第14話 夏合宿はじまる(後編)
寝苦しい夜だった。
いつもならば昼の練習で疲れ切ってしまい、目を閉じて波の音を聞いていれば眠ってしまうのだけれど、その日はいくら目を閉じても眠れなかった。
隣のベッドから、ユキホの寝息が聞こえる。
コテージに二部屋ある寝室は、一部屋をヒデさんとノリさんが、一部屋をボクとユキホが使っている。男女一緒の寝室ってのはまずいんじゃないかとヒデさんが心配したけど、ユキホがまるで気にしないと言ってこの部屋割りになった。
「ヒデとジュンを同じ部屋にする方がヤバそうだ」
そんな軽口を言って、ノリさんは笑っていた。
眠ることを諦めたボクは、喉の乾きを覚えてベッドから這い出した。ユキホを起こさないように気を付けながら、キッチンを目指してリビングへと出る。
リビングの明かりは消えていたけど、窓から差し込む月光が部屋を青く照らしていた。開け放たれた窓から波の音が聞こえ、潮風が吹き込んで乱暴に前髪を撫でていく。
キッチンへ向かって踏みだした瞬間、人の気配に気づいて歩みを止めた。目を凝らして見ると、リビングのソファーに人影が在った。
「どうしたんです? 電気も点けずに」
ギターを抱えたヒデさんが、ソファーに身を沈めていた。
「ジュンこそどうした」
「なんだか寝苦しくて……」
三人掛けのソファー、ヒデさんの隣を指差して座っていいかと尋ねると、右側にボクが座るスペースを空けてくれた。
「何ごとです? ギターなんか抱えて」
「イメージトレーニング……かな」
「こんな夜中に?」
「そう、こんな夜中に」
会話が続かなかった。
ヒデさんはギターを壁際のスタンドに収めると、ソファーに座りなおして遠くを見詰めたままだ。もしかして邪魔をしてるんじゃないかと心配になってしまう。
気まずい沈黙が続く。
波の音とヒデさんの息遣い、そして時折吹き込んでくる風の音だけが部屋に満ちていた。居たたまれなくなって、思わずボクから口を開いた。
「イメージトレーニングって、何をやるんです?」
「……想像するんだよ。ライブのオープニングからラストまで。自分の演奏を、パフォーマンスを、観客の盛り上がりを……。できるだけ細かく、できるだけ克明に……」
教えてもらってなお、理解が及ばなかった。
「やってみるか? 目を閉じてみろよ。ここは柚子崎ビーチの特設ステージだ。出番がきて、俺たちはセッティングの真っ最中。天気はどうだ、晴れてるか? 暑いだろ八月の太陽は。客席はどうだ、みんな期待に目を輝かせてるか? 水着の奴らが千か、二千か、どんどんステージに詰め寄ってくる。セッティングを終えて、いよいよ俺たちのステージが始まる。オマエは観客に何を言う。どうやって曲に入る。どんな風に歌う。どんな風にオーディエンスをあおる。客の反応はどうだ、盛り上がってるか? 今何ができる。何をするべきだ。……わかるか、ジュン。そういう細かいことを、全て頭の中でシミュレートするんだよ。本番でも、きっと同じことができる。いや、本番で同じことをするために、何度もシミュレートするんだよ」
なんだか、いつものヒデさんとは雰囲気が違っていた。
「ヒデさん。その……大丈夫です?」
ボクの言葉にハッとして目を見張る。
「すまん……。何でもないんだ」
目を伏せるヒデさんに、思わず強くしがみつく。
そうしなければならないような気がした。そうしなければ、ヒデさんが消えてしまうんじゃないか、そんな風に思った。
驚いたヒデさんは身を固くしたけど、すぐにボクが寄り沿うことを受け入れてくれた。
「ボクなんかじゃ役に立たないでしょうけど、聞くくらいならできますから」
長い間、沈黙が続いた。
窓の外から聞こえる波の音が、ことさら大きく聞こえた。沈黙の末にヒデさんは、大きく息を吸い込んで、そして長い時間をかけて細い息を吐いた。
「ジュンに心配されてるようじゃ、オレも駄目だな……」
そう言って、肩をすくめた。
「たまには、心配させてくださいよ。いつだって全部ひとりで片付けちゃうんだから」
「苦手なんだよ。気を使われるのは」
目を閉じて苦笑する。
「気なんか使ってませんし」
再び溜息を吐いて、ヒデさんはソファーに身を沈める。
やがて宙を見ながら、絞り出すようにつぶやいた。
「……怖いんだよ」
震える声でそう言うと、再びそっと目を閉じる。
「怖い?」
「あぁ。ステージに立つのは、いつだって怖い」
六月のライブだって、そんな雰囲気は微塵も感じなかった。
あんなに楽しそうにギターを弾いていたのに……。
「いつからだろうな。実力を認められるに従って、ステージに立つのが怖くなってきたよ。もちろんライブは好きだし、演りたいし、楽しいんだけどさ、ふとした瞬間に怖くなるんだ。眠れずに何度もイメージトレーニングして、少しでも安心して眠れるようにって」
そこまで言うと、口元を押さえて黙りこむ。
「……なに言ってんだ。かっこ悪いよな、オレ」
「そんなことないですよ! そういう話、もっと聞かせてくれればいいのに」
ヒデさんはゆっくりと、首を横にふった。
「言っただろ。気を使われるのは苦手なんだ」
そして再び、大きく溜息を吐いた。
「それじゃ、一緒に震えてあげますよ。気を使ってる訳じゃないですからね。ボクだってステージに立つの、怖いんですから。二人で震えれば、少しはマシじゃないですか」
ボクの言葉に、ヒデさんが失笑する。
「オマエ、たまに面白いこと言うのな」
少しだけ、空気が和らぐ。
意外だった、ヒデさんにこんな一面があるなんて。いつだって
遠い憧れだったヒデさんを、少しだけ身近に感じた。そして、身近に感じた瞬間、ボクの気持ちがあふれ出していた。
「好きです。ヒデさんのこと」
自分でも驚くほど、自然に口にしていた。
言ってしまってから慌てた。
思わず目を伏せてしまう。ヒデさんにしがみついた腕が、じっとりと汗ばんでいる。窓から吹き込む潮風が二人を撫でて、少しだけ熱を冷ましていった。
「……知ってるよ」
横顔を見上げると、ヒデさんは優しく微笑んでいた。
「いいもんだな、誰かが好きでいてくれるって。忘れてたよ」
「ボクなんかの好きでも、喜んでくれるんですか?」
「そりゃ嬉しいさ」
てっきり否定されるものだと思っていた。
「ヒデさんって、よく頭を撫でてくれるじゃないですか。あれ、たまらなく好きなんです」
「そうなのか?」
しがみついていた腕で肩を抱き、ヒデさんは頭を撫でてくれた。
「頭を撫でられるとね、すごく胸がドキドキして、すごく苦しくなるんです。そのたびに思うんですよ。やっぱりホク、ヒデさんのこと好きなんだなって」
「気持ちは嬉しいけど、ジュンの優しさはオレには眩し過ぎるよ。ジュンを汚してしまいそうで怖い……」
「そんなの構わないのに。もしかして、遠回しに拒否ってます?」
「ばっか、違げぇよ。オマエのことは大切に思ってて、でもそれだけに踏み切れないって言うか……って、言わせんじゃねぇよ」
ボクの気持ちなんて、迷惑なんじゃないかと思っていた。そんな風に思ってくれてたなんて、嬉しくて泣いてしまいそうだ。
「嬉しい……」
「でも少し、時間が欲しいかな」
ボクは意を決して訊くことにする。
ずっと気になっていたけど、ずっと訊けずにいたことを。
「シドさんのこと、引きずってます?」
「なんで知ってんだよ、シドさんのこと」
驚いたように、ボクを見遣る。
「ユキホから聞きましたし」
「あのオシャベリが……」
舌打ちをして苦笑する。
「あと、サアヤさんと付き合ってたりします?」
「いや、まて。何でサアヤさんが出てくるんだよ!?」
慌ててヒデさんが、ソファーに沈めていた身を起こす。
「だってデートしてるの見ちゃったし……」
「いや、シドさんとはとっくに終わってるし、えっと、サアヤさんだって飯食わしてもらっただけで、その……」
あせって弁解するヒデさんがなんだか可愛くて、思わず笑ってしまう。
「……モテますよね、ヒデさんって」
「そう、モテるんだよな。オレって」
ヒデさんがわざとらしく肩をすくめ、溜息を吐いてみせる。
「認めちゃうんだ……」
「苦労するぞ。モテる恋人を持つとさ」
「実感こもってますね。苦労したんです?」
「オマエ、たまに鋭いのな……」
そう言ってヒデさんが笑う。ボクもつられて笑う。
時間が欲しいとヒデさんは言った。
ボクの性格じゃ、待てと言われれば延々と待ってしまいそうで怖い。なにか切っ掛けが欲しい。そう考えて思いついたのがフェスだった。
「フェスで優勝したら、付き合ってくれませんか?」
「何だそりゃ」
「だめです?」
そう言って見上げるボクに、ヒデさんが呆れたように笑みを向ける。
「いいよ。フェス終わらないと、落ちつかないもんな」
「約束ですよ?」
「あぁ……」
二人でそっと、小指をつないだ。
そしてヒデさんがまた、頭を撫でてくれた。
そのままヒデさんとボクは、眠くなるまで話し込んでいた。朝まで語り明かすのかと思っていたけど、夜明けを待たずしてヒデさんが眠りに落ちた。月明かりに照らされる安らかな寝顔を見ていると、ボクもなんだか満ち足りた気分になって眠り込んでしまった。
ソファーで肩を寄せ合って眠る二人は、朝になりユキホの悲鳴で目を醒ますことになる。ボクたちを指さして「不純異性交遊だ!」と叫んだユキホは、少し考えて「違うわ。不順同性交遊だわ」と言い直しボクたちの失笑をかった。
夜中に話し込んでそのまま寝てしまったと弁明しても聞き入れてもらえず、そのうちノリさんまで起き出してきて騒ぎが大きくなった。ノリさんは、「二人を同じ部屋にしなくてよかった」と大げさに嘆いていた。
合宿中の風紀を乱した罰として、ボクたち二人には食事当番三日間の刑が課せられた。
ヒデさんと二人で三日間も食事の準備ができるのだ。
どう考えても罰じゃなくてご褒美だ。
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