059 祈り
派閥の
新星の居室の場所は憶えたが、そこは前の子供部屋以上に、やけに遠く思えた。
ここを毎朝毎夕通るのかと思うと、ずいぶんな距離だった。
しかし文句を言ったところで、王宮の通路が急に縮むはずがない。
フューメの
歩くしかないのだろう。
ギリスはずっと氷結術しか使えないのだった。
他に並ぶ者もいないほどの大魔法で、長らくギリスの誇りだったが、それも今、こうして思うと、えらく不自由な魔法に思えた。
大魔法を振るい、戦場で敵の
発動までには少々の時間と、相当の集中力を要する。
そのためヤンファールでも、ギリスの魔法を発動させるまでの時間稼ぎとして、共に突撃した派閥の
その壁がなければ、実は撃つ間もなく
しかも一発しか撃てない。
総身の魔力を振り絞るほどの大魔法は、再装填にも時間がかかるせいだ。
出力を落として良ければ素早くも撃てるが、早く撃つなら、そこらの氷結術師と大差ない。
おそらく、
あの賢い
人ひとりを片付けるのであれば、あの程度でも十分で、下手をするとサリスファーのほうが早い。
うんざりとして、ギリスは王宮の暗い天井を仰ぎ、長い廊下を歩いた。
生まれてこの方、この十六年というもの、自分はずっと戦場で大魔法を振るう訓練をしてきたのだ。
見上げる高さの人を食う怪物を一撃で大量に倒せることが、自分の魔法の価値だと信じてきた。
戦場で襲いくる敵の軍団を、一撃でまとめて葬るのだ。
そればかりを願って、己の魔法を磨いてきたが、それにはもう意味がないのだ。
新星レイラスが求めている魔法は、そういうものではない。
あいつは
では何と戦うのか、ギリスには見当もつかず、自分が無能に思えた。
あいつはもう戦わないつもりか。
魔法戦士は要らないのではないか。
あの新星の
そう思うと、英雄たちの
まだ元服したての気楽な
玉座にまつわる、何かとてつもない物語に関わっている自分達を感じて、皆、気持ちが高揚したのだろう。
よくそんな元気が出るものだと、ギリスは呆れて、のんびりと一人で歩いて帰ることにした。
王族に直言した程度のことで浮かれる気分は、ギリスにはもはや分からない。
自分にも、スィグル・レイラスはそういうものだったはずだが、話した程度ではもう、何がどうとも思えなかった。
だが、ありがとうギリスと言って、素直に感謝する目でこちらを見る新星には参った。
あの頼るような目つき。
おそらく、あれが
先ほどの
なんで俺は、ただちょっと玉座に感謝されたという程度のことで、嬉しいのか。
その事実に、ギリスは情けなくなり、心持ちよろめきながら歩いた。
死ぬほど眠かった。もはや正常の思考が途切れそうだ。
おそらくはこれが、皆の言う忠誠心というものなのだろう。玉座のためなら死んでも良いという、熱い想いだ。
そんなものとは生涯無縁と思えた自分が、今はほっとしていた。
今日一日を務め終えて良かったと、心底から深く安堵していた。
今夜は新星も、あのご立派な草の寝床で眠ることだろう。
族長の
それでよかったと、ギリスは疲れ切るまで働いた今日の一日に、心から満足していた。
だが、明日から一体、自分はどうやって生きればいいのか。
あの、ヤンファールに出撃する朝の、不思議な安堵感をギリスは歩きながら思い出していた。
もう自分の一生が終わるのだという確信と、それがきっと美しい物語に変わるのだという熱い思いが、その日のギリスを満たし、自分にはついぞ恐ろしいという感情は襲ってこなかった。
ただただ敵を撃破することだけを考えていた。全て殺す。部族の敵を。皆を守って自分は死ぬのだ。
それが嬉しいとも、怖いとも、ギリスは何も感じていなかった。
ただただ敵を討つ。その一心だった。
きっと自分は馬鹿だったのだなとギリスは思った。
それが自分の本懐と、あの時は信じていた。
突撃する魔法戦士を歓呼で送る、熱狂した自軍の兵たちの熱い目と、生きて戻れと命じていた
そうであればもう、死んでも悔いはないと、自分に言い聞かせたのだったか。
そういうエル・ギリスを、王都で勝報を待つ
俺が死んでも、きっと気にしないだろう。
それでいい。
魔法戦士の
本当にそれが自分の本音だったのか、今はもう知らぬ。
ヤンファールで死にぞこなった自分の愚かさを呪いたい日もあった。
あの時さっさと死んでいれば、イェズラムの死も見ずに済んだ。
自分の残りの生涯が、美しい伝説の
しかし今、あの時ヤンファールでギリスのところに来るのを忘れたらしい死の天使を恨んでみても、昨日までのようにはもう、しっくりとは来なかった。
なぜそう思っていたのか?
何を理由に、自分はそこまで死に急いでいたのか。
それが分からないほどには、もう、あの新しい星が輝いて見え、その遠い光がいつか目を焼くほどの強い光輝となって天を覆うのを、この目で見たいと思った。
天使に長命を祈り、精々励むしかないだろう。
ギリスは自分の帯の物入れにある、ジェレフがくれた
貝殻を
これの味をギリスは知っていた。
恐ろしく苦く、そして不味い。
効いているのかも分からぬ薬で、それで長く生きたという者がいるのかも、全く分からぬ。
服用したお陰で長く生きたのか、飲まずともそのぐらいは生きたのか、誰にも分からないせいだ。
単に魔法が鈍る薬なのかもしれなかった。
ギリスがこれを飲まされていたのも、魔法が強すぎるせいだっただろう。
王宮の日々には必要ない大魔法を封じ、ほどほどの
もちろん嫌だったが、
ギリスはそう思って、しばらくは真面目に飲んだが、とにかくクソ
薬が減っていれば、施療院は飲んだと信じる。
だから適当に、そこらの
どんなに食い物が
空腹よりは、
皆がギリスを
バレない悪戯の
それに天使は気さくに
そういえば新星が放った鷹は、本当にトルレッキオに向かったのか。
あの鷹がもし、
それは困る。今更それは。
そうなると分かっていたら、新星を助けて
念のため、祈ってから行くかと、ギリスは途中で道を変え、聖堂に向かった。
最初に新星レイラスを見つけた場所だ。
そこは夜でも昼でも変わらぬ薄暗さでギリスを迎え、光の帯で照らし出された白亜の天使像が、胸を射られた姿で
その足元に叩頭し、ギリスは祈った。
どうか罪深き者にお
長く生きさせてください。
欲は言いません。せめてあの新星の即位式まで、生きていたいのです。
この手で戴冠させるその時まで。
できれば、そこから何日か。
何日かは分かりませんが少々おまけを付けてください。
もしよかったらその頃また改めて日数の交渉をさせてもらいたいのです。
図々しくてすみません。どうかお
この願いを聞き届けてくださるのなら、これからの一生を、
ブラン・アムリネス猊下。
この祈りは本当にトルレッキオにいる御身に届いているのですか?
ギリスはふと目を上げて、聖堂に
天使は微動だにしなかった。
石でできているのだから当然のことだった。
もしこれが動き出してギリスの前に舞い降り、新星を即位させよと燃える目で命じてくれたら、そんなに楽な事はない。
自分も心置き無く
だが現実は、そんなに甘くはない。
ギリスはまた仕舞い込んでいた薬入れを取り出して開き、丸薬を一個だけ手に取り出して、天使像に
長命を命じられている。スィグル・レイラスに。
まだたくさんの丸薬が入っている貝殻の薬入れを帯の物入れに仕舞い、ギリスは渋々その薬を口に入れた。
噛んで飲むようにと施療院に言われている。
くそ。皆、地獄に堕ちろと、ギリスは心の中でだけ悪態をついた。
さすがに天使像の前でそれは無いかと反省したが、罰はすぐに下された。
「おえ……」
こんなものをこの世に生み出した者をギリスは呪いたかった。
これを毎日食わされる自分の方が、石を持って生まれた自分の何倍も可哀想に思えた。
なんでこんな思いをしてまで新星に仕えるのか、もう全く分からぬ。
涙目で薬を噛み終え、水もない場所で飲んだ自分の馬鹿さに涙が出そうだった。
それでもギリスは泣いたことがなかった。泣き方が分からぬ。
小さな子供の頃からそうで、石のせいだと医師は言うが、情動が鈍いのだった。
空想するしかない。怒りも悲しみも痛みも。
そんなものとは無縁の一生を人は羨むようだが、ギリスには自分の鈍さがいつも辛かった。
悲しみとは
苦々しく、やり切れぬものだと。
それを思い出し、ギリスは悲しかった。おそらくこれが悲しいという感情かと思った。
ギリスにそれを教えてくれた
「ごめんよ……イェズラム。俺もたくさん
どこにともない空中に、ギリスは語りかけた。
天使の像に言ったのかもしれないし、別の何かにかもしれなかった。自分でも分からない。
こんなところで語りかけても、
それなのに、なぜここで言うのかと、ギリスは自分が不思議だった。
そう思うのも嘘で、本当はただ、
失望されそうで。たぶん。怖かったのだ。
天使ならまだ、分かってくれそうな気がした。
新星が描いて見せてくれた天使の顔は、この聖堂の天使像ほど優しげではなかったが、でも話せば聞いてくれそうな気がした。異民族とはいえ、同い年ぐらいの少年の顔だったからだ。
イェズラムも、もしかしたら聞いてくれたのかもしれない。
正直に言えば、いつもそうだったように、ギリスの話を辛抱強く聞いて、分かってくれたか。
そうだと信じる勇気が、自分にはなかっただけだ。
「楽園てどんなところ? すごく良いところか?」
ギリスは天使に尋ねたが、天使は何も答えなかった。
「俺が
天使に聞いても、知るわけがなかった。きっとそのような小さな事は、ブラン・アムリネスには関わりのない事なのだろう。
自分でなんとかするしかなかった。
もうギリスには、困ったら相談するような
一人で生きていかないと。
そう思うと呼吸すら重く、まだ舌に残る
生きるのがこんなに
それでも今はもう、死にたいとさえ思えない。
どうしたらいいのか、自分では分からないのだ。いくら考えても分からない。
ものの試しに、ギリスはあの工人の男がやっていたように、自分の頬を平手で叩いてみた。
すごい音がしたが、痛くはなかった。
でも少しは目が覚めたような気はした。
弱い自分を罰したまでだ。
天使も、もしかしたら楽園に
無様な姿を
万が一ということも、あるではないか。
よろめく足で、ギリスは聖堂を出た。
自分がどこに向かっているのか、もう疲れて、何も分からなかった。
それでも自分の足が、王宮を出ていこうとしているのを感じ、ギリスは不思議だった。
ここが自分の家で、守るべき仲間のいる場所で、そして墓だった。
そこを出ては生きていけない。
それなのにギリスの足は止まらず、王宮の門のあるほうへ、曲がりくねる長い通路を歩き続けた。
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