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九月十九日、夜の七時すぎ。
アパートを訪ねてきたのは、二人組の男女だった。
警察だというのでドアを開けた。
「夜分失礼します。私、N警察署のクボタと申します」
三十歳くらいの背の高い男は、手帳を見せてそう名乗った。N警察署は、ここN市にある警察署だ。
続いて男は、うしろに立っているスーツ姿の女性を紹介する。
「で、こちらが同じくサクマです」
サクマと紹介された、これも三十歳前後の女性は、ニコリともせず、頭を少しだけ下げた。
合わせて少しだけ頭を下げると、男が
「漫画家の
「ええ、そうですけど」
男は、アキラの身体を値踏みするように、頭のてっぺんからつま先まで、さっと視線を走らせた。
その目つきにかすかに嫌悪を覚えながら、アキラは用件をうながす。
「わたしになにか?」
「実はですね、ご存じでしょうが、いまT県内では、十代の若い女性が
「あー」
ああ、あの事件か、と思いつつ、アキラは続ける。「その件なら、二、三日前、刑事さんがやってきて、いろいろ
「なにか有益な情報でも?」
「いえ、特になにも見ていない、ということしか……」
「そうですね。二週間ちょっと前、このN市でも被害者が出ましたので、みんなで手分けして、地元を一通り当たっているのです。ただ、今日はまた別の情報を得たので、小田切さんに確認に来たというわけです」
「はあ……」
「九月三日に、専門学校生の少女が、遺体で発見されました。調べたところ、死亡したのはその前日の九月二日。直接の死因は、包丁のような刃物で、のどを切られたことによるものでした。で、ですね、犯行の前日、九月一日の夜七時ごろ、小田切さんはホームセンター『ミライ』で包丁を購入しておられますよね?」
「あ……」
ぎくりとした。なぜ、警察がそんなことを知っている?
男の唇の端が少し上がったように見えた。
「小田切さんが包丁を買うところを見ていた人がいましてね」
聞いたとたんに、その人物に思いあたった。
大家のババアだ。
あの日、ホームセンターで包丁を物色し、ひとつを選んでレジに行ったとき、むこうの柱の陰からこちらを見ている人物に気がついた。大家の老女だった。いつもなにかと文句を言ってくるいやなバアさんだ。よりにもよって、こんなところを見られるなんて、と胸のなかでクソッと毒づいた。もちろん顔は必死に平静をよそおい、だまって頭をさげておいたのだが。
あのババアが警察にたれこんだに違いない。
「どうです? 間違いありませんか?」
「い……いや、そうですけど……いやいや、待ってください。包丁なんて、みんな必要があれば買うじゃないですか」
「あなたが包丁を買うのを目撃した人の話では、買ったときの様子がどうにも怪しかった、と言うのですよ」
「そ……それは……」
返答につまると、男が目をのぞきこんできた。いやらしさを感じた。
「それは? それは、なんですか?」
「あの……」
「はい」
「包丁を買ったのは、その……漫画を描く参考にするためなんです」
「ほほう、漫画ねえ」
男は疑わしそうに、皮肉をこめて相づちをうつ。
「嘘じゃありません。いま、ホラー漫画を描いていて、包丁でのどを切り裂く、というシーンが出てくるので」
「これですか?」
男が背広の内ポケットから一枚の紙を取りだして、アキラの前で開いて見せた。
漫画をコピーしたものだった。
ひと目見て、自分が描いた漫画だとわかった。殺人鬼であるイケメンの若い男が、ベッドに縛りつけた女子高生ののどを切り裂く、クライマックスのシーンだ。タイトルは『ほほえみの殺人鬼』。
アキラは十六歳のとき、少年コミック誌の新人コンテストで優勝し、プロデビューを果たした。しかし、その後は
このあいだ包丁を買いにいったのも、殺人鬼の大学生が、女子高生を殺すことを夢想しながら包丁を選ぶ、というシーンの参考にしようと考えてのことだった。
たぶん、実際に包丁を選んでいるときのアキラ自身も、殺人鬼のような顔つきになっていたのではないだろうか。それを、たまたま大家のババアに見つかってしまったというわけだ。しかも、それが現実に起こった事件の前夜だという。なんて運が悪い。
「これですよね、あなたが描いた漫画?」
男がもう一度念を押して訊いてきた。
「は、はい」
「女子高生を拉致して、ベッドに縛りつけ、爪をはいだり、焼きゴテを当てる、などの拷問をしたあげく、包丁でのどを切り裂く。そんな内容の漫画ですね。実はね、小田切さん、いま起きている事件も、これに似ているのですよ」
「えっ?」
ぎょっとして訊きかえした。
「そうなんですよ。マスコミには、詳細を伏せて単に『暴行を加えられて殺された』と発表していますが、実は、数時間にわたって拷問を加えられた跡があるのです。そうして、最後は包丁かナイフのようなもので、のどを切られている。これ、犯人しか知らないことなんです。それがこうして」
男はコピーした漫画をアキラの目の前でヒラヒラさせる。「漫画の形になっている。奇妙な一致だとは思いませんか?」
「ちょっ、ちょっと待ってください」
警察に疑われていると知って、アキラは頭に血が逆流するような気がした。「こんな拷問のシーンなんて、ホラーを描く漫画家なら、だれだって思いつきますよ」
「そうですかねえ」
「そうですよ」
「ふぅん」
男は皮肉っぽい笑みを浮かべて、女のほうをふりむいた。女もつられて唇の端をつりあげた。
彼らのしぐさを見て、アキラは一瞬だが思った。このふたり、デキてるんじゃないか、男と女の仲なんじゃないか、と。
そんな考えは、しかし、男が続けて発した言葉によって、頭の隅へ押しやられた。
「まあともかく、小田切さんもいろいろ釈明したいこともあるでしょうから、N警察署のほうへ来ていただいて、話をうかがいたいのですよ」
「え? 警察へ?」
「そうです。もちろん、任意同行ですので、拒否する自由はあります。ただし、拒否なんてすると、かえって心証を悪くするんじゃないでしょうか。小田切さんが、警察は誤解している、と思うなら、この段階で堂々と説明なさったほうが賢明だと思いますよ?」
なかば脅迫のような言いかただったが、言っていることは案外正しいかもしれない、とアキラは思った。きちんと説明すれば、きっとわかってもらえるはずだ。
外出のしたくをした。友人たちに連絡するかどうか迷ったが、結局やめた。警察へ引っぱられていく、なんて、みっともなくてとても言えない。話をしただけで、引いてしまう人もいるかもしれない。いつか笑い話のひとつとして語るぐらいでいいだろう。
アパートを出て、近くに停められていた車に同乗した。パトカーではなく、普通の乗用車だった。女が運転し、アキラは男と並んでうしろの座席に座った。
だが――。
しばらく走ったところで、アキラは妙なことに気づいた。
車が街のはずれに向かっているのだ。
「あれ? どこへ行くんです? N警察署は――」
最後までは言えなかった。
男が突然アキラにのしかかってきて、口にハンカチを押しつけてきたからだ。
甘い香りを嗅いだ。
と思ったら、もうアキラの意識は飛んでいたのだった。
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