058 花の寝床

 トードはギリスに話しかけられて、きょとんとして見えた。

 それから、少し黙りこみ、男はギリスに尋ねてきた。

いやしいこの身に直言をお許しくださいますか、エル・ギリス」

「もうとっくにしゃべってるだろ」

 ギリスは呆れて答えた。

 トードは嬉しげに笑って見えた。

「リューズ様とは弁当をけて勝負した仲で」

 にこやかに言うトードは、まことしやかだった。

 ギリスは内心、目を見張った。

 そんなことがある訳がないと思えたが、あり得ぬことが起こるのが当代の玉座だ。

「僕はトードはちょっと頭が変なんだと思っていたんだよ」

 主君のための円座でくつろいでいるスィグルが、しみじみとギリスに話しかけてきた。

「でもお前が言ってたじゃないか。ご即位前の父上には居室へやが無かったって」

「ございませんでした。兄上様がご幼少の頃に奪っておしまいに」

 トードはそれがありきたりのことのように、あっけなく言っている。

「そんなの想像もしなかったんだよ、僕は。父上がそんなご苦労をなさっていたなんて」

 スィグルはしゅんとして話していた。項垂うなだれる猫のように。

トードは父上と王宮の廊下で会ったと言うんだ。それで父上と将棋をして、負けたので弁当を取られたと」

トードめも腹が減りましたが、リューズ様はもっと飢えておいででした。それでも、いつも将棋にはお勝ちになるのはさすがです」

トードはとても将棋が強いんだよ」

 その強さを知っている様子で、スィグルは苦笑して言った。

「父上が工人と将棋をして弁当を奪った話は本当だと、お前の養父デンは言っていた。トルレッキオへの旅の途中で、エル・イェズラムが」

 スィグルはギリスを見つめて説明してきたが、それをどう受け止めたものか、ギリスには分からなかった。初めて聞く話だったからだ。しかも突飛とっぴな話だった。

 この新星がイェズラムと何を話していたのか、ギリスは全く知らなかった。

 自分の知らない養父デンの話を、スィグルが知っているのに違和感があった。

 ギリスは養父デンと旅などしたことがない。王宮での暮らししか知らないのだ。

 そのことに、えも言われぬ違和感があって、つい黙っていると、工人の男が新星の話を引き取って続きを喋った。

おそれ多いことでございましたが、殿下のお父上はトードに嘘をついておいででした。初めてお会いした頃には、玉座の間ダロワージで仮面劇を披露する一座の者だと名乗られたので、愚かな私めは信じたのです」

「あんなのが芸人や役者な訳がないだろう」

 ギリスはしみじみ呆れて言った。

 族長リューズは一目見たら忘れられないような美貌の男だ。子供の頃だってそうだっただろう。

「本当に役者の子かと思ったのです。お美しい殿下でしたし、歌もお上手でしたしね。それに宙返りや綱渡りもなさるのですよ。尊い王族の殿下がそんなことをなさるわけがないと、誰でも思います」

 しんみりと言って、床に座し身を小さくしている壮年の男は、歳は分からぬが族長より幾らかは年上なのだろう。

 王宮の廊下で出会った子供を、まさかアンフィバロウの血筋の者とは思わなかったのだ。

 あれが宙返りを?

 玉座の間ダロワージで見る優雅で威厳のある族長冠の男を思い返して、ギリスは空想に失敗した。

 そんなことするように見えない。

 するのか?

 養父デンはそんなことはギリスに教えていかなかった。

 聞いたこともない。

 もはや聞くこともできないのだった。

「僕は知らない事だらけだ。教えてくれ、ギリス。お前が知ってることを。トードリーズ、お前も頼むよ」

 新星が首座からそう頼んできた。ギリスは動揺してその目と向き合ったが、自分も知らぬことだらけだった。

 この工人の男にすら負けている。

 にこやかに座っている壮年の男の、細かい傷のある顔を見て、ギリスは戸惑った。

 その傷は何なんだ。誰なんだお前は。教えるどころか、新星に聞くより他にない。

 新星の求めに、答えようがなかった。

「教えは博士に乞うものですよ」

 諭す口調で工人が言っていた。もっともな話だったが、新星は取りすまして肩をすくめていた。

「あいにくその博士たちが僕には教えたくないと言ってる」

「おや。殿下にも意地悪なさる兄上様が?」

 首を傾げて、工人はやっと笑う以外の顔をした。困ったような、けしからんという顔だ。

「そうだね。そういう時、父上ならどうなさったのか」

 自分も困った顔で、スィグル・レイラスは悩んでいる様子だった。

 だがギリスはその問いの答えを知っていた。

 リューズ・スィノニムは博士に頭を下げた。

 そういえば、その事をまだスィグルに教えていなかった。

 そう思った矢先、工人の男がまた口を挟んできた。

「リューズ様はそういう時、意地悪なご兄弟を皆、絹布けんぷで絞め殺しておしまいになりました。博士たちも今はリューズ様の仰せになることを何でも聞くでしょう」

 にこやかに工人の男は言った。

 確かにその手もある。ギリスはびっくりして工人の男を見た。

 かすかに目を見開いて眺めるギリスに、工人の男はうふふという顔で一瞥いちべつを向けてきた。

「殿下はどうなさるのですか?」

 新星に向き直り、裁断を仰ぐ口調で工人の男が尋ねている。

 スィグルは首座でムッとして見えた。

「僕はそんなこと望んでいない。部族の伝統とはいえ、改めるべきこともあるはずだ」

 断言する口調で言うスィグルに、工人も何度も頷いていた。

「左様で。英雄エルたちは苦しまず旅立てる毒をお持ちとか」

 工人はギリスの帯にある小さな物入れを指さして、そこにあるはずの最後の小箱を示しているようだった。

「そういうことじゃないんだ。僕が言ってるのは」

 スィグルが心外そうに声を乱れさせている。それにも工人トードリーズは何度も頷いていた。

「はい……はい、左様で。お優しい殿下が、そんな事をお命じになるとは思えません」

 にこやかに言って同意し、工人はじっとギリスを見た。

 その目が、命じられるのを待っていても無駄だぞと言っている気がして、ギリスは男の目を見つめ返した。

 落ちた星々が始末されるのは、乱を起こさぬためだ。イェズラムはそう言っていた。

 部族が即座に新しい星を崇め、迷わぬように、他の星たちは消しておくのだ。

 それは速やかに行われねばならぬ。伝統だ。これだけは決して、変えることができない。

 当代の星はひとつだけ。並び立つものはいないのだと、養父デンは教えていった。

 それも廃止せよと、弱腰の新星レイラスが命じてきたら、自分はどうするのか。ギリスは考えたことがなかった。

 そんなことはありえぬ話だ。ありえない。

 工人の男もそう言っている。言ってはいないが。これもギリスの考えだと、この男は言うのだろうか。

「僕がスフィルのおもちゃを取るのは咎めるくせに、命は取れと言うのか」

 急にギリスを驚かすような厳しい声でスィグルが言った。

 びくりとしてギリスは我に返った。

 叱責するような声だったが、そう言われても工人の男は気にせずにこにこしていた。

「殿下の御為おんため

 微笑みながら、トードリーズはやんわりとした声で答えた。

 その返答に、スィグル・レイラスが首座で震えていた。

 黄金の目で工人をにらみ、かすかに震えているさまは、恐れているようではなかった。

 たぶん怒っているのだろう。ギリスはぼんやりと、その今にも怒鳴り出しそうな様子の新星を横で眺めた。

「帰れ、トードリーズ」

 抑えた怒声で、スィグルは静かに言った。我慢しているらしい。

 ギリスのことは殴ってくるくせに、工人は殴らないのだ。

 それを意外に思い、ギリスは首を傾げた。

 トードは何も言わず、深々と叩頭して、這うように部屋の戸口まで退出した。

 身分の低い者に独特の、極端にへりくだるような所作しょさだ。英雄とも、侍女とも違う。

 スィグルはその姿を見ないようにしているらしかった。

 ギリスが見守る中、トードリーズは戸口でも再び深く叩頭した。

「工房八二七です、殿下。お忘れなきよう」

 念を押すような声で、男は戸口から言ってきた。

 それにスィグルはカッとなったふうに怒鳴り返した。

「忘れるわけないだろ! さっさと帰れ!」

 まさに怒れる黒雷獣アンサスだ。

 その怒声にギリスはびくりとした。

 部屋の空気までしびれるような声だ。まさか雷撃でも使うのか。

 恐ろしいような覇気はきだ。

 それにビビらされる自分が可笑おかしく、ギリスは思わず小声を立てて笑った。

 こんなチビで女みたいな顔の奴の一声に、どんなデンに怒鳴られても平気でいた自分が驚かされるとは。

 同じ気持ちなのか、戸口にいたトードリーズも、這いつくばるように平伏したまま、壮年の身を震わせてひっひっひと引きつるように笑っていた。

「殿下はリューズ様のお子です。いずれはトードの首をお切りになるでしょう。でも今日はまだ。花の寝床でお休みなさいませ」

「なんだって?」

 去り際の工人の言葉に、スィグルは驚いたようないぶかる表情をした。

 それでもトードは何も言わず居室を出て行ってしまった。

 なんだったんだ、あいつ。最後のはどういう意味だ。

 ギリスも内心ぽかんとして、工人の出て行った戸口を見つめていたが、考えても分かる訳はない。

 ふと新星のほうに目をやると、スィグルも困った顔でこっちを見ていた。

「見たいか、その、花の寝床ってやつを」

「見ていいなら」

 ギリスは好奇心でそう言った。

 見るなと言われたら我慢する用意はあるが、ケチらないでもらいたい。見て減るものでもなし。

 もう子供部屋の寝床は見たのだし、こちらの居室のを拝見したところで、特に無礼でもないだろう。

 居間の首座がこんな感じなのだから、推して知るべしだが、ギリスの尽力によって獲得した居室なのだし、できればこの目に焼き付けておきたい。

「いいよ。ああ言われると僕も早く見たい」

 スィグルはまだ寝支度もしていない王族の衣装のまま、首座から立ち上がった。

 寝室がどこにあるのか、まだ知らないが、スィグルはさっさと奥の間があるほうへと歩いていった。

 もしや先導したほうが良かったかと、ギリスは悩みながら新星の後をついていった。

 初めて来る場所なのだし、もしや害意のあるものが潜んでいないとも限らないだろう。

 しかし新星の新しい住処は無事だった。

 今はまだ、そこまでの悲惨な境遇ではないらしい。

 派閥のジョットたちは、遠慮したのか付いてこなかった。

 王族の居室の、迎えの間に入るだけでも、元服したてのチビどもには驚きだったのだろう。ましてやその先の私室に踏み込むなど恐れ多い。不敬だというのが、常の魔法戦士たちの感覚だ。

 そこは寵臣ちょうしんの領域だ。ギリスも昨夜まではそう思っていた。そこから先へは行けないのだと。

 でももう踏み込んだからには、ただの豪華な部屋だった。廊下にも美しい絨毯が敷かれており、天井にはきらめく水晶をまとった夢か幻のような灯火が点々と吊るされていた。

 スィグルはギリスの先に立って、その通路にある扉のひとつひとつを道なりに開いて覗き、そこにあった書斎や、食事のなどの豪奢な部屋をギリスにも見せた。

 どれも美しい部屋だった。物語の絵巻物の中に出てくるような。

 ギリスがこの世に実在するとは思っていなかったような光景が、扉の向こうで新星レイラスを待っていた。

 居室の最奥には、広々とした立派な浴室もあった。

 華麗な陶板装飾が壁面を飾り、それが丸天井まで続いていた。

 あたかも本物の庭園に来たような、濃密な植物が繁茂する様が陶板に描かれている。

 まばゆいような風呂だ。少々なら泳げそうな浴槽もある。

 さすがは王族の部屋の風呂だと、ギリスは感心した。

 まだ軍功のない年頃の英雄たちが押し込まれている区画の、馬の水飲み場みたいな地味な浴室とは違う。

 身分差というものを意識せずにはいられない光景だ。

 スィグルはギリスの隣で呆気にとられたように喜んで部屋を見ていたが、真っ赤な王族の衣装を着ていたし、重たいような金銀のかんざしを結われた黒髪にしていた。

 それも王族にだけ許された髪型で、到底自分では結うことができず、もちろん解くこともできないだろう。

 衣服の着脱から身支度まで全てを女官たちがやる。

 こいつはそういう境遇に生まれてきたのだ。

 自分とは違う。

 そう思うと、すぐ横で扉の中を覗き込んでいるチビのスィグル・レイラスが、やけに遠く思えた。

「次が寝室だろうな」

 スィグルは確信めいてそう言い、来いというように楽しげに通路の奥に進んでいった。

 赤い長衣ジュラバすそを引いて。

 その白い手が自ら押し開いた扉の奥には、まだ灯火がなく、闇が待っていた。

 暗視に切り替わる視界の中で、亡霊のような薄絹が漂うのが見え、ギリスは闇に目をらした。

 ギリスにそれが何か分かる前に、スィグルが笑い出した。

 暗視への切り替えには人それぞれの時間を食う。新星は闇に目が効く方らしい。

 ギリスにも、だんだんと部屋の中が見えるようになった。

 薄絹で作られているらしい、巨大な花の装飾が、寝室の天井を埋めていた。

 壁面にも、まだよく見えないが大きな草花の立体的な装飾がある。

 まるで自分が小さくなって、草むらに潜んでいる虫にでもなったような気分がする部屋だ。

 その寝室の中央にある寝台は、金属で作られているようだったが、しなやかな丸みを帯び、柔らかな草を編んで作ったような意匠だった。

 人が何人も寝られるほどの大きさの、巨大な鳥の巣のようで、それでいて所々に花が咲き、美しいものだった。

 野趣と王宮の洗練が同時にそこにあるような。

 その寝床が意味するものを、ギリスも知っていた。

 草の寝床で幾千年。部族の黎明れいめい英雄譚ダージにはそうある。

 太祖アンフィバロウと、最初の英雄ディノトリスは、物語の始めに草を編んだ寝床で寝起きしている。森の奴隷であったせいだ。

 そこを出て、死の砂漠を乗り越え、タンジール遺跡に到達した太祖アンフィバロウは、そこでもまだ草の寝床で寝ていた。

 遺跡は廃墟であり、王宮はまだ存在していなかったせいだが、それについてアンフィバロウが残した言葉が英雄譚ダージうたわれている。

 この草の寝床を我が王宮のはじめとする。

 太祖が本当にそう言ったのか、確かめるすべは無いが、その言葉が本当だったのは事実だ。

 草の寝床で寝ていた星が、この部族の最初の玉座の君だったのだ。

 だったらスィグルのほうが、草に花が咲いているだけマシとも言えた。

「これがお前の王宮のはじめだな」

 ギリスは微笑んで、奇妙な寝台を唖然と見ている鈍いジョットに教えた。

 でも本当は分かっているのかもしれなかった。スィグル・レイラスは馬鹿ではない。

 ひどく聡明なジョットだ。

「それを言うのはまだ早いよ、ギリス。これは花の寝床だ、今はまだ」

 スィグルは淡い笑みのような声で、闇の中でそう答えた。

 ギリスは頷いて聞いた。

 まだ黎明前の闇の中、森の寝床で眠る時だ。

 これから決死の砂漠越えの旅を踏破して、麗しのフラタンジールへ。

 その日が来るのが楽しみだった。この新しい、まだ語られていない物語の続きへ。

「おやすみ、スィグル・レイラス」

 ギリスは新星に就寝の挨拶をした。長い王宮の一日が終わろうとしている。

「ありがとう。ギリス。お前が今日、僕のために何をしたか、結局何も聞けなかった。でも分かるよ。これも全部、お前のお陰だ」

 殊勝にそう言う新星レイラスのしたり顔が、闇の中でまだ仄暗い輪郭として見え、その小作りな顔の中でも、黄金のはずの目が、明るく燃えて見えた。

 ギリスはそれが不思議なように思え、首を傾げて眺めた。

 これが、新しい時代の顔なのだ。

 今はまだ、隣に立っているジョットだが、いずれ恐悦きょうえつして見上げる。あの玉座の間ダロワージで。

 でも今は間近に、したわしく眺めることにしよう。黎明すらまだ遠い。

「ではまた明日」

 軽く頭礼をして、ギリスは寝室にあるじを残して去った。

「お前に長命を。道はすごく遠いんだ。長生きしてくれギリス」

 追いすがるような声で、新星が命じていた。

 ギリスはそれを振り返ったが、なんと答えてよいやら、恐るべき難問だった。

 ゆるくはない男だなと、ギリスは新しい星を見て笑った。

 恐ろしく疲れたが、とても良い気分だった。

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