第81話 門弟高井鴻山―其ノ壱

 いまから七年前の天保十三年(一八四二)、北斎とお栄は亀沢町のはんノ木馬場の長屋で暮らしていた。

 そこにお栄を残して、北斎は一人、信州小布施おぶせへと旅立ったのである。八十三歳の老絵師が、遠い小布施へと足を向けるには、相応の理由というものがあった。

 当時、江戸では老中水野忠邦による世直しの嵐が吹き荒れていた。いわゆる「天保の改革」である。

 その世直しの一環として下されたのが、風儀粛清、奢侈しゃし禁止のれで、とくに町方まちかたの庶民は厳しい取り締まりの対象となった。

 歌舞伎芝居の小屋は浅草へ移転を命じられ、七代目市川團十郎は「日常不相応のおごりあり」というとがで江戸所払い(追放)となった。

 さらに陰間かげま茶屋の禁止、隠し売女の摘発はもとより、華美な祭礼、女髪結いの禁止など日常生活の隅々に事細かく目を光らせ、それは女の髪飾りから衣類、装身具、化粧の仕方、鰹などの初物買い、高直な料理や菓子ににまで及んだ。

 取り締まりの矛先は、読本や錦絵にも向けられた。

 役者や芸妓、遊女などの一枚摺り錦絵は発行・売買が禁止された。また、すべての人情本は、売買はもとより貸し借りすらも禁じられ、板元の在庫本や板木が没収されるに至った。

 当然、枕絵や春本も取り締まりの対象となった。

 英泉の『色自慢江戸紫いろじまんえどむらさき』『古能手佳史話このてかしわ』の二冊の艶本も摘発され、板木打ち壊し、製本焼き捨ての処分となり、人情本の為永春水ためながしゅんすいは手鎖五十日の咎を受けた。

 北斎にとって、もっとも衝撃的であったことは、読本『阿波之鳴門あわのなると』の挿絵を描いて以来、三十年余の親交があった偐紫楼げんしろう筆禍ひっかを受けたことであった。

 偐紫楼とは、戯作者柳亭種彦りゅうていたねひこの雅号である。

 この頃、種彦は草双紙の一種、合巻の流行作家であり、『偐紫田舎源氏にせむらさきいなかげんじ』が大当たりをとっていた。

 ところが、この田舎源氏が、大御所徳川家斉の乱脈な大奥を風刺ふうししたものとして、公儀の詮議を受け、板木没収の上、絶版を命じられたのだ。

 家斉は一説には四十人の側室を抱えていたといわれ、「オットセイ将軍」と揶揄やゆされるほどの女好きであった。

 田舎源氏が絶版処分となり、作者の種彦は肩をがくりと落とし、失意の底に沈んだ。というのも、田舎源氏は馬琴の八犬伝に並ぶ人気作品として、江戸市中で持てはやされていたのである。

 北斎は長年の盟友がこうむった難儀に居ても立ってもいられず、すぐさま浅草堀田原ほったわらやしきを構える種彦を見舞った。

 種彦は『冨嶽三十六景』や『富嶽百景』などに序文を寄せてくれたこともある。

北斎より二回りも年下であったが、互いの家を行き来するほど二人の仲は昵懇じっこんであった。 

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