柚子崎ディストーション
からした火南/たかなん
第01話 壁ドンから始まる音楽生活(前編)
壁ドン!?
ちょっと待って!
なんでボク、壁ドンされてんの!?
軽音楽部の部室。ドラムとアンプに囲まれた密室で、なぜかボク壁ドンされてる。
壁ドンの説明は、もはや必要ないよね。壁際に相手を追いつめて、手を壁にドン! この場合、追いつめられてるのがボクで、追いつめているのがヒデさん……って、余裕かまして、説明してる場合じゃない! なんとか逃げ出したいのだけれど、気があせるばかりで頭がまわらない。
どうしてこんな状況になってるんだっけ……。こういうのって普通、女の子がされるものじゃないのかな……。どうでもいいことばかりが頭の中を駆けめぐる。抜けだす方法を考えるほどに、思考が
逃げ場所を求め当て所もなくさまよっていた視線を、ふと眼前のヒデさんへと戻す。やばい。めちゃ顔が近い。めっちゃ見つめられてる。間近で見ても、やっぱり綺麗な顔してるな……。しかもなんか、いい匂いするし……。
「え、ちょ、あの……ち、近くないですか?」
「このスタジオ、防音だから」
「ふぁ、ふぁい?」
思わず間抜けな声が出てしまう。
「叫んでも、外には聞こえないよ……って話」
そう言ってヒデさんは、口の
このままでは、唇をうばわれてしまうんじゃないだろうか。いや、うばわれるのが唇だけですめばいいのだけれど……って、余裕ぶちかましてる場合じゃないってば!
よし、逃げよう!
そう決めてもなお、ためらってしまう。逃げるにしても、ちゃんと逃げ切れるのだろうか……。入口の防音ドア重そうだし、開けるのに手間どって引きもどされてしまったらどうしよう……。などと考えている間に、ヒデさんの左手が頬にのびる。
後悔したときには、もう遅い。さらに逃げることが難しい状況になってしまった。
「名前なんだっけ?」
「じゅ、
「純哉か……。呼び方、ジュンでいいよな?」
ヒデさんの左手が頬に触れる。冷たい指先の感触が、火照った頬をわずかにさます。
「目とじろよ、ジュン」
「え、えっと……」
「見つめ合ったままの方がいい?」
「いや、それは、その……」
「オレは、どっちでもいいけど……」
ふたたびヒデさんが、口の端をゆがめる。
指先がゆっくりと頬をなでて顎まですべる。
壁ドンからの顎クイ。顎クイの説明は、もはや必要ないよね……って、だから余裕ぶちかましてる場合じゃないってば!
やばい! もうドキドキが止まらない!
心臓が飛び出してしまいそう。早鐘のように脈を打ち続けるボクの胸の音、ヒデさんに聞こえてしまわないだろうか。こんなにも緊張してることがバレたら、なんだか恥ずかしい……。
だめだ! 緊張しすぎて、思わず目を閉じてしまった。もうこれ、覚悟決めた方がいい流れ? 「優しくしてください」とでも言えばいいのだろうか。いや、タイミング的に遅い。息づかいが、もう間近まで迫っている……。
ファーストキスって、もっとロマンチックなものだと思ってた。いや、この状況だって考えようによっては、ロマンチックだと言えなくもない。訳がわからないままに奪われるのも、意外といいかもしれない……。
いやいや、まてまて、なに言ってんだ。錯乱してる場合じゃない! 冷静になるんだ! そもそも初めてのキスの相手が、男性でいいのかって話じゃないのか!?
どうしてこんな事になってしまったのだろう。ユキホのサークル見学に、着いてきただけだったのに……。
ヒデさんは一つ上の先輩で、うちの大学でその名を知らぬ人はいない有名人だ。金色に染めた髪や、パンキッシュなファッションはおおいに人目をひくのだけれど、そもそも顔立ちが整っているからファッションを抜きにしたって注目を集めてしまう。
ユキホによるとヒデさんの名が大学中に知れ渡ったのは、去年の学祭がキッカケだったそうだ。軽音楽部として、ヒデさんは二日間の学祭で六回のステージを踏んだ。そして六回すべてのライブに校外からオーディエンスが押し寄せ、会場を埋め尽くしたのだという。噂はキャンパスをを駆けめぐって動員数は増え続け、二日目は会場の体育館に入れない人の方が多かったらしい。
その頃のヒデさんたちのバンドは、毎週のようにライブハウスでライブをやっていたのだという。そして夏に行われたコンテストでは、初出場で準優勝をさらっていったのだとか……。バンド活動が活発で、石を投げればバンドマンに当たると言われるここ柚子崎では、バンドマンなんて珍しくはない。けれども、そんな柚子崎だからこそ、観客の耳が肥えている。つまり半端な実力では、観客を集めることが難しいのだ。ライブハウスのみならず、学園祭のステージでさえ満席にしてしまうヒデさんたちの存在感、そしてコンテストでの受賞もあいまって、すでに伝説級の存在なのだとか何だとか……これもユキホから聞いた話だ。
そんな伝説の軽音楽部の部室を、幼馴じみのユキホに引きずられるようにして訪れたのが昨日の話だ。吹奏楽部のサークル見学に行こうとしていたところを、なかば強引につきあわされた。いつもこうなのだ……ユキホはいつだって強引に事をはこびすぎる。
ドラマーが卒業してしまった軽音の部員は、ギター&ヴォーカルのヒデさんと、ベースのノリさんの二人だけだ。部室を訪れると、ヒデさんは「久しぶり」と言って親しげにユキホを迎えた。そう、元より二人は知り合いだ。
バンドをやってるお兄さんにあこがれて、ユキホは高校の頃からドラムを叩き続けている。待望のドラマーの入部希望に、ヒデさんのテンションも高かった……と言うか、もしかするとこの人、いつもハイテンションなのかもしれない。
せっかくだからセッションしようということになったのだけれど、ボクはギターもベースも弾くことができない。そのことを告げると歌ならいけるだろうと言われ、二曲を歌った。
カラオケ以外で歌うだなんて初めてのことで、うまく歌える気がしなかった。けれどもボクの歌は意外なことに好評で、ヒデさんから入部をすすめられた。しかもかなりの熱量で……。
だけど当然のことながらヒデさんが歌う方がさまになっていたし、吹奏楽部に入るつもりだったから、入部を断って部室をあとにした。学園の有名人との
それなのに、どうしてボクがいま軽音の部室に居るのかと言うと単純な話で、ヒデさんに呼び出されたからなのだ。断る
キャンパス内にいくつも防音スタジオがあるだなんて、柚子崎の学校ならではなのだろうか。それとも防音室の二つや三つくらい、どこの大学にでもあるものなのだろうか。この部屋は、完全に外界と遮断されている。内側の音が漏れないだけではなく、外の音だって一切伝わってこない。
静まり返ったスタジオの中、壁掛け時計の秒針の音がことさら大きく耳に届いた。そして秒針の音より速いボクの鼓動。「ヒデさんに聞こえてないだろうか」と気が気じゃない。こんなにも緊張していることがバレてしまったら、恥ずかしさに心臓が破裂してしまうんじゃないかと思う。
壁ドンされてから顎クイされ、そして目を閉じた……。
わずかな時間しか経っていないはずなのに、もうずっと長い間こうしているように感じる。のぼせ上がった頭は現実感を失い、顎にそえられた指先の冷たい感触だけが、ボクを現実につなぎ留めているように思えた。
間近にせまる、ヒデさんの息づかい……。
覚悟を決めよう……。
唇が触れる……そう思った瞬間、突如としてヒデさんが笑いだす。
こらえきれずに吹きだしたかと思うと、顔を伏せ口元を押さえてしゃがみこんでしまった。そして声を殺して笑い続けている。
「……」
なにが起きているのか理解できず、呆けた顔で立ちつくすことしかできなかった。しゃがみ込んだヒデさんが、時おりボクを見あげては笑い続けている。
「ごめん、ごめん。悪かったよ……」
そう言いながらも、まだ笑いがやむ気配はない。右の手のひらをボクに向け、ちょっと待てと身ぶりで言っている。
訳がわからず呆然とするしか術がないボクだったけど、ここまでくればさすがに状況を理解する。
「……か、からかったんですね」
発した声が怒気をはらんでいて、自分でも驚いてしまった。だけど、こんな風にからかわれて、怒らない奴なんて居るのだろうか。怒っていいところだよね。いや、ここは怒るところだ……自分にそう言い聞かせる。
「冗談のつもりだったけど……すまん、つい悪ノリを」
いい加減に、笑うのをやめてほしい。あり得ないくらい恥ずかしいのだけど……。怒りに自分を鼓舞しようとしたけど、恥ずかしさの方がはるかに上回っていた。
耳まで赤くなっているのがわかる。顔全体が熱い。顔から火が出るとは、このことだ……。
「真っ赤になって……ウブだな、オマエ」
「知りません!」
「そう怒んなって。ごめんな」
そう言ってヒデくん先輩の手が、クシャクシャとボクの頭をなでる。頭をなでられるなんて久しぶりのことで、思わず身を固くしてしまう。けれども意外と悪い気がしない。
しかし入学まもない後輩を部室に呼び出して、いきなり壁ドンしてキスを迫るだなんて、どうかしてると思う。でもヒデさんは、そういう人なのだ。予想の斜め上を行くからこそ、大学中の皆が注目するのだから……。
(つづく)
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