第02話 壁ドンから始まる音楽生活(後編)
「……で、うちのバンドで歌ってくれない?」
突如として切り出される本題。
壁ドンで吹っ飛んでたけど、入部の件で呼び出されたのだろうとは思っていた。ボクの歌を認めてくれる、そのことは素直に嬉しい。でも沢山の人の前で歌うだなんて、ボクにはできそうもない。
「無理ですよ、ボクなんかじゃ……」
「そんなことないさ。才能があるよ、ジュンには」
ボクのどこを見て、才能だなんて言葉が出てきたんだろうか。そんな風に認められるのは初めてのことで、どう返していいの解らず困ってしまう。
真っ直ぐに投げかけられるヒデさんの視線。射すくめられてしまいそうになる。視線から逃げるようにして話題を変える。
「ヒデさん、ユキホにメッセの転送頼んだでしょ? 部室に来てくれって」
「頼んだねぇ。ジュンのアドレス知らないし」
「あれ、ユキホが教室まで伝えに来たんですよ」
「転送してくれりゃ良かったのに……」
朝イチの授業が始まる前、ユキホは教室の入り口に立ってボクを探していた。そしてボクの姿を見つけると大声で叫んだ。
「ヒデくんから伝言だよ! 放課後、部室に来て欲しいってさ!」
通りのよい声が、教室中に響き渡っていた。
これだけでも、ボクを噂話の主人公に押し上げるに充分なできごとだった。しかしユキホは、追い打ちをかけるように続けて叫んだ。
「ヒデくん、ジュンちゃんにコクるつもりかも!」
授業前の騒々しい教室が、突如として静まり返った。
そして、その場に居た全員の視線がボクに注がれた。
「相変わらず面白いな、ユキホは」
いきさつを聞いたヒデさんが、手を叩いて笑っている。
「教室中、大騒ぎですよ」
「だろうな。告白とはケッサクだったな」
笑い終わったかと思うと、また思い出し笑いをして吹き出している。
「笑いごとじゃないですって。今日一日、ボクがなんて呼ばれてたか知ってます?」
「さぁ? なんて?」
「……ヒデさんの彼女」
またもや吹きだす。
笑い事ではないのだ。そもそも彼女ってなんだよ、彼女って。せめて彼氏だろ。いや、彼氏ってのも、どうかとは思うのだけれど。
廊下ですれ違えば「ほら、あの人ヒデさんの……」などと声をひそめて噂され、友人からは根ほり葉ほり事情を訊かれ、一日中どこへ行っても、ヒデさん、ヒデさん、ヒデさん、ヒデさん……。気の休まる暇がない一日だった。
「そっかー。それは大変だったな」
「告白ってのは、ユキホの悪戯ですよね?」
「そうだね。俺が頼んだのは、部室への呼び出しだけだったしな」
「でも、部室に来たらいきなり壁ドンじゃないですか。だからボク、本当に告白されるのかと思って。っていうか告白せずに唇を奪おうとするなんて、順番が逆っていうか。いや、そうじゃなくて、その……」
ボクに好意を持ってくれたのかと思って嬉しかった。そう続けようと思ったのだけれど言えなかった。結局からかわれただけだし、自意識過剰の痛い子みたいで悲しくなる。
「べつに、そう取ってくれて構わないよ?」
「……え?」
もしかして、ボクの思考が読まれてる!?
「オレはジュンのこと、気に入ってるけど?」
驚いてヒデさんを見遣る。
「バンドのメンバーとして……ですよね?」
問われてヒデさんは、右手を口元に当てて考え込む。
難しい質問をしたつもりはないのだけれど。
「いや、正直に言えばさ、知り合いとジュンの話をしてたんだよ。バンド入ってほしいけど断られたし、どうすればウチで歌ってくれるんだろう……ってな」
「は、はぁ……」
「そしたらさ、恋人を口説くみたいに勧誘しろって言う訳よ。オレ的になんかこう、パーッとイメージが広がっちゃってさ。これはウケる! って思ったら居ても立っても居られなくなって、ジュンが部室に来たら速攻で壁ドンしてやろうって」
なにその駆け出しの若手芸人みたいな思考回路。っていうかヒデさん、恋人を口説くときは、いつも壁ドンとかしちゃうの!?
そうなのだ、こういう人なのだ。胸の高鳴りを感じて、真剣に胸を高鳴らせていた自分が馬鹿みたいだ。
「壁ドンはオフザケだけどさ、オレがジュンを気にいってるのは本当だから。なんだったら、告白してもいいくらいには気に入ってるよ。抱かれたくなったら、いつでもどうぞ。もちろん、今すぐにでも……」
言い終わる前に、本日二度目の壁ドン。またもや、壁際に追い詰められる。
「またそうやって……」
「なんだよ。ヒデくんの彼女なんだろ?」
そしてそのまま、壁ドンから顎クイへの連携。
きっとヒデさんはこうやって、ボクをからかって遊んででいるんだ。これがきっと、この人なりの距離の縮め方なのだろう。ボクが軽音に入ったら、こうやってヒデさんにもてあそばれながら日々が過ぎていくのだろうか。
意外と悪くないんじゃないか、そんな風に思ってしまった。ボクってこんなに、被虐的な性格だっただろうか。
「ヒデさんってやっぱり、その……男の人を好きになる感じなんですか?」
ずっと気になっていたことを、思い切って訊いてみる。今訊かなければ、この先こんなチャンスなんて訪れない気がした。
噂ではゲイってことになってるけど、真偽のほどをボクは知らない。
「ん? ゲイだけど。あ、バイって言った方が正しいかも」
触れられたくない部分なのかと気を使ったのだけれど……何とまぁ、こともなげに。
「女の人とも付き合ったことないし、ボク、男の人に壁ドンされてもどうすればいいか……」
恥ずかしながら、この歳になっても付き合った経験なんてない。
「無理しなくていいよ。ノンケなんだろ?」
「ノンケ?」
「恋愛対象がさ、男じゃないんだろ? 俺も別れたばっかで、恋愛って気分じゃないし。付き合ってくれとか言わないから安心して」
だったら壁ドンなんかしなきゃいいのに、そう思ったけど口には出さずにおいた。
「ところで、顔が近くてしゃべりにくいんですけど」
「ん? 気にしないで」
「そんなぁ。無理ですよ……」
ヒデさんの視線が、気になって仕方がない。遠慮のない視線で見詰められると、どうすればいいのか解らなくなってしまう。顔をそむけて視線から逃げようとしたけど、今度は横顔をマジマジと見詰められる始末だ。
「……オマエ、ほんと可愛い顔してるな」
「か、可愛くなんか……」
思わず声が裏がえってしまった。可愛くなんかない、言いかえそうと思ったのだけれど、言葉を継ぐことができなかった。
容姿のことを言われるのは苦手だ。とくに可愛いと言われるのは。
容姿のことを言われると、たとえ褒められているのだとしても、どうしても複雑な感情を抱いてしまう。
幼い頃から女の子みたいだと言われ、からかわれ続けてきた。男女だとか、オカマだとか、そんな風に言われるのが嫌で仕方なかった。
いつもユキホと一緒だったことも、からかいの種だった。女だから、いつも女子と一緒に遊んでるんだろうと言われてきた。
その頃に覚えた嫌悪感は、今でも消えていない。ずっと男らしく在りたいと思っている。けれども未だに、どうすれば男らしく振る舞えるのか解らないままだ。
「どうかした?」
「……いえ」
「気にさわったか?」
「……いいんです」
意図せず小さな溜息が漏れた。
変なことで気を使わせてしまった。申し訳ない気持ちで胸が一杯になってしまう。きっと今、ボクは情けない顔をしてる。今にも泣き出しそうな、情けない顔を。
「ごめんな……」
ヒデさんの左手が髪を掻き上げる。
優しい指づかい。
少しだけ気持ちが和らぐ。
不意に唇が触れる。
ヒデさんの唇が……。
ボクの唇に……。
抵抗もなく受け入れたのは、不意を突かれたからだろうか。それとも、こうなることを望んでいたからだろうか。
男の人の唇って意外と柔らかいんだな、そんなどうでもいいことを思いながら目を閉じた。なぜだか解らないけど、涙があふれてきたた。
唇を重ねていた時間なんて、ほんの僅かだったと思う。けれども永遠とも感じられる刹那の中で、ボクは理由も解らず涙を流し続けていた。
唇を離したヒデさんの左手が、クシャクシャと頭を撫でる。
「ごめんな……」
ボクに触れていた唇が、もう一度同じ言葉を囁く。
そしてヒデさんの指先が、そっと涙を拭う。
「泣くほど嫌だったか?」
「違うんです。そうじゃなくて……」
投げかけられる真っ直ぐな視線の奥に、悲しみの色が見える。
誤解を解きたかったけど、言い訳すらできないことがもどかしかった。自分でも、どうして泣いているのか解らないのだから。
キスが嫌で泣いている訳じゃない、それだけは確かだ。答えあぐねていると、ヒデさんがまた頭を撫でてくれた。
真っ白に焼き付いた頭では、もう何も考えられなかった。
「ボク、帰ります……」
呆然とした頭のままで立ち上がると、スタジオの扉に手をかけた。
「また来いよ」
別れ際にそう言って、ヒデさんは手を振ってくれた。
どう応えていいか解らず、小さく頷いた。
どうしてボクなんかを誘うのだろう。ヴォーカルなんて大役はボクには務まりそうもない。歌の巧い奴なんて他にいくらでも居るのだろうから、その人たちを誘えばいいのに。そんな風に考えながら、もう一度ヒデさんに会いたいと思った。
でも、どんな顔をしてヒデさんに会えというのだろうか。唇を重ねた相手と、次にどんな顔をして向き合えばいいのか解らない。
解らないことだらけだ……。
ヒデさんたちと一緒にステージに立つ姿を想像してみたのだけど、うまくイメージすることができなかった。
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