐中電灯の光が交錯する。

もう時間が無い。


 加茂は壁を見上げて数回スクワットをして軽くイメージを掴むと、地面から3mは上にあるダクトへ向けて思い切り飛び込んだ。

本来ならバスケットゴールの枠すら触れないが、今なら月にでも居るようにふわりと浮かび上がることが出来た。


(掴んだ! ……あとは)


 パイプを伝ってビルの非常階段へ、立ち幅跳びの要領で飛び込むと、上へ上へ階段を駆けた。

屋上にさえたどり着くことが出来れば、因幡の白兎のようにビルからビルへ渡っていくことができる。

ヘリでも使わない限り加茂を捕捉、追跡できる方法はないという寸法だ。


 屋上へのドアに手がかかったその瞬間、加茂は向こう側に誰がが立っている気配を察知する。

身体能力だけではなく、聴覚などの感化面も研ぎ澄まされているようだった。


 時間は惜しいが、迂回するか。

彼の逃げ腰な態度とは裏腹に、事態はもう、とうに引き返せる段階を過ぎてしまっていた。


「いるって分かってんならさっさと出てきなさいよ、根性なし」


 ……バレていた。


 今更遅いとわかっていても身体が無意識に呼吸と瞬きを止めるが、加茂の脳と四肢、ひいては青の牙等だけは全く別の行動をとった。


 ドアを開けて、目の前にいるであろう女の声の主、その顔を拝みに行くのだ。

今の加茂は例え重火器を持った相手でも片手で鎮圧出来てしまうと思えるほど、強大な力を手にしていた。


――そう、思い込んでしまっていたのだ。


「誰だお前」


 俺の知り合いに赤髪のツインテールは居ない。

ましてやあの全国的にも有名なお嬢様学校、ローズ学園の制服を着た人間など、いいとこ、テレビで拝見した程度のものだろう。


「さあね」


 赤髪の女は柵にもたれかかって、面倒くさそうに答えた。


(たまたま居合わせただけの部外者か?)


「悪いが話している余裕はない。 急がなければ、今に警察共がビルを昇ってくるだろうからな」

「あっそう。 じゃあ私も悪いけど、アンタ――逃げきれないわよ」

「何?」


 女の手には不良マンガでしか見たことないようなメリケンサックが握ってあった。

お嬢様学校の生徒がそんな物騒なものを持ち歩いているのもおかしかったが、加茂はもう、おかしな物体は見慣れたのだ。


「私が止めるもの」

「そんなので俺とお前の身長差と体重差が埋まると思ってんのか」

「アンタの言う『そんなもの』がどんなものかは知らないけど、モノは見かけによらないってのは身をもって理解してるんじゃない?」


 嫌いな顔だ。

干してた服が風で落ちてたから洗い直さなきゃいけないとか、寝る前に玄関の鍵を閉めたか忘れて確認に行かなくちゃならないとかの、日常生活の些細な手間くらいにしか俺の事を認知していない。

退屈そうな顔。


 加茂はそんな彼女の態度が堪らなく気に入らなかった。


「そうだ、一つ忠告しておいてあげる。 ……今からアンタをぶん殴るけど、絶対に防御しないこと。 したら死ぬし、死ななくても殺すから」

「わざわざご忠告どうも。 じゃ、俺からも一つ……」


 彼女の言葉には得体の知れぬ威圧感があった。

このまま忠告を守って攻撃を躱すか、それとも無視して防ぐか。

どちらにしても思い通りになっているようでいけ好かない。


 ならば自分から仕掛けるまでだ。


「素直に殴られるほど俺は甘くねぇよっ!」


 5mはある間合いを一呼吸より早く埋め、顔面に拳を叩き込む。

だが女の顔は腕のすぐ隣――――避けられたのだ。

腕を振り抜くまでに動きはなかったから、完全に見切られていたことになる。


 女は加茂の一撃を値踏みするように見つめると、ため息を混じりに息を吐いた。


「残念だけど、合格」


 最後まで意味のわからないことを言う奴だ。

無駄のない動きで華麗なカウンターを繰り出す彼女の姿を最後に、意識の動線がぷっつりと途切れた。

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