クリスマスお借りします

弥良ぱるぱ

とある夜のこと

 私は一人、帰宅の途に就いていた。


 空は既に漆を塗ったように暗く、月はおろか星すらも見えない。ただ雪がしんしんと街灯の明かりに照らされながら降っていた。


 街路沿いには私の背丈にまで堆積した雪山がいくつも連なっており、ここに住む人々の努力が多少なりとも窺えるが、依然止まぬ雪の脅威に、道は再びの白さを取り戻しつつあった。こんな光景はもはや日常の一部と化しており、また道すがら立ち寄ろうとする店もすっかり恒例となっていた。


 Barガンドゥン。そう書かれた看板を横目に、私は重々しい扉に手を掛ける。


「あぇ? い、いらっしゃい?」


 薄暗い店の奥から、いつもとは違う彼女の素っ頓狂な声が届く。


「? どうしたのよ礼子」


「いーや、なんでも。さ、入るなら早いとこ入って頂戴」


 頭に若干の疑問を浮かべつつ、足早に奥のカウンターへと向かった。


 右から数えて二番目にある、私のお気に入りの席へと座る。天井から垂れた電球の優しい光は、まるでスポットライトのように、目の前に立つ一人のバーテンダーを淡く照らしていた。


「で、なに飲むの?」


 後ろに束ねた黒髪が小首を傾げた拍子に揺れる。


「……あ、ああ。どうしよう、決めてないや」


 制服との相性が抜群に良く、黒と白とに大別したその姿はきっぱりと物を言う彼女の性格と素晴らしく合致していた。


 見惚れてた、なんて言えるはずが無かった。


 憎いが礼子は顏も良い。


 女子高の頃はその容姿でもって後輩を常に侍らしていたし、社会人になればなったで嫁ぎ先は引く手数多なのだそうだ。この間、偶然にもここで働いている礼子と再会し、そのような恋愛事情を聞かされた日にはヤケ酒でドライマティーニを十杯飲んで帰ってやった。


「んーじゃあ、これでも飲んでみる? 私の奢りでいいからさ」


 礼子はその場でしゃがみ込むと、カウンターの下から深緑色のボトル取り出す。


「へぇアンタが奢るだなんて珍しい」


「まぁね、実は前にいた客の飲み残しだったり……。あ、直には飲んではいないから安心して?」


 カラカラと笑う彼女とは対照的に、私の心境は複雑だった。けれどもタダ酒が飲める機会なんてそうそうないので、ここは渋々ながら彼女のご相伴にあずかることにした。


 了承を得た礼子はなんだか嬉しそうな表情を浮かべながら、細長い円筒形のワイングラスを二つ用意する。それからボトルの栓を慣れた手つきで引き抜くと、それぞれに薄黄色の液体を注いでいく。グラスの底から適度に湧き立つ細かい気泡の数々は、それだけで自らの価値を高めていた。


「もしかしてシャンパン?」


「おっ正解。ほら、巷じゃ今日がそういう日らしいし」


「あぁ、そっか……」


 気付けばそんなことさえ忘れていた。とはいえ今さら知ったところで私には飲みに誘う同僚もいなければ一緒に祝う彼氏もいない。思えば私はこんな荒んだ毎日を忘れたくて、毎夜お酒を求めていたに違いなかった。


「……本当は、このあと一人でちびちびと飲むはずだったのよね」


 まるで私の愚痴が礼子の口を伝って出てきたのかと思った。


 咄嗟に驚きの声を上げてしまうと、彼女も呆気に取られたのか目を丸くしている。


「さ、流石に一人は言い過ぎでしょ。私が来てるんだし」


「ふふっ、それもそうね。じゃあ、乾杯しよっか」


 少し湿った二人の空気に、乾いたグラスの音が鳴る。


 互いに笑顔が戻ったところで、お酒を一口飲んでみた。


「あれ? 美味しい」


 昔、会社の行事で出された時は、炭酸が強すぎてワイン本来の苦みも増してしまい、到底美味しいとは思えなかった。それに比べて手元にあるのは、程好く炭酸が抜けているのか、苦みが全く感じられず、却ってこの微弱な刺激が喉を過ぎる際の丁度良いアクセントとなっている。


「でしょ? 前々から味覚が合うなって思ってたのよ」


 相当の自信を持っていたのか、礼子は何度も頷きながら予想が的中した余韻に浸っている。私としてもあながち悪くは無かったのだが、いかんせん他人の飲み残しなのが玉にきずだった。


「じゃあ今度は是非とも新品で試したいわね」


「その際は是非ともお代を頂戴いたします」


 皮肉めいた会話を二、三度ほどした繰り返たところで、ボトルの中身はすっかり空になってしまった。飲み直そうとも考えたが、終電を逃すなんていう酔い覚ましは絶対に使いたくは無かったので、やむなく席を立つことにした。


「本当にお金は払わなくていいの?」


「いいの、いいの。じゃあ気を付けて帰ってね」


「あ、ありがとう。それじゃ御馳走様」


 簡易的な別れの挨拶を済ませながら出口へと向かう。普段ならば会計機のあるこの場所まで付いてきてくれるのだが、今日に限って礼子はカウンターの向こう側から出て来てはくれなかった。


 一段と重々しい扉を開く。


「今日は楽しかったわ。貴方が来てくれて」


 退店しようとした最中、ふと後ろから声がした。


 反射的に振り返ってみると、礼子はこちらに向かって恥ずかしそうに手を振っている。それが彼女なりの見送り方だったのだろうが、どうして顔を赤らめるのかが分からなかった。だから私は取敢えずといった具合で手を振り返し、彼女に悟られぬよう外に出た。


 ふと見上げた夜空からは相変わらず雪が降っている。真っ白な世界は室内との寒暖差が非常に激しく、一度呼吸をしただけで鼻筋がツンと痛くなった。


 バタン、と背後の扉が閉まる。


 それから追うようにして聞き慣れない小さな物音が幾度か聞こえた。気になって扉を見ると、何やら看板が掛けられている。


  本日貸切。


 行きには視界に入らなかったが、この小さな看板のお蔭で入店時に礼子が発したあの素っ頓狂な声にも納得がいった。


 つまるところ私は習慣的にこの店に入ってしまったらしい。けれども礼子はそんな私を突き返そうとはせずに、快く受け入れてくれたのだ。


 受け入れてくれて、酒まで出して。


 礼子のそういう優しさも、憎めなかった。


 あの付いて離れなかった後輩たちも、しつこく求婚する男たちも、決してみんな彼女の外面だけにやられた訳ではないのだろう。


 間違えて入店し、タダ酒まで飲んだ自分が少しずつ恥ずかしくなってきた。


 ただ、私が看板の存在に気付き、その場で引き返していたのなら、礼子は自身の言葉通り一人でこの夜を過ごしていたに違いない。だからこそ礼子は私にこう告げたのだ。


『今日は楽しかったわ。貴方が来てくれて』


 彼女が赤面しながら綴ったこの言葉の意味を、今更ながら噛み締めてみる。すると凍った鼻筋がたちまち溶けていくようなそんな気がした。

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