052 もう一人の英雄
「え?」
またヤンファールの
そんな終わった
しかしフューメ達が真剣に聞いているようだったので、やむをえず答えることになった。
「知らないけど、馬で引きずって戻ったんじゃなければ、そうなんじゃない?」
「引きずって戻るわけないじゃない。あんな優しい方が、そんなことするわけない」
くよくよと言って、フューメはがくりと
「いいなあ。私もヤンファールで戦って、エル・ジェレフに命を救われたかったわ」
「なんで?」
お前の足も
言わないほうがよい気がしたのだ。おそらく言わないで正解だった。
「あなたが
フューメはがっくりしたまま、やけにはっきりとそう言った。
「
ずっと黙っていた新星レイラスが耐えかねたのか、急に本気で言っているとしか思えない口調で言ってきた。
フューメはそれにも驚いたようだった。
「失礼しました、殿下。つい夢中になって……」
真っ赤になって、フューメはエル・ジェレフの悪の幻視術に囚われていた自分に気づいたらしかった。
なにしろ王族の殿下の前だ。
「いいよ。ジェレフは格好いいよね。僕もそう思うよ」
気さくににこにこして、新星はエル・ジェレフがお気に入りだった。
「でも……エル・フューメンティーナ。僕はあなたが戦場で死ぬことがないといいと思うよ。いつもここで、今みたいに、にこにこしていて欲しい」
新星は済まなそうに言って、なぜかフューメの膝にある彼女の手を見ていた。
ほっそりした指の白い手で、磨いた爪には染料で花の紋様が描いてあった。
女たちがしている手の化粧だ。
居並ぶフューメの小さい
女派閥はよっぽど暇なのだろう。ギリスはそう思ったが、新星レイラスはそれを惜しむようにじっと見ていた。
「皆にはここで、いつも幸せでいて欲しいんだ。戦場は嫌なところだよ。僕はもう誰にも行ってほしくない」
「それでは私たちの英雄としての身が立ちません」
フューメは言いにくそうに、でもきっぱりと答えていた。
それに新星は逆らわず頷いた。
「そうだね。何か考えないといけない。あなたのための新しい
「私にですか?」
フューメはびっくりしたようだった。
花の絵のある指先を口元にやり、深刻に眉を寄せて、フューメは悲壮な顔をして見えた。
どうもこの悲しそうな顔が、フューメンティーナの感激した時の顔なのだ。
ややこしい女だなと、ギリスは困惑してフューメの
怒ってるのか泣いているように見えるが、どうもこれは、フューメは喜んでいるのだ。
女の顔ほど意味のわからないものはない。ギリスには極めて難解だった。
「ごめんね。今すぐじゃない。でも、必ずきっと考えるから、足が千切れた奴のことを
新星の頼みを、フューメンティーナは動揺した目で聞いていた。
その目がすぐには納得しないことに、ギリスは共感した。
この新星の指し示す方向は、英雄たちにはひどく難解だろう。ギリスにも正直よく分からなかった。
でもそれが、この
そのために、何もない砂漠を横断する決死の旅に出ろと命じている。
それが正しい道であったか、最初のディノトリスが予言し、最初のアンフィバロウが旅立つのに付き従った者たちも、実は知らなかったのではないか。
訳もわからず、でも星を信じてついていった者たちの子孫が、今この
どの星を追うべきか。
ギリスは広間を見渡し、そこで輝いているはずの別の星々を見た。
どれも
その差はまだ誤差にも思えた。
スィグル・レイラスと何が違うのか。ギリスにもよく分からなかった。
だが隣に座す、真剣な王族の殿下の横顔を見ると、その目は今も輝いて見えた。
フューメもその黄金の目に射られ、身動きもせず聞いている。
「変な話をして済まない。忘れてくれてもいい」
スィグルは詫びる声で言い、フューメに話すのを思いとどまったようだった。
でもフューメはまだ悲しい顔をしていた。まだ幼い新星を
「お母上はご回復なされましたか」
急にフューメがそう聞いた。なぜスィグルの母親の話が出てくるのか、ギリスには全く分からなかった。
スィグルの母エゼキエラは地方侯の姫で、族長が十二人まとめて
一人だった、と言うべきか。
二人の殿下とともに族長妃エゼキエラも敵に囚われたが、虜囚としての用途は別だった。
森の者どもは王子は地下に閉じ込めたが、エゼキエラは拷問した。
愛する妃が上げる悲鳴に族長リューズが耐えかねると思ったのか。甘いことを思う敵どもだった。
敵は切り落とした
その鳥は、美しい紋様を描いた爪をした指を一本ずつ
飛来すること、十度。
族長は十度は耐えたが、そこが限度だったと、イェズラムは語っていた。
なぜか分かるかとギリスは
ギリスにもそれは分かった。
人の手には指が十本しかない。誰でも知っていることだ。
その次に届く指が足の指ならよいが、子供の指かもしれない。
族長はそう思い、気が狂ったのだ。
それがよいとイェズラムは賛同したらしい。
今夜にも攻め落とすと、族長は
そんなことは夢物語だが、でも、何百年も落ちなかったヤンファール平原をわずかの日数で攻略した族長リューズの
もしも子供が囚われていなければ、さすがのリューズも手を出しかねただろう。
だが、王子たちはアンフィバロウの血を引いていた。
それを救い出すのには、また別の大義名分があったのだ。
アンフィバロウの子たちは、もう二度と再び森の虜囚とはならぬという怨念が、この部族には根深い。
生きて奪回し、必ず王都に帰還させなくてはならぬ。
それゆえ
当の族長にはどうだったか、ギリスは知らないが。
難しい戦を仕掛けるには、理由がいるのだ。
「母はもう回復はしない。残念だけど。エル・フューメンティーナ。僕はもう、そういう目にあう者をこの広間から一人も出したくはない。分かって欲しいんだ」
新星は頼む口調だったが、命じてはいなかった。
それではフューメも頷けないのだろう。女英雄は困った表情で新星の目を見返していた。
「そうですね。そのような時、私たちは自決せよと教えられています。殿下には申し訳ないですが、私たちの
「そうだよね……」
新星は疲れた様子で女英雄の話に頷いていた。
確かに、王族の作法に
それはこの新星も同じだっただろう。
王子はもう生きてはいないと皆は信じていたらしい。双子なのだから、差し違えて死んだだろうと。
だがなぜ新星は生きていたのか?
おそらく、人を食ってでも生きていた理由が、何か必要だろう。
生きて戻れば負け犬だ。
スィグルもそれを知らないはずはなかったが、なぜそうなったのか。
臆病だったからか?
本人はそう思っているらしい。
「済まない、フューメンティーナ。あなたの名誉を
新星は本当に謝っているようだった。
新星と膳を挟み向き合って座るフューメは、黙ってその謝罪を受けていたが、でも怒っているようには見えなかった。
「殿下は
フューメは少し気まずそうに聞いた。
それにスィグルは驚いたような、悲しげな顔をしていた。
「エル・フューメンティーナ、あなたの言いたいことはわかる。でも、幼い頃から苦楽を共にした弟に、早く死んでほしいと思う者がいるだろうか。そういう者があの席に座るべきなのか?」
スィグルはまだ遠くに見える玉座の方を視線で示して、フューメに答えた。
「僕はそういうふうにはなれない。スフィルに元気になってほしい。昔のようにじゃなくても。弟にも生きる権利があるはずだ。天使に許されて、この世界に生まれてきたんだから。あなたもそうだろう、その
フューメンティーナは深刻な顔で新星の話を聞いている自分の
ギリスはフューメがなんと答えるか、興味があった。
それ次第では、新星はこの女英雄を帰還式の行列から失うことになるだろう。
それでも、文句は言えまい。
嘘で騙してこの女どもを参加させるというのでは、新星の
ギリスにはそう思えた。
深いため息をついて、エル・フューメンティーナは答えた。
「そうですね、殿下。私もこの
フューメは真顔でそう答えた。にこりともしない、少し悲しげな暗い顔だった。
その
ギリスはその表情の意味を読めなかった。
だが、もうお前など知るか、死んでしまえとは、フューメは言わなかった。今はそれで十分だ。
「皆に長命を」
スィグルはフューメに頷き、疲れたように言葉短く答えていた。フューメもそれに頷いていた。
「殿下に忠誠を。明日またお目にかかります。念動術のご指南を。お休みなさいませ」
フューメはそう約束して、ギリスのほうを見た。
「行列に百人集めるのは大変そう。私たち、忙しくなりそうね、エル・ギリス」
フューメは真面目にそう言った。
その言葉を聞いて、ギリスはどう感じてよいか自分でもわからなかったが、もしも法によって婚姻を禁じられている
そうでなければ叩頭してもよい。
だが結局、ギリスは無言で頷いただけだった。フューメもそれで文句は言わなかった。
女英雄たちは別れの挨拶をし、ぞろぞろと広間の自分たちの派閥の席に引き上げていった。
そこで待っていた石のある女たちは、すぐにフューメを取り囲み、何事か話し合っているように見えた。
それが
古い
あの黄水晶の娘の忠誠をたった一夜で勝ち取るとは、新星もなかなかのものだった。
ギリスはそう思い、この星が案外本物かとスィグル・レイラスを眺めた。
しかし新星はがっくりと暗く
「すまない、ギリス……お前が彼女に頼んで行列に引き入れてくれたのだろうに、もうめちゃくちゃだ」
新星は顔を覆ってくよくよしていた。
意味がわかってないのかと、ギリスは困惑した。
フューメは明日も来ると言った。行列に英雄たちを集めるのにも協力すると約束した。
まずまずの大成功ではないか?
正直、ギリスが思った以上の成果だった。
フューメには、念動術の指南だけでもしてくれればと願っていたが、エレンディラがよほど女派閥に強い声を発したのか。
「お前なにか勘違いしてるよ、スィグル。実は馬鹿なのか?」
ギリスは心配になって聞いた。
それにスィグルはまた
「悪かったな、馬鹿で! お前に言われる筋合いじゃないよ!」
「そうだな。俺も悲しくなるほど頭が悪いんで困ってるんだよ」
苦笑して、ギリスはまだ落ち込んでいるらしい新星に同意した。
「
ギリスは今、急に気づいたことを、新星と分かち合おうと思い、話してやることにした。
「ヤンファールを攻略したのはお前だ、スィグル・レイラス」
「は?」
ぽかんとした怒った顔で、スィグルはギリスを頭から足までじろじろ見た。
洞窟で急に、見知らぬ妙な獣とでも出会ったかのようだ。
「イェズラムが言ってた。ヤンファールに旅立った族長に毎日、鷹を飛ばしたと。その通信文には毎日同じことが書いてあったらしい。なんて書いたか、お前は知ってるか?」
ギリスが尋ねると、スィグルは深刻な顔で首を横に振っていた。
おそらく皆も知らないのだろうなと思った。
「まだ生きている。と、書いて送ったと、
鷹が行く空の道を空想して、ギリスは飛び交う鷹が同じ文言を毎日運び続けたことを、ずっと不思議に思っていた自分を回想した。
俺は馬鹿だった。たぶん今も馬鹿だ。
族長は間違いなく、このスィグル・レイラスとスフィル・リルナム、その双子の息子を救うために、ヤンファールを攻略したのだ。
こいつが敵の穴蔵から族長リューズを
そうでないならヤンファール攻略にはあと百年を要したかもしれぬと、
正しい道に進む星を、支えるのが射手だ。
ヤンファールは攻め落とす必要があった。百年後でもいいだろうが、どうせなら当代でやるのがよかろうと、
名君リューズ・スィノニムは、
それが一千年にただ一人の名君であるほうが、そうでないより愉快だろう。
ただの一度しか生きないこの世が、愉快であって困ることはない。
何かが
「お前が助かるって、どうやって知ったんだろう。イェズラムは。もしお前が途中で死んだら、どうするつもりだったんだと思う?」
「知らないよ、そんなこと」
スィグルは動揺した目で答えてきた。
そうだろうなとギリスは思った。自分が死ぬか生きるか決めるのは自分だが、それでも死の天使には何者も逆らえない。
その采配を知っている者がいれば別だが。
「アイアラン」
ギリスは納得して、その名を口にした。
あいつはギリスと同い年だと言った。ヤンファールの勝利を予言したらしい。
ギリスはヤンファールの時、まだ十四歳で、初陣には早すぎた。
それでも
ギリスがそうなら、アイアランもそうだったはずだ。あいつも十四歳だった。
ヤンファールでは見ていない。共に敵陣に突撃もしなかった。
だが、あの時、
ヤンファール攻略のために、
それは、ギリスだけだったのか。
詩人が語らなかったことの全てを、
「アイアランに会う。スィグル。お前はあいつにも
ギリスは確信して教えた。
きっとあいつは新星にとって、生涯忘れられない英雄になる。アイアランもそう言っていたように。
英雄たちの席がざわめいていた。
ギリスが目を向けると、中央の大扉に尻尾のある者たちが、
時機もぴったりだったなと、ギリスはアイアランの魔法の精度に驚いた。
未来視の英雄の来臨だった。
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