068 蟷螂《かまきり》

 晩餐とは違い、玉座の間ダロワージには廷臣たちが既に整列して待っていた。

 朝議の広間は部族領の縮図だ。

 親しい者同士が集まって談笑するような席とは違い、皆が厳格な序列に従い、盤上の将棋の駒のように居並んでいる。魔法戦士に、地方候の代官、将軍たち、官僚たち、そして博士たち。

 その中で、英雄たちの席が王族の隣であることに変わりはないが、そこには寛いで座る英雄たちの姿はなく、代わりに各派閥の代表的な者と思われる英雄たちが少数、正装して座していた。

 長老会の者たちはいない。

 彼らが列席する場合、英雄の席ではなく、玉座の側の高段の上に侍るしきたりだ。

 エル・イェズラムも多くの場合はそこにいて、スィグルの父、族長リューズ・スィノニムを守っていた。

 だがこちらの射手ディノトリスはというと、もちろん高段に侍る訳はない。スィグルの席に一緒に座るのでもなかった。

 ギリスは英雄たちの席に行くのだ。

 髑髏馬ノルディラーンばつの末席にギリスが座るのを見て、スィグルは自分のための王族の席から、意外な気分になっていた。

 自分は一体、ギリスを何だと思っていたのか、派閥でも首座とは言わないまでも、そんな末席にいるとは思っていなかった。

 だが、実は当然のことだった。

 ギリスはまだ少年と言える年頃だったし、英雄たちの区画の筆頭の座を占める髑髏馬ノルディラーンばつには今も、ギリスよりずっと年上の魔法戦士たちがいた。

 英雄たちの序列は戦功で決まるはずだが、それは実質的に年齢順でもあった。長く生きて活躍できた者の方が、多くの戦績を残せるのは当然だった。

 エル・ギリスにはまだ、ヤンファールのいさおしがあるだけだ。

 大勝利の華々しいうただが、それもただ一作のうたでしかないとも言える。

 ヤンファールの故に、ギリスが髑髏馬ノルディラーン派閥長デンになれる訳はないし、もっと大きなきらめく石を頭部に生やした年嵩としかさの英雄たちがギリスより前にいた。

 だがそのデンたちは、ギリスを無視はしなかった。

 仲間内の席に戻ってきたギリスを、皆が振り向いて迎え、頷く者もいた。

 そこにもうエル・ジェレフの姿はなかったが、ギリスのデンである者たちは別にジェレフだけではないようだ。

 一体その誰が王宮を走ったせいでギリスを殴るのか、スィグルには不思議だった。

 彼らは特に怒るでもなく、戻ってきたギリスに席を与えて、いかにも自分たちのジョットであるというふうに、座る隊列の中央の列に座らせた。

 他の派閥にはギリスと同じぐらいの年齢の者はいない。

 おそらく英雄たちの中で、エル・ギリスは最年少なのではないかと思え、そう思ってからスィグルは縦に長い広間である玉座の間ダロワージの遠い向こうのほうにいる、銀狐エドロワばつの者たちに気づいた。

 その先頭の席に、目隠しをした少年が座っていた。

 アイアランだ。おそらく。

 何故いるのかと、スィグルは不思議に思った。

 昨日の朝には居なかったと思う。

 ギリスも居なかったが、アイアランもまだ、そこには居なかった。

 今朝はもう、何かが違うのだ。

 それがなぜかを長く考える余裕はない。次々に王族の兄たちが到着してきた。それを叩頭して出迎える必要があり、スィグルは末席で何度も平伏しなくてはならなかった。

 その誰もが、スィグルを無視し、あるいは答礼もせず酷く怒った目で睨んできた。

 どれもこれも高貴なる美貌であったが、旗印を掲げた侍従に先導され、スィグルを憎んでいるようだった。

 殴ってこそ来ないが、だからといってギリスの派閥のデンたちより気の良い兄たちとは言えない。

 これが廷臣の皆の見ている前でなければ、殴ってやるぞという目で見てくる兄もいた。

 それが流行病はやりやまいで美貌にきずがあるという、青ざめたただれのある顔の兄だったので、すごまれてスィグルは身が縮んだ。

 確かにもう美貌ではないが、元が美貌だっただけに、腫物はれものに崩れた顔になお一層の凄みがあり、むしろ玉座に向いているのではないかと思われるほどだった。

 父上は異民族からは砂漠の黒い悪魔と恐れられているが、実際の容貌は悪魔とは程遠い、凛々りりしい美貌で、微笑むとまるで華麗な花のようだ。

 さっきの兄の方が砂漠の黒い悪魔の名を継ぐのに相応ふさわしい威圧感がある。

 御面相ごめんそうがどうのこうのというのは、悪意の者が後宮や侍女に流した噂かもしれない。

 兄が即位を諦めていないのは目を見れば分かる。

 殺してやるという目だった。

 既にもう気迫で負けそうだ。

 そんな気まずい入場の合間を縫って、清楚に着飾った玉座の間ダロワージの侍女が、スィグルに冷たい銀杯を持ってきてくれた。

 喉が渇いておいでではと侍女は小声で言った。

 その顔が美しかったので、スィグルはしばし見つめた。

 西の渓谷オズトゥーシュ系統だ。

 祖父や母と同じ領地の出身の者なのかもしれなかった。

 あいにく王都タンジールは古く巨大な街で、顔立ちや体つきの系統だけで、出身を判断できるものではなかったが、それでも、かつて太祖に付き従ったという黎明の十二氏族の中で、元は同じ血筋の者かと思うと、他より親しみが持てた。

 向こうもそうなのか、玉座の間で兄に睨まれている末の王子を哀れんでか、冷たい水を恵んでくれた。

 走った後なので喉が乾いており、ありがたかった。

 もし自分が即位したら、その暁にはあの侍女に英雄譚ダージをやってもいい。

 スィグルは自分の心の中でだけ、その冗談を言った。

 誰も聞くものはいないのだから、何を考えようが自由なはずだった。

 しかし、そうしてひとりで微笑んでいると、自分の前に立ち止まる者がいた。

 それに気づいて、スィグルは慌てて飲み残しの銀杯を置き、平伏した。

 相手の顔は見なかったが、金色の蟷螂かまきりが描かれた旗印が見えた。

 第一王子だ。

 呑気に笑いながら水など飲んでいる場合ではなかった。

 玉座の間の時計は、あとわずかで族長リューズの来臨だと告げている。

 それでも兄はなぜか、スィグルの前で立ち止まっていた。

 叩頭からゆっくり顔をあげると、こちらを睥睨へいげいしていた兄と目が合った。

暗い紫の目だ。

王家の目と称えられる黄金の蛇眼じゃがんではないが、それでも十分に支配者の一族の者らしい、強い眼光だった。

 しかも怒っている。

 確実にそうだ。

 それを感じて、スィグルは真顔で兄を見つめた。

 怯えた風情の侍従が捧げ持っている兄の旗印の蟷螂かまきりが、黄金の鎌を振り上げて、こちらを威嚇いかくしていた。

「兄上……」

 挨拶すべきかと、スィグルは戸惑って声をかけた。

 思わず話しかけたが、そんなことをしていいのか分からなかった。

 我ながら、覇気のない小声だった。

 玉座の間ダロワージが見ている気がした。

 末弟と見つめ合う第一王子の行列を。

「今朝も息災か、スィグル・レイラス」

 兄の美声が穏やかにも思える言葉で語りかけてきた。

 しかし目はものすごく怒っている。

 声が父上に似ていた。そっくりと言ってもいい。兄は父の美声をいくらか受け継いだらしい。

 それとも似せているのかもしれなかった。全く同じというほどでもない。

「はい。幸い、天使のお恵みをもちまして」

 スィグルは慣用句で答えたつもりだったが、気まずい一言だった。

 猊下げいかを持ち出すべきではなかった。この際、聞き流してもらいたい。

 まるで自分は天使と格別の仲だぞと言っているみたいだ。

 実際そうなのだが、自慢してどうする。猊下げいかはここにいないのだし、別に味方はしてくれない。

 そう思ったが、まさに後悔は先に立たずだ。

 こちらを見ている兄の目が、馬鹿にするように、それでいて恐れるように、憎しみの色を増した気がした。

 やめて。兄上。遅刻しますよ。

 そう言いたい気持ちだったが、もちろん言うべきではない。

 時計の針に追われて、兄はさっさと自分の席に行くだろうと思えた。早く着席して待たないと、父上がお出ましになる。着席して居住まいを正し、叩頭して待つのだ。兄もよく知っているはずだった。

 しかし兄は目を細めて憎々しげにスィグルを見下ろして睨み、すぐそこにあった銀杯を蹴ってきた。

 素足で。

 その尊いおみ足が靴を履いていなかったのに、スィグルはぎょっとした。

 兄はこらえているが、息が切れていた。汗もかいている。

 走ったからだと思えた。

 そういえば十五人いる兄たちの到着には波があった。全員が次々とやって来たわけではないのだ。

 途中、わざとゆっくり来た者がいたらしい。

 そうすれば、スィグルに罪を押し付けて、第一王子を遅参させられるかもしれないからだ。

 良い機会だったのだろう。誰がどのぐらい遅れて来たか、スィグルには分からなかった。

 ボケっとしてたなと、スィグルは反省した。それぐらい見ておくべきだったか。

 でも我が血統の長兄が、スィグルを憎んだらしいのは明らかだった。

 もう堪えていられないのか、兄の息は荒かったし、額冠ティアラを被った額から明らかに汗が流れ落ちている。

 兄の隊列に靴を持っている者はいなかった。

 侍従しかいないのだから、当然か。

 気の毒にも兄は、自分で靴を脱いで、それを王宮のどこかに捨ててきたのだ。

「申し訳ありませんでした。お使いになりますか」

 居たたまれず、スィグルは自分がまだ懐に持っていたギリスの手布を、かなり気まずく兄に差し出した。

 もう汗をふいちゃったけど、他に持ってないんだから、しょうがない。

 それが兄にバレるはずがないのに、そこで第一王子の我慢の限界だったようだ。

 スィグルが手に持っていた亜麻布あまぬのが、ぼうっと炎を上げた。

 ぎょっとしてスィグルは自分が持っている燃える布を見つめた。

 火事だ。しかも火炎術だった。

 玉座の間ダロワージで火災はまずい。

 スィグルは考える間もなく、自分の席の絨毯に転がっていた空っぽの銀杯に燃える布を突っ込み、こぼれた水に濡れた絨毯の上に伏せた。

 濡れた絨毯は燃えないし、息ができない火は消えるはずだった。

 思ったとおり、火はすぐに消えた。

 それを見て、ほっとしたのか、悔しかったのか分からない表情で、兄は足速にスィグルの席の前から去り、自分の座がある場所へと向かっていった。

 玉座をすぐ間近に見上げることができる、王子たちの中で最も上座にあたる席だ。

 そこに兄が着くのと、玉座の間ダロワージの時計が時を打つのが、ほぼ同時だった。

 呼び出しの侍従が高らかに、族長リューズ・スィノニムの来臨を告げた。

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