暴力
『……というのがルーシーレイン女史、通称レディ・ストランドのあらましね』
「そうか」
ほとんど感情を交えない、乾燥した声音で羅畝の通信に返しながら、路黒は通路を曲がった。
たかだか400メートル前後の上昇である。
それほど昇ってきた訳でもないのに、上層階の空気は薄く、そして澄んでいた。工業区が存在しない為か、大気を覆う細かな塵も少ないようだ。
防塵用マスクや抗体フードを纏った人間が明らかに少ないのも、その証だった。
『興味ゼロって感じだね。いちおう相手は辰陽会に繋がりのある街の名士サマで、管理局にも
「向こうはジィエンの死と“本”を追ってる俺たちを消そうとしている。その事実が変わらないなら、必要以上に恐れるのは無意味だ」
「そりゃあ、そうかも知れないけど……」
「俺は『弔い』を果たすだけだ。たどり着く場所が同じなら道行きくらいは好きにさせて貰う」
ヒューッ、という口笛が無線の向こうから聞こえてきた。呆れたようでもあり、茶化しているようでもあったが否定の気配はない。
光に煌めく噴水、生い茂る鮮やかな緑の低木、遠くを駆けていく犬と少年。
上層に広がる清潔感に満ちた穏やかな景色を脇目に、路黒は歩き続けた。
平和であれ。平穏であれ。この風景を生んだものは、確かにそう願ったのに違いなかった。
では下層は。そこに暮らす者たちはどうなのだ。
平和と平穏を求め、願い、そして叶わなかった者たちの想いは果たして何処へ行くのか。
傍目には美形の青年だが、彼の放つ気配は尋常のものではなかった。
殺気、あるいは凶気。そういった類いの瘴気を引きずりながら歩むその姿に、人々は
やがて。
携帯端末を確認し、路黒は顔を上げた。その眼前に建ち塞がっているのは豪奢な造りのナイトクラブである。掲げた看板には『ストランド』の刻印。
「失礼ですが」
店の前に立つ路黒に声を掛けてきたのは、扉の脇に控えた黒服のひとりだった。体格の良い、荒事に慣れた雰囲気を漂わせた男である。首筋から覗くタトゥーが素性を伺わせる。
「なにか御用ですか。こちらの営業は夜からですが」
「オーナーのルーシーレイン氏に話がある。始末しそこねた咒骨商が“本”の件で来た、と伝えろ」
「なんの事だか……申し訳ないが、お引き取りください」
黒服がぶしつけな訪問者の肩を押そうと手を伸ばした瞬間、その鼓膜を突然の高周波が襲った。
悲鳴をあげながらイヤホンを放り捨てた黒服の、両目を覆うバイザーがショートして電気が走った。
悶える黒服たちを尻目に、路黒は『ストランド』の扉を蹴破り、建物の中へと踏み込んだ。
すでに警報装置や監視カメラはうつむき、沈黙している。無論、すべて羅畝の仕業である。
『んー、加担しといてアレだけど少し乱暴じゃない?』
「何を言ってる。ここまで来れば後はキングを取るまで前進するだけだ」
真紅の絨毯に靴裏の泥をこすり付けながら路黒は吐き捨てる。もはや不機嫌さを隠そうともしない。
バラバラと建物内から湧き出て来た黒服たちに取り囲まれながら、路黒はぱきぱきと指を鳴らしながら大声で叫んだ。
「レディ・ストランド!会いに来たぞ!いま出てくれば、部下は全員無事に帰れる!」
何だてめぇは、辰陽会を舐めてんじゃねえ、狂ってんのか下層のガキが、お前こそ生かして帰さねぇぞコラ。
独創性に欠けた罵声と怒号を浴びたまま、路黒は黙念と立ち尽くしていた。口の中でまるまる十秒を数え終えたとき、その両目がかっと見開かれた。金色の瞳。殺戮の合図。
虎が吠えた。
血煙が舞い、無数の手足が飛んだ。出会いと別れを繰り返す美しきナイトクラブが、赤く染まった。
■
冗談じゃない、とルオンは思う。
彼女には計画があった。手にした“本”を起点とした遠大な計画が。
都市運営会議を脅し、議員の地位を手に入れ、法令を通し、そして自身の名を永久不滅のものとする。
その為には、なんとしてでも“本”が必要であり、そこに記載された知識を独占するために、中身について知るものの存在を消し去る必要があったのだ。
本。およそ250年前に記述された都市計画の実質的発案者のひとり、即ち
そこに記されていたのは『断絶』によって消え去ったはずの漂流街の運営計画であり、その航行理由と真の目的であり、当時の人々が抱いた理想と現実と欺瞞の物語であった。
壊れたルオンにとっては、なんら感慨を抱く内容のものではなかったものの、それでも自分のために役立ちそうだという事だけが理解できたのだった。
ゆえに半年という時間を費やし、そして計画を実行段階へ移行しようとした。
その直前になって、突然現れた咒骨商とかいうオカルトマニアどもが“本”の存在に勘付き、動き始めたのだ。
ストランド。細かく、乱雑に絡まった因果の紐糸が自分をたぐり寄せている気がした。
繋げ、解き、結ぶのは私の役割のはずなのに。
「エス。ストランド。女史。なんでもいい。お前がルーシーレインだな」
唸るような声に顔を上げると、階段の下から生臭い風が吹きつけてきたような気がして、ルオンは思わず顔を背けた。血の臭い。死の匂い。
自分で手を下したことは一度もなかったが、嗅ぎ馴れたその悪臭を全身から滴らせながら、フロアに押し入ってきた二足歩行の虎が咆哮する。
「“本”は何処だ」
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