第06話 人妻だって恋をする(後編)

 浴室から響くシャワーの音に心地良さを感じながら、ヒデはベッドに身を投げ目を閉じた。下着だけでシーツの上に寝転がると、ひんやりとした感触がシャワーの熱を冷まし、うっかり微睡みへと堕ちそうになる。ホテルに来るなんて久しぶりだ……そんなことを思いながら、眠い目を擦って体を起こした。

 浴室ではサアヤがシャワーを浴びている。

 一緒に浴びようと誘われたが断った。ふくれっ面で「それじゃ、先に浴びてきなさいよ」と、彼女はヒデを浴室へと押しこんだ。

 あっという間にシャワーを終えて出てきたヒデに「まるでカラスの行水ね」と呆れながら浴室に入ったのが、もう三十分も前のことになる。シャワー待ちのこの時間は、手持ち無沙汰で苦手だ。

 ようやくシャワーの音が止む。

 しばらくするとバスローブをまとったサアヤが、浴室から姿を現した。

「あら、ローブ使わないの?」

 下着姿でベッドに座るヒデを見て、不思議そうに訊いた。そしてバスタオルで髪を拭きながら、鏡の前へと進んむ。

「なんか恥ずかしくて。それ」

 旅館の浴衣には抵抗がないのに、ホテルのバスローブは気恥ずかしくて着る気がしない。なぜなのか解らないが、ヒデはバスローブが苦手だった。

「誘ってるの? パンツ一枚で」

「違いますよ」

「じゃ、腹筋自慢とか?」

 鏡台の脇にドライヤーを探りながら、ヒデの体を見詰める。

「見ないでくださいよ。恥ずかしい」

 バスタオルを肩にかけて体を隠す。視線を避けるように体をかわして、ベッドから立ち上がる。そして冷蔵庫から缶ビールを取りだして、サアヤに向かって掲げる。

「飲むんでしょ?」

「ありがと。気が利くね」

 プルトップを引くと、小気味のいい音が響いた。泡があふれそうな缶を手渡すと、サアヤは喉を鳴らしながらビールを流し込む。

「お風呂上がりのビール、最高だわ!」

 音を立てて鏡台に缶を置く。

「美味しいんです? それ」

「あら、ビール飲んだことないの!?」

 驚いたように、サアヤが声を上げる。

「俺、まだ高校生ですからね」

「あらあら。最近の学生は真面目なのね……」

「お酒は二十歳になってから、ですよ」

 わざとらしい言葉に、サアヤが苦笑する。

「おこちゃまヒデくんも、早くお酒が飲めるようになるといいでちゅね」

 決して法律で禁じられているから飲まない訳ではない。単に飲みたいと思わないだけだ。タバコだって同じだ。シドやサアヤが旨そうに煙を吐いているところを見ると、ヒデとて興味を惹かれない訳ではない。しかし吸ってみたいという気持ちは、まるで湧いてこないのだった。

 サアヤに言わせると、単なる習慣でありファッションなのだそうだ。シドは何と言っていただろうか。バンドマンの嗜みだとか何だとか。意味が解らないと、笑い飛ばしていたような気がする。

 サアヤがドライヤーの冷風に長い髪をさらす。合間にビールをあおる彼女の姿を、器用だと感心しながら鏡越しにながめる。長い時間をかけて、冷風で髪を乾かしていく。髪が長いと大変だ……そう思いながら、ヒデは自然に乾くに任せている自分の髪に手をやった。

「さぁ、少し早いけど寝るかね!」

 髪を乾かし終わったサアヤが、すっくと立ち上がる。

「なんで寝るのに、気合い入れてるんですか」

「初めての子とベッドに入るんだから、恥ずかしいじゃないの。気合が要るじゃないの」

「いい歳して、乙女っすか」

「女性はね、いくつになっても乙女なのよ」

 サアヤが隣に座り、ヒデの腰を抱く。

「それとヒデくん……」

「なんでしょ?」

 爪の先が食いこみ、ヒデは鋭い痛みを感じた。

「つぎ歳の話したら、ぶっ飛ばす!」

「あ、はい。サーセン……」

 二人して笑い転げながら、シーツの隙間にもぐりこむ。

 右腕で彼女の肩を抱き、そのまま腕枕をする。

「ねぇ、ヒデくん。チューして」

 サアヤが目を閉じて、アゴを突きだす。

 シーツの中で隠れるように、請われるままに唇を重ねた。

 唇が触れた瞬間、少しだけこわばる体。

 口づけの後、恥ずかしそうに伏せるまつ毛。

 そして頬を赤らめながら、指先をそっと唇に添える仕草。

 全てがあざとく思え、そしてそのあざとさを好ましいものとして感じた。

 ヒデは「歳上とは思えないほど可愛いですね」と軽口を叩こうと思って止めた。耳元で一言だけ「可愛い」と囁く。サアヤはさらに頬を染め、両手で顔をおおって恥じらった。

 やがて彼女の右手が、ヒデの体をなぞり始める。応えてサアヤの長い髪を撫でる。指の間をすり抜けていくシットリとした感触に、シャワーの痕跡を感じながら。

「ねぇ、本当にしないつもりなの?」

「そういう約束ですよ」

「普通は我慢しきれなくなって、襲ったりするもんでしょ?」

「俺の恋愛対象、男ですからね」

 話をしている間も彼女の指先が、腕を、胸を、背中を、上半身のいたる所を撫で回していく。そして背中から腰をなぞり、下半身へと到達する。

「でもこっちは、準備オッケーみたいよ?」

「にぎらないでくださいよ。物理的な刺激に、反応してるだけです」

「アタシ、後腐れないよ? 今日だけ……ダメ?」

「余計に無理ですね」

「うーん、意外と真面目だな」

 サアヤがシーツの中で頭をもたげ、ヒデの顔を覗き込む。

「じゃぁさ、エッチの代わりに恋話こいばなきかせてよ。恋話」

「なんですか、それ……」

「いいじゃない。好きなのよ、他人ひとの恋愛話」

「ろくな恋愛してませんけど……」

「なんでシドくんと別れちゃったの? あんなに仲よかったのに」

「あー。それ訊いちゃいますか」

「なによ。ダメ?」

「かまいませんけどね」

 煙草の煙でも吐き出すかのように、ゆっくりとヒデが息を吐く。

「シドさんモテるじゃないですか。来る者は拒まずの人ですし。男女かまわず……ね」

「それで、ヤキモチ焼いて別れちゃったの?」

「いや、言っときますけど、俺もモテますからね」

 言ってしまってから後悔した。モテたからなんだというのだ。そういう人間関係が嫌で、全て精算したというのに。

「知ってるよ。ヒデくんがモテることくらい」

 ヒデの腕の中、サアヤが優しく微笑みを向ける。

「シドさんに当てつけるように、いろんな人と付き合ったんですよ。でも、さすがに疲れました。嫉妬したり嫉妬されたり、裏切ったり裏切られたり。色んな人を傷つけて、色んな人から傷つけられて。何やってんだろうって自分に呆れて、自己嫌悪に陥って……」

 話し終わらないうちに、サアヤがヒデの頭を胸にだく。そして優しく髪を撫でる。

「ごめんね。辛いこと思い出させちゃったかな」

 踏み込んでこない気づかい、触れてほしくない所に触れない気づかい。ズケズケと踏み込んでくるように見えて、その実サアヤは適度な距離を保ってくれる。二人で居てもストレスを感じない距離感を、ヒデは好ましく思っていた。

「いいんですよ。もう終わったことですから……」

「今は? 気になる子はいないの?」

「アラサーを目前にして、あざとくて可愛いらしいサアヤさんが気になりますかね」

「そういうの要らないから。それに歳の話……」

 サアヤの両手が背中にまわり、爪が食い込む。

「次に歳の話したら、引っかくからね」

「背中の爪痕は、男の勲章ですよ」

「なにそれ、いやらしい……」

 眉間にシワを寄せ、呆れた表情で笑う。

「ねぇ、その頃だったらアタシを抱いてた?」

 問われて答えに困った。おそらく、迫られれていれば抱いていただろう。でも請われて事を成すだけであって、そこに相手を想う気持ちなんて存在しない。

「抱いてたでしょうけど、そうなってたら仲よくなってないと思いますよ」

「そんじゃあの頃、シドくんに遠慮してアプローチしなかったのは正解だったのかな」

「遠慮してたんですか?」

「そりゃまぁ、一応は……」

 確かに以前から、サアヤの好意は感じていた。でも今日のように強引にホテルに誘うようなことはなかった。そうか、遠慮していたのか。

「で、ジュンくんだっけ? ヴォーカルの子。あの子はどうなのよ」

「なんでジュンが出てくるんですか」

「気に入ってるみたいだし」

「面倒みてやりたいだけで、愛だの恋だのじゃないですから」

「そんな気持ちから始まるんじゃないの? 恋ってさ」

「そんなもんですかね……」

 過去を振り返ってみても、そんなに淡い始まりなんてなかった。いつだって愛欲にまみれたところから恋が始まる。

「でも相手はノンケだろうし、簡単じゃないよね……」

「俺なんかが汚していいヤツじゃないですよ。まぶしいくらいに真っ白で……」

 サアヤさんの両腕が俺の頭を抱え、自らの胸へと押し当てる。

「その子と仲良くなったらさ、連れておいで。一緒にご飯食べようよ」

 サアヤの右手が、優しく髪を撫でる。

「そうですね……。仲良くなったら……きっと……」

 思いの外心地が良く、思わず目を閉じる。

「今から楽しいこと、たくさんあるよ。だから君の恋の話をさ、つらい想い出で終わらせないでね……」

 サアヤとこうやって抱き合っていることも含めて、苦い思いを感じていたのだけど……でも、少しズレて一生懸命なところ、すごく可愛らしいと思ってしまう。

 柔らかな胸に身を委ねていると、彼女の匂いを感じる。女性の匂いと石鹸の残り香が混ざりあった匂い。高鳴った鼓動が伝わる。女性の腕の中だと言うのに、悪い気がしない。

「ところで青年よ。膝に硬いのが当たってるんだけど、本当にしなくていいの?」

「……」

「エッチが嫌ならさ、お口でしてあげるよ?」

「……要らないですって……そういうの」

「あら、起きてたのね」

「このまま眠っていいっすかね」

「女の胸で眠るとか、男前になったものだね」

「思った以上に……心地がいいもので……」

「それはよかった」

「……」

「ねぇ、ヒデくん」

「……」

「寝ちゃったかな?」

「……」

「あのさ、ますます好きになったよ。君のこと」

「……」

 微睡みの中で聞こえた言葉。

 サアヤさんの告白。

 聞こえなかったことにしよう。

 微睡みから醒めないでおこう。

 人妻とゲイの恋だなんて、どうしようもない結末しか見えないじゃないか。

 髪を撫でる優しさに誘われ、ヒデは深い眠りへと落ちていった。

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