#3 偉大な力
「ドラえもんのひみつ道具の中で最も偉大なものは何かわかるか?」
夜中の二時過ぎにかかってきたテレビ電話に出た途端、山田はこう切り出してきた。彼には、もしもしだとか、調子はどうだ、みたいな会話の導入部分が欠落している。いきなり本題から入る会話は、寝起きの状態ではかなりきつい。
「……大学、五月まで延期だってよ。ホームページ見た?」僕は山田の質問は無視し、部屋の電気をつけ、ベッドから机に移動しながら言った。
「ああ見た。世界は闘いを強いられている」と山田は画面越しに、自室の椅子にもたれかかって険しい表情を作っている。彼の机には大量のノートが積まれている。
僕たちの世界には今、どうやら小さくて見えない敵が現れたらしい。大学の延期、バイト先の営業停止など、僕の周りでさえもかなりの影響が出ている。世界中が大混乱、なんてSF映画のキャッチコピーでさえも古臭い字面が、連日テレビの中で放送されている。それくらいの異常事態。こうして山田がテレビ電話をかけてくる状況から見ても、それは十分すぎるほどに伺える。
「で、さっきの質問の答えはなんだ?」
「なんだっけ」僕はまだ完全には起ききっていない頭を揺らしながら椅子に座った。
「ドラえもんのひみつ道具だ。いいか、これはものすごく大事な話だぞ。人類の存亡の危機に関する質問だ」
ドラえもんのひみつ道具の話がなぜ人類の存亡にまで発展するのか、僕にはよくわからなかった。が、とりあえず、「タイムマシンかな」とパッと思いついたものを答えた。
「やっぱりお前はダメな奴だな」イヤホン越しに山田のため息が聞こえる。「じゃあ質問を変えよう。人類の最も偉大な力は何だ?」
「さっきから何を聞いてるのかさっぱりだ」
「いいから答えろ」
「……言語を操れること、とか」
「なるほど。まあいい線いってるが、それが本質ではないな」
「そうか。じゃあ正解を教えてくれ」
「いいか、人類の最も偉大な力はな、適応力だ」
「はあ」
「どんなに劣悪な環境だろうが、人類は生き延びる術を見つけることができる生き物なんだ。だからこそここまで生き延びることができた。だからこそ食物連鎖の頂点に君臨し続けることができている。だからこそ月に行って帰ってくることもできた」
「なるほど」
「じゃあ最初の質問の答えに戻ろう。ドラえもんのひみつ道具で最も偉大なもの。それはタイムマシンでもどこでもドアでもない。テキオー灯だ。大長編ドラえもんシリーズで度々登場する。知ってるか?」
「ああ、あの光を浴びたらその環境に適応できるってやつ」昔読んだコミックスを思い出す。
「そうだ。いくらタイムマシンで何億年過去や未来に行けたって、どこでもドアで銀河の遥か彼方にあるこりん星に行けたって、その環境に適応できなければ何の意味もない」
「こりん星はどうやら無いらしいぞ」と僕が言っても、山田はそれを無視して話し続ける。
「テキオー灯はいわば人類の最高到達点でもあるわけだ。藤子・F・不二雄はきっとどんな環境にも適応することが出来る人類の姿から発想を得てテキオー灯を思いついたに違いない」
僕は適当に相槌を打って、横にある窓から外を覗いた。道路の脇に設置された電灯の明かりが見えた。明かりは、真向いの家の庭先に植えられた桜の花びらをぼんやりと照らしている。
「お前は今、この環境や状況についてどう思うんだ?」唐突に山田は僕に訊ねた。
「ん? まあまた今までの生活に戻れればいいなと思っているよ」
これを聞いて、山田は今日一番の大声をあげた。
「戻るだと? ふざけるな! ちゃんと俺の話を聞いていたのか? 今この状況は単発的なものではない。非日常なんかじゃない。いまからこれが日常になるんだ。いいか、いわば一つの時代だ。他のくだらないテレビタレントの浮気の報道や記者会見での言葉の選び方がどーのこーのみたいなニュースとはわけが違うんだ。三年前に不倫した奴の名前をどれだけ言える? 今起こっているこの事態は百年後まで語り継がれるぞ。俺たちはいま歴史の教科書の中に載るような時代に生きているんだ。その自覚を持て。それをなんだ? 今までの生活に戻るだあ? 違う、前進だ。歴史は逆戻りなどしないのだ。人類は前に進むことでしか生き残れない。前に進む、進化しろ! ダーヴィンのおっさんが言ってた進化論。あの有名な絵をいつまであのままにしておくつもりだ? あの絵の右端にこの劣悪な環境に適応した新しい人類の絵を載せることができるのかどうか、それに全てがかかっているんだ!」
一息に話した山田は脇に置いてあったペットボトルの水を口にふくんだ。僕が言った何気ない一言にこれほどまで言葉を返すのが、山田の凄いところだ。
「そうは言うけどね、人間はポケモンみたいにすぐには進化できないと思うよ」
「その通り」山田は待ってましたと言わんばかりに鼻を膨らまし、ペットボトルを荒々しく脇に置いた。「人類の進化はポケモンとは違う。本当に少しずつだ。レベル上げをしようが、かみなりのいしを持たせようが大した進化は得られない。だが人類は進化し続けることができている。それはなぜか」ここで山田は言葉を区切った。「それはな、過去に生きた人類から学び続けているからだ。いま俺たちが闘っているような『見えない敵』ってのは過去にも似たような例がある。人類はその時々で見えない敵と闘い、そして学びながら生き残ってきた。ある敵からは蚊が人類を脅かしていることを学んだし、ある敵からは水を消毒することで対策できることを学んだ。そしてその学びは現在にも受け継がれている。
ここなんだ。人類は過去に生きた人類が学んだことをあらゆる手段を使って受け継ぐことができるんだ。その手段の一つにお前がさっき言った言語は大きく貢献している。こんな生き物は他にいない。ハトは三歩歩いたら自分のことでさえも忘れてしまうらしいが、人類は何百年何千年前の他人のことだって覚えているし、同じ時代を生きている身近な人間ならなおさら学ぶことは多い。たとえば死だ。誰かの死を自分の生に活かすことができるのは人類の特権だ。これだから俺はあらゆる生き物の中から人間を選んで生きてるんだ」
「お前は選んで人間やってるのか」
「当たり前だ。人間かニホンカワウソかこりん星人かで迷ったんだ」
「……それは、危ないところだったな」どこまで本気で言ってるのかわからないが、山田の表情は至って真面目そうだ。
僕は大きく伸びをした。山田はまだ話し足りないらしい。夜中によくそんなに話し続けられるものだと感心しながら、今度は欠伸が出た。
「つまり俺が言いたいのは歴史から学べってことだ。こういう時こそ歴史を勉強するんだ。歴史の本質は鎌倉幕府ができた年号を暗記することでもテストで満点をとることでもない。今を生きる俺たちが過去を生きた人類から生き残る術を探ることにある。そして生き残った暁には、また未来を生きる人類の歴史となって手助けすることができる。過去から学び、そしていま自分たちの手元にある武器を把握する。それらを踏まえたうえで、自分の暮らしに適した戦略を立てなければならない」
「前進するために」と僕は言った。
「その通り。わかってきたじゃないかワトソンくん」
「誰がワトソンだ」
「ん? ワトソンは褒め言葉だ。ヤツは立派な医者だからな。いま最前線で闘っている人々だ。まあたしかにお前は医者ではないから、ちょっと褒め過ぎてしまったかもしれないな」
「…………」
「俺たちは医者でも専門家でも政治家でもない。でもだからといって俺たちが何もしないなんてことはあってはならない。『専門家に口出すな』って漢字を覚える時に習ったが、専門家の口から出る情報は逐一キャッチしなければならない。現代の武器は情報だ。正しい情報を取捨選択し自分の行動に活かす。そうだろ?」
「まあ、そうだな」
「だからな、今から俺とお前でこれから生き延びるための作戦会議を行う」
「今からって、もう午前三時だ」
「時間は待ってなどくれないのだ。休んでる場合じゃないぞ!」
「休むことも大事だよ」
「とにかく、俺がここ数日かけて行った情報の取捨選択をお前にも共有してやろうと思う。項目は全部で二百三十五個だ」
「取捨選択の捨の部分にもっと力を入れてくれ」
「うるさい。いいか、まずは細菌とウイルスの違いについてだが………」
「そこからか……」僕は大きく肩を落とした。
こうなってしまった山田を僕はどうすることもできない。電話を切ったところで何度でもかけなおしてくるだろう。
僕は寝ることを諦めて、キッチンにコーヒーを入れに行こうと席を立った。
窓の外をもう一度覗くと、電灯が足元に作るスポットライトの中で、桜の花びらが一枚、ひらひらと美しく舞っているのが見えた。
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