060 出陣の門

 何か尖ったもので肩を小突かれて、ギリスは目を覚ました。

 棒のようなもので、それは執拗にギリスを突っつき続け、眠くてあらがっても、目を開くまで許さなかった。

「ギリス。おい。ギリス」

 怒ったような呆れたような声が、目覚めてもまだ朦朧もうろうとするギリスを呼び、ぺしぺしと棒の先で肩を軽く叩いてくる。

 それを腕で払い除け、ギリスはまた眠ろうとした。

 ひどく眠くて、砂じみた硬い寝床でも、横になって目を閉じられれば楽園のように思われた。

 ごわごわする臭い毛布がかけられており、それは砂牛の臭いだった。

 いつぞやヤンファールで嗅いだ臭いだ。兵の寝床の臭いがする。

「おい! 起きろ。こんなところで寝てるんじゃない」

 棒では飽き足らなくなったのか、声の主は平手でギリスの頬を軽く叩いてきた。

 それにうめき、ギリスは起きるしかなかった。

 ぼんやりとしていた薄暗い視界の中に、見たことのある顔がギリスを見下ろし、かがみ込んでいた。

「ジェレフ……」

 ギリスは呟き、自分を覗き込んでいたデンの名を呼んだ。

 乗馬用の鞭を持っている。どうもジェレフはそれでこちらをっついていたらしい。

 朝には王都を発つと言っていたとおり、ジェレフは簡単に髪を束ねて結い上げただけの旅装だった。

 銀の縁取りのある灰色の外套がいとうをまとい、その中に無地の青い長衣ジュラバを着ている。

 ギリスが見慣れたデンの、華麗な宮廷衣装とも、出陣の時の軍装とも違う、ちょっと見る分には旅の学者か詩人のようだった。

 その簡素な髪型と、質素な長衣ジュラバは意外にもデンに似合った。

 額には側頭にかけて紫の石が隊列を組むように幾つも現れていたが、それだけがまるで華麗な髪飾りのようだ。

「ジェレフ。帰ってきたの?」

 ギリスはまだ夢を見ている気分だった。夢の中ではデンが王都を離れ、ギリスが知らないどこかを旅していた。

 その夢の中では、ジェレフは軍装していた。ヤンファールで見たような勇ましい鎧姿よろいすがただ。

 その姿と、今この目の前にいる旅姿のジェレフとが、あまりにも違う気がして、ギリスは長い時が流れたような錯覚を覚えていた。

「馬鹿。今から出発するんだよ。お前ここで何してるんだ。宿無しの餓鬼がきが死んでるのかと思ったぞ」

 デンは気まずげな顔でギリスの様子を見ていた。呆れたというような、心配するような顔だ。

 恐らくその両方なのだろう。お節介なジェレフは、いつもギリスのことを怒ったり心配したりしているからだ。

 座って身を起こし、ギリスが見回すとそこは王宮の出口の一つで、出陣の門と呼ばれる場所だった。

 王宮から都市を通らず直にタンジールの外へ出て、近隣の都市へと向かうための地下道への入り口で、しばらく地下の道を行った後に砂漠の只中ただなかへと出る道の始まる場所だ。

 ヤンファールに向けて王都を出撃する時も、この門を通った。

 歩哨ほしょうの兵士がたくさん立っていた。

 どれも緑色ヘス徽章きしょうをつけた番兵だ。

 王宮の護りの中では一番下っ端の兵だが、数は一番たくさんいる。

 タンジール王宮を外から見れば、このヘスの兵が歩哨ほしょうに立っている様子が、まず思い浮かぶ光景だろう。

 ギリスにはその有様を外から見る機会はほとんど無かった。

 出撃の日の光景だ。

 生きて再び見ることはないのだと、この出陣の門で見送る養父デンを振り返って眺めた。

「ジェレフ……行かないでよ」

 急に息が苦しいような気がして、ギリスは立って自分を見下ろしているエル・ジェレフの外套がいとうすそつかんだ。

 それは羊の毛を織って作ったものらしく、薄地だが滑らかで暖かそうだった。

 砂漠の夜は恐ろしく冷えるので、デンは暖かくして出発しなくてはならない。

 絹をまとって暮らす王宮の生活とは、外はまるで違った世界だ。

 デンは風邪ぐらいはひくかもしれない。流行病はやりやまいで死ぬ可能性もある。

 そんなものは英雄らしくない死に方だ。楽園にけるのか怪しい。

 ギリスは急にそれが案じられて、ジェレフは行かない方が良いのではないかと思った。

 出陣ならともかく、なぜ無意味に部族領をうろうろするのか。いくら族長の命令とはいえ、ひどい扱いと思えた。

「何言ってんだよ。たったの二月ふたつきだ。留守番してろ」

 呆れ顔で笑って、ジェレフは自分の右の頬を指差して見せた。

「それ。誰にやられた。あっちもこっちも傷だらけだな。まだ殴られてるのか、お前は。王宮にいるほうが怪我が多い」

 困ったように言うジェレフの話に、ギリスは首を傾げた。

 殴られた覚えはない。

 でも血の味がして、ギリスは自分の唇の端が少々切れているのに気づいた。

 血はもう固まっていたようで、傷のあるところがごわごわする。

 いつの間に殴られたんだと、ギリスは悩んだが、寝ている間に何かあったのか。

 そう考えてからやっと、ギリスは思い出した。

「あぁ……これは自分でやったんだよ」

 そういえば聖堂にいた時、自分で叩いたのだった。

 血が出るほど叩くつもりじゃなかったが、手加減が分からない。

「どういう事なんだ、お前……何をやったらそうなるんだ」

 不気味そうに言って、ジェレフは肩を落とし、残念そうにギリスの脇に片膝をついた。

 ギリスは何重いくえにも閉じられている出陣の門の、王宮側の最初の一枚があるところで、石畳の床に転がって寝ていた。

 寝ているつもりはなかったが、いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 実を言えば、この場所に来た記憶も、朦朧もうろうとしておりよく分からなかった。

 聖堂を出たところまでは憶えているが、半分眠り込むような意識のまま、何かに呼ばれるように歩いて、出陣の門に来た。

 そこにはもちろんヘスの衛兵たちがいただろうが、それとしゃべった記憶もない。

 持ってきたはずもない軍用の毛布を着ていた。砂牛の毛で出来ているやつだ。

 それにも門の守備隊の徽章きしょうが入っており、そこらの兵士が使うものを、誰かがギリスに着せたようだった。頼んで借りた記憶もなかったからだ。

「しょうがないな。治してやろう。まさか巡察の旅の最初の患者がお前とは、全く予想だにしなかったよ」

 ぶつぶつと文句を言う口調で、ジェレフは座るギリスの頬に触れようとした。

 それに何か抵抗があり、ギリスが身を引こうとすると、大門のほうにいた人馬の群れのほうから、誰かがジェレフを呼んだ。

「出発しますよ、エル・ジェレフ」

 琴を背負った外套がいとうの者が、馬上からジェレフを呼んでいる。

 それにデンは軽く手を上げて答えた。

「先に行け。後で追いつく」

「迷子にならないでくださいね」

 大声で、琴を背負った誰かが言った。おそらく詩人か何かだろう。

 それは面白い話だったのか、隊列を組んで群れていた一団の者たちが、笑いさざめいていた。

「一本道だ。必ず追いつくから、のんびり行け」

 ジェレフは困ったように苦笑して、出発し始める巡察の一団に手を振っていた。

 デンは居残ってでも、ギリスの怪我を治す気のようだった。

 再び頬に触れようとしてくるエル・ジェレフの手から、ギリスは身を引いて避けた。

 それに首を傾げて、ジェレフは不思議そうな顔をした。

「なんだよ。痛いわけじゃないんだろ。餓鬼みたいにビビるじゃないか?」

 ギリスが治療を怖がっているのだと思ったらしい。

 確かにそうかもしれない。

 眠気でまだ枯れている喉で、ギリスは渇いた声を出した。

「いいよ。治さなくても。生きてりゃそのうち治るって」

 治療を拒み、ギリスはそう教えたが、お節介なデンは、ギリスが腫れた顔で王宮をうろつくのが嫌いらしい。

 見つけるといつも、ギリスの目立つ怪我を、見苦しいと言って治してくれた。

 他人の小怪我こけがすら見過ごしにはできない性分のデンなのだ。

 誰かが怪我するのは日常茶飯事で、別にジェレフのせいではない。

 いちいち治していたら、治癒術を使いすぎるだろうと、ギリスは今やっと気づいた。

 前々から思ってはいたが、でも、治癒者とはそういうものかと考えていたのだ。治癒術で人を治すのが本懐だ。

 でも、ギリスはジェレフには死んでもらいたくなかった。

 たとえそれがデンの本懐でもだ。

「やめろよ、ジェレフ。意味なく魔法を使うのは。控えろ」

 命じる口調で頼むと、ジェレフはまた呆れた顔でこっちを見てきた。

「偉そうだぞ、お前。誰に向かって口をきいてる。お前の派閥のデンだぞ俺は。知ってるか?」

 もしや知らないのではという口調で、ジェレフは聞いてきた。たぶん冗談なのだろう。

 でもギリスは笑えなかった。

「これは自分でやったんだから、治さなくていいよ。これはね、自分への罰だから」

「どこかの壺を割ったか、つまみ食いでもしたのか」

 デンは絶対にそうだというさげすむ目でギリスを見下ろしていた。

 そんなことしないだろうと、ギリスは困ったが、確かに時々やっていたかもしれない。

「違うよ……。弱気になったから自分を罰したんだ」

 ギリスはそれを正直にデンに言った。

 するとジェレフはっ首を傾げ、最初はにやりとしたが、結局笑いをこらえなかった。

 あははと声を上げて、エル・ジェレフが笑っていた。相当に気味が良さそうに、デン身悶みもだえてひいひい笑っていた。

 そこまで可笑おかしいことがギリスにはないので、笑うデンうらやましかった。

 それをしょんぼりとギリスは見上げた。

「本当か、ギリス。そりゃすごい。そういう怪我は治りにくいぞ。人が自ら自分に与える傷は、ただの怪我じゃないからな。烙印らくいんだ。そういうのを治すのは、治癒術では難しい。ふさいでも傷跡が残るんだ」

 派閥のチビに怖い話をするときの口調で言って、ジェレフはギリスをさっと捕まえた。

 大部屋のチビが検診に連れ去られる時みたいだった。

 逃げられずギリスはデンに首を掴まれ、顔に冷たい手を押し当てられた。

 外気に冷えたジェレフの手はひやりとしていたが、すぐに熱いような感触がした。

 治癒術だ。おそらく。

 なんでだよとギリスは腹立たしく、こちらの頭を捕まえてくるデンの腕をじたばたして振り払った。

 その荒っぽい態度にジェレフが笑っていた。

 デンは優しげだが、体術の師匠のところでは免許皆伝で、ギリスも勝てない。

「見ろ、綺麗さっぱり治ったぞ、ギリス。大した罰じゃなかったようだ」

「くそ」

 ギリスは情けなくて悪態をついた。治癒者に敗北するとは。

デンに悪態をつくんじゃない。また殴られるぞ」

「ジェレフが殴ってきたことないだろ」

「そりゃそうだ。自分で殴って自分で治療してたら変だろ。そういうのは治癒者以外がやるものだ」

 快活に言って、ジェレフは旅装の外套がいとうすそを敷いて、ギリスと向き合って胡坐こざした。

 「それで? 何の用なんだ。まさか見送りじゃないよな?」

 腕組みして、ジェレフは面白そうに聞いてきた。

 旅の隊列はもう門を出て行ってしまい、ジェレフの馬だけが残されて待っていた。

 門を閉めてよいか、ヘスの衛兵たちが気まずそうにジェレフの背を見ている。

 それでもデンは気にせず、ギリスと話していくようだった。

「なんの用で来たか分からない」

 石畳に座り、ギリスも胡坐こざして、自分の足を掴んでいた。

 晩餐の礼服のままで、地に横たわっていたらしい。

 養父デンが仕立てた薄灰色の絹地が、もう砂まみれだった。

 大事に着ろと侍女のキーラに言われたばかりだったのに、礼服のまま地面に寝るとは、言い訳ができない。

「思い出せ、ギリス。まあ少々の時間はある。馬で飛ばせば、巡察には追いつく。お前と話してから行くよ」

 焦る様子もなく、デンはのんびりと言っていた。

 ジェレフは気の長いほうだ。すぐ怒鳴ったり殴ったりしてくるデンたちとは違う。

「アイアランに会った。晩餐に来たんだ。あいつ、本物の未来視か?」

 ギリスはデンが会うなと言っていた者に会った話を、一応は遠慮して言った。

 それでもジェレフは不機嫌になった。

 呆れたというか、言うことを聞かないジョットに失望したデンの顔だ。

「ギリス……あれは、やめとけ。あいつは本物だ」

 ここだけの話という小声で、ジェレフは教えてきた。

 派閥の部屋サロンで飲んでた時には、未来視なんか嘘だと言っていたくせに、話が真逆だ。

「本物ってなんだよ」

 ギリスは驚いて聞いた。デンはため息をついていた。

「未来視には偽物が多いんだよ。魔力を証明できないだろう。嘘で適当なことを言ってても、バレないんだよ」

「そんなことある?」

 ギリスがびっくりしているのを、デンは呆れて見ていた。

「あるだろ。予言なんか俺だってできる。ギリス、お前はあと三時間で朝飯だ。今朝は鶏のかゆだぞ……」

「えっそうなの? 腹減った」

 よく煮た柔らかい鶏肉がかゆの中でほろほろになっているのを想像して、ギリスの腹が鳴った。

 それをジェレフは笑って見ていた。

「俺も食ってから出発がよかった。これが巡察任務のつらさだ」

 大して困ってもいないふうに、デンは自分の目を覆い、芝居がかった嘆き方をした。

 でもジェレフの好物だし、本当につらいのかもしれなかった。

 すらりと細身なのに、このデンはめちゃくちゃ食う。治癒術は腹が減るのだという説が、派閥では囁かれている。

「というわけだ。俺も未来視で三時間後の世界を幻視した」

「嘘だろ。ジェレフは治癒術だ」

「そうだ。未来はえない。でも、もっともらしい、ずっと先の話をすれば、バレないこともあるんだ。未来視は未来の何もかもを視ているわけじゃない。十年後や百年後の予言をひとつだけして死ぬ者もいる」

「そんなの嫌だな……」

 それが自分の一生だったらと思うと、ギリスは嫌だった。

 それにジェレフは苦笑していた。

「英雄にも、それぞれの役目があるさ、ギリス。お前は氷結術、俺は治癒術だ」

 そう言ってから、ジェレフは少し考え、ギリスに話すことにしたらしい。

 さとす目をして、ジェレフはギリスの目を見下ろしてきた。

銀狐エドロワのアイアランにはそれが未来視だった。子供部屋の頃から予言をいくつも的中させている。魔法としての精度は高い。ただあいつは、誰がいつ死ぬか、そういうのが得意なんだ。人の死を予言してる」

「自分で殺してんじゃないの?」

 ギリスはふとそう思って言ったが、デンは苦笑していた。

「お前は馬鹿のくせに時々鋭いよな。それだ。疑う必要がある」

 魔法戦士は子供でも、殺傷力がある魔法を持っている。

 もちろん、人を傷つけるなと厳しくしつけられるが、それを聞いているかは個人差だ。

 だから魔法戦士は子供部屋で育てられる。子供だけで。

 それなら死ぬのは子供だけで済むからだ。

「アイアランは本物だ。会ったこともない者の死も予言できる。病死でもだ」

「死ぬのが分かっても、あんまり役に立たないね」

「そうでもない。魔法は使い様だろう。でもまあ、気味のいい魔法じゃない。俺や、お前のに比べたら」

 そうだろうと言うように、ジェレフはギリスの顔を見てきた。

 確かに、ジェレフの魔法はとびきり景気の良いもので、誰からも愛される術だろう。

「俺のも人殺しの技だよ」

「そんなことない。お前の氷結術で、ヤンファールでは大勢が死なずに済んだ。二人の殿下もお救いできたんだ。魔法に誇りを持て」

 頼りがいのある声で、ジェレフが励ましてきた。

 そう言われて、ギリスは胸が熱くなった。

 外気に触れる居眠りで冷えた体が、ちょっと温まるような心地だ。

「魔法は使い方しだいだ。ギリス。かつてはこの王宮でも、治癒者がのさばってた。自分に都合のいい者だけを癒し、邪魔な者は放置したり、酷い時は毒殺してた。本当だよ」

「ジェレフはそんな奴らの仲間じゃないよ。お前は英雄だ」

 ギリスはデンが心配になって、慌てて褒めた。よもやジェレフも弱気になっているのかと。

 しかしジェレフは面白そうに、ふふふと含み笑いしてギリスを眺めてきた。

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