自殺願望と闘う。

長居佑介

本編

死を考えた契機(小学生編)

※再度申し上げて置きますが、これは個人の主観の話です。


 2010年、小学三年生、初めて自殺を考えた。直接的な原因は今考えれば特段大した理由ではなかったと思う。具体的に『何』と言い切ることはできないが、家事の手伝いをしなさいや部屋を片付けなさい程度の小さな衝突が私を自殺に駆り立てた。私の中の『ナニカ』がこの時、壊れたのだろう。

 一週間か、二週間か、ひと月か。その程度は我慢していた気がする。だが、理性でどれだけ誤魔化そうと自分の中から湧き上がる衝動はどうしようもない。その衝動に突き動かされるようにマンションの屋上にいた。それが一度目の自殺未遂だ。私しか知らない、ひっそりとした自殺未遂。

 当時の私が『自殺』を考えたのは、御立派な道を歩んできた人達からは共感すら得られないだろう。当たり前のはなしではあるが、ドラマチックな事件があったわけではない。裏金で借金を抱えた訳でも、親がリストラをされたわけでも、両親が不倫をしていたわけでもない(実態はどうだか知らないが)。ただ、普通の、本当にごく普通の小学生が真剣に『自殺』を考えていた。

 まず、その理由の一つとして、テレビがある。今の私からでもテレビは魔物だ。ニュースでは、一週間に一回は必ず人が死ぬ。お笑い番組では平然と人をたたき、日曜討論では意見と人格否定をごちゃまぜにした論争が飛び交う。慣れてしまって何も感じないのかもしれないが、冷静に考えればこれが異常事態でないわけがない。

 ペルソナすらきちんと作れていない子供にこれを見せる異常。幼児性愛がどうとかいう前にPTAは目の前の異常を直視すべきだ。

 どれだけ先生が、官僚が、高僧が『命は何よりも大事』と御高尚な事を述べようとテレビを見ていれば一週間に一つの命は消える。ひどい時では毎日消える。殺人、自殺、紛争。理由はいろいろある。

 だが、それが著名人でもなければ一つの命にフォーカスなんてしない。ひと月世間を騒がされ場いい方で、中には数日で消える命もある。そんな儚い命にどれだけの価値があるのか。所詮、政治家の不祥事の方が人の死より大事なのだ。

 しかも、子供でも調べればそれ以上の人間が世界中で今この瞬間にも消えていることがわかる。自動車事故、老衰、紛争、飢餓。日常的に死ぬ現場では、その死自体にすら価値がなくなる。彼らは死んだことすら知られない。名も知れぬ『ナナシ』は最後まで『ナナシ』だ。

 テレビにとって、命の価値は平等ではない。いくら御高尚なことを言ったところで、行動は言葉よりも雄弁だ。

 命だけではない。

 あの当時、私にはテレビが倫理や道徳を冒涜しているようにしか見えなかった。

 例えば、『人を叩いてはいけません』というありふれた警句。だが、芸人は平然と人をたたく。『人に迷惑をかけない叩きは大丈夫。芸人が人を叩くのはツッコミだから迷惑になっていない』という意見もある。御大層な大人の理論だ。子どもがそんなこと見分けられうはずがない。

 例えば、『人に悪口を言ってはいけません』という警句。日曜討論でデータと論理の名のもとに人をけなす。どれだけデータという仮面をかぶってもその皮の奥からにじみ出る感情が、データを使って人を貶めたいという欲を垣間見せる。

 どれだけ言葉で見繕ったところで、社会はクソだ。悪い側面だけに目を向ければ、簡単にそういう結論が出る。

 ならば、悪い部分を見なければ良いという意見もあるだろう。だが、子供時代は二十年もある。この長い間、見なければ良いという意見はあまりにも暴力的だ。

 一回、負のスパイラルに囚われてしまうと、テレビから湧き上がる呪いの言葉が私から生きる力を徐々に奪っていった。夢も希望もない将来に対して、どういう神経をすれば生きよう、努力しようと思えるのだろうか。

 加えて、ユニセフが言う『10円あれば一回のワクチン接種ができます』という広告。それ自体は悪い内容でもなんでもない。

 だが、それは先進国の人が一人を教育するコストを途上国に回せば、一人以上の人が幸せになるということだった。地球という惑星を用いた椅子取りゲームの席で渋滞が起きているなら、私が死んで渋滞を少し解消しよう。当時の私は割と真剣にそれを考えていた。

 もしかしたら、当時の私が立派な人間であれば席を譲ろうと考えなかったかもしれない。だが、当時の私は嘘つき少年だった。ともかく嘘をつく。親に嘘をつき、先生に嘘をつき、友達にも嘘をつく。

 あの当時、自信を一切持てなかった。それは成長の過程で自然と共に身につくのかもしれないが、嘘をついていれば一切得ることはできない。虚栄心を満たすために嘘をつく。

 健全に成長している人がいる以上、私の性格に多くの問題があった事は確かだ。それは認めるが、環境にも問題があった。ともかく、自己承認できる瞬間が来なかった。

 例えば、勉強。私は確かに優秀だった。国語も算数も社会も理科も百点を取ることの方が多かったし、八十点など一度たりとも見たことがなかった。先生の話を話半分に聞いていればその程度であれば取ることができた。

 だが、私は勉強で自己承認を得ることはついぞなかった。まず、一つ目の理由は中学校受験をする人がクラスの中には何人かいて、その人たちも私と同じ程度の成績を取っていたからだ。二つ目の理由は、勉強の結果に対し大した価値を見出していなかったからだ。先にも述べたが、小学生の私はおごり高ぶっていた。先生の話は友達との雑談より価値は低く、宿題は答えを写すものだった。それにも関わらず点数は出る。『あなたは歩くことができるからすごい』と褒められても愛想笑いくらいしか浮かばない。

 結局、勉強の分野で私は自己承認を得ることはできなかった。

 そして、このことはすべてのことに言えた。最近、教育へコストをかけるべきという価値観が広まったことで子供のレベルは高い。中学校受験をしようものなら偏差値という名のもとに自分の才能をはかられ、スポーツクラブに入ろうのなら半分は一回戦で負ける。どこでも競争、競争、競争。

 この環境でどうやって自己承認を得ればいいのだろうか。

 自己承認を得たい欲望は私に嘘をつかせることを増進させた。嘘をついて、ついて、つきまくった。

 結果、小学生の私の中に、フラットな私と虚栄の私が存在した。

 初めて自殺を考えるときまで、私は虚栄の私になろうと努力していた。だが、折れた。柔軟性のない虚栄は、ゴムのように弾性を持つことはなく、ぽっきりと折れた。

 その時、自分が屑なのだと心の底から納得した。素晴らしい人間じゃあなんかない。

 地球は人間であふれているのだから、死ぬかと自然と湧き上がってきた。

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自殺願望と闘う。 長居佑介 @cameliajaponica

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