050 念動術師

 茶を飲み終えた新星レイラスは完全に腑抜ふぬけだった。

 薬入りの兵糧ひょうろうも全て平らげ、それで腹がいっぱいになったらしく、もう他の晩餐の料理には手をつける様子がない。

 一番不味まずいもので腹を満たすとは、なんという愚かしいことかとギリスは呆れた。

 もったいないので食ってやろうと思い、新星のぜんにある中からも、自分の好物はギリスが片付けておいた。

 殿下の席にはべると、本当に王族と同じものが食えるらしく、スィグルの膳とギリスの膳の料理は全く同じだった。

 役得を得たジョットどもも同じものにありついている。

 何をしに来たのかも忘れ、ジョットどもは黙々と食べていた。英雄は腹が減っているものだ。

 その忘我ぼうがの食いっぷりを見て、ギリスはサリスファーたちを信用することにした。

 他のは知らないが、サリスは一応、エレンディラのところで兵糧を食っている。その後でもここまで腹が減る奴というのは、信用できるとギリスには思えた。

 たくさん食う奴は長生きするのだ。養父デンの教えの通りであれば。

 それに比べて新星の食の細さは問題と言えた。

 族長位ぞくちょういには、一に体力、二に体力だ。

 なにしろ朝から晩まで政務があり、そのあと玉座の間ダロワージで家臣たちと酒食しゅしょくを共にし、さらには後宮でも一戦交えねばならない。

 いつ寝ているのかと不思議でならない。

 それでも族長リューズが朝議に遅参したことはないらしい。

 もし遅れたら養父デンが怒るせいだ。

 ヤンファールでは族長はそう言っていた。

 ギリスが必勝の秘訣ひけつを族長に聞くと、負けるとお前の養父デンが怒るからだと言っていた。

 負ければ恐ろしくて王都に戻れぬ。ここで戦って死ぬと、族長リューズは言っていた。

 冗談なのかもしれないが、ギリスには冗談には見えなかった。

 お前もそうだな、と、ギリスのことをよく知っているふうに、族長リューズは言い当てていた。

 そうではないとギリスは思ったが、その時は言わなかった。

 俺はイェズラムにめられるために戦っている。叱られるのを恐れている男とは同じじゃない。

 イェズラムはギリスに怒ることは無かった。皆無かいむとは言わないが、いつも優しい養父デンだ。

 しかし族長はイェズラムを恐れているようだった。

 よほど悪いジョットだったのだろう。あの忍耐強いイェズラムを度々怒らせるというのだから。

 養父デンは苦労してそれを玉座に押し上げたのだろうが、並大抵のことと思えなかった。

 射手の苦労というのは、おそらく並大抵でないものだ。

「もっと食えよ、スィグル。これ食えるだろ。好き嫌いするな」

 食膳に小さく並ぶ美しい盛り付けの料理をはしで指して、ギリスは肉気がなさそうな料理をスィグルにすすめてやった。

 でももう呆然としておりはしも持っていない。

「早く帰って寝たい。疲れたよギリス」

 もう傾きそうな座り方で、スィグルが弱音を吐いていた。

「何言ってるんだよ。子供部屋で英雄譚ダージを聴いて途中で昼寝してただけの奴が、何に疲れたっていうんだ」

「さっきので疲れた。エル・エレンディラに」

「エレンディラなんて全然疲れるような相手じゃないじゃん」

 ギリスは呆れて聞いた。

「そんなことないですよ、兄者デン、そんなことないです」

 黙って聞いていたはずのサリスファーが、後ろのほうから囁いてきた。

 食ってる割に聞き耳は立てていたらしい。油断ならないジョットたちだ。

「帰る?」

 よれよれになっている新星が可哀想になり、ギリスは尋ねた。

「無理だ。王族は刻限まで退出できない」

 スィグルは青い顔で首を振っている。

 なんて不自由な連中かと、ギリスは新星がさらに気の毒になった。

「時間の無駄としか思えないな」

 食いもせずご馳走を眺め、青い顔でふらふらしながら我慢して座っているだけとは、新星の第一夜はとんだことだった。

「待つのが王族の仕事だ」

 さっきも言っていたようなことを、スィグル・レイラスはまた口にした。

「お前が族長になったら変えればいいよ。飽きたら帰れるようにさ」

 ギリスがスィグルの膳の肉をつまみ食いしながら言うと、新星はやっと淡く笑った。

「そうだな……」

「やる気が出るだろ」

「戴冠できたらそう命じるよ。飽きたら晩餐から帰ってよいと」

 新星がもっともらしく笑って言うので、ギリスも面白くて笑顔になった。

 こいつが即位したら玉座の間ダロワージはめちゃくちゃになりそうだ。

 父親のほうも、まあまあ無茶だが、それでも養父デン牛耳ぎゅうじっていた分、玉座の間ダロワージの威厳は保たれていた。

 今後はそれと同じことを自分がやるのかと思うと、ギリスは気が重かった。

 自分も食ったらさっさと帰りたかったからだ。

 いつまでも家臣と長話をする族長リューズは気が長い。今もまだ高段で、懐かしげに長老会の者たちと語り合っている。

兄者デン、あいつが来ますよ」

 新星の横にいるギリスのそでを後ろから引いてきて、サリスファーが慌てた声で言った。

 ジョットが指し示すほうをギリスが見ると、英雄たちの席のほうから、きらびやかな薄布をすそにちりばめた礼装の女英雄たちが、一団となって近寄ってくる。

 礼装をしても、結いあげた髪に黄水晶の花芯のある花簪はなかんざししており、その人数は昼間に見た時よりも多かった。

 徒党ととうを組んで来やがった。

 ギリスも一瞬身構えて、それを見た。

 まさかまた吹っ飛ばしに来たのかと思ったのだ。

「エル・フューメンティーナですよ、兄者デン。エル・フューメンティーナ!」

 背後から低い声で、気の利くジョットが伝えてくる。

 俺が忘れてると思ってんのかと、ギリスはジョットの気遣いに呆れたが、少々助かった感は否めなかった。

「フューメ……」

 膳の前に膝をついて跪拝きはいしようとした、年若い女英雄たちの一団に、ギリスは先に声をかけた。

 そこで叩頭しかけていた女英雄が、じろっと怖い目でギリスをにらんだ。

「呼び捨てにしないでくれる?」

「エル・フューメ……」

 黄色い目でにらまれてギリスは言い直したが、舌を噛みそうで口籠くちごもってしまった。

 ふん、と怖い声でフューメはため息をつき、深々とスィグル・レイラスに叩頭した。

「殿下、星園エレクサルばつのエル・フューメンティーナと申します。こちらは同じ派閥のジョットたちでございます。一同、殿下のご無事の王都ご帰還にお祝いを申し上げます」

 非の打ちどころのない礼儀作法で、フューメは新星に挨拶をした。

 廊下ではスィグルの悪口を言っていたくせに、そんなところは少しも見せない。

 フューメが淡い笑みで可愛い顔をしていたせいか、スィグルは安心したらしく、にこりとして答礼した。

 いつ吹っ飛ばしてくるかもわからない女なのに、用心しろとギリスは言いたかった。

「わざわざ挨拶に来てくれて、ありがとう。エル・フューメンティーナ」

「フューメとお呼びください、殿下。エル・エレンディラより殿下のお側に仕え、御身をお守りするよう仰せつかっております。どうぞ私とジョットたちをいつもお側にお置きください」

「こんな人数どうやって置くんだよ……後宮か……」

 ギリスはデンと同じ淡い笑みのジョットたちを見渡し、思わずそう言った。

 すると白い花簪はなかんざしをさした妹たちも、姉と同様の危険な目でじろっと一瞬ギリスをにらんだ。

 ジョットデンに似るものだ。この中の誰が念動術師か、確かめておかないと、いつ吹っ飛ばされるかもわからない。

「無礼ですよ、エル・ギリス。髑髏馬ノルディラーンはお帰りを。私たちが殿下をお守りします」

 女英雄は冷たい声で言ってきた。

 氷結術師であるギリスでも、骨まで凍りそうだった。別に寒さに耐性があるわけではない。

「いやいや。俺は殿下の射手なんだ。帰るわけない」

 ギリスは参って答えた。女たちが本気に見えたからだ。

「そうは聞いておりません。そうなのですか、殿下?」

 フューメは新星に聞いた。スィグルは困った顔で、しばし目をまたたいていた。

「ギリス。お前、実は偽物か?」

「そんなことありません! 兄者デンは本物です、殿下!」

 びっくりしたようにサリスファーが背後から叫ぶように言っていた。

あかしがある訳ではありません、殿下。射手が誰かご存知なのは長老会だけです」

 フューメは馬鹿にしたような目でギリスを見ていた。何を言うんだこの女は。

「その長老会から言われて来てるんだよ!」

 ギリスは困ってフューメに詰め寄った。

「そうかしら。エル・エレンディラは私に殿下をお守りしろと」

「俺が頼んだんだよ、お前を借りられるように。知ってるんだろ。卑怯だぞお前」

 叫ぶわけにいかず、ギリスが声を潜めてフューメと顔を付き合わせて言うと、女英雄は嫌そうな目で顔を背けた。

「近いわよ、エル・ギリス。気持ち悪いからやめて」

「非礼だぞ、ギリス……星園エレクサルの英雄なんだから」

 スィグル・レイラスが気をつかったように気まずそうにギリスに言った。

 星園エレクサルは女ばかりの派閥だ。

 その事実を口にはできないとスィグルは思ったらしい。だが、そういう意味だ。

 何が違うんだ、髑髏馬ノルディラーンと。ギリスはそう思ったが、フューメは違う考えだったようだ。

「お優しい殿下」

 廊下で悪口を言っていたくせに、フューメは平気で新星レイラスに甘い声で取り入っていた。

 廊下で悪口を言っていたくせに!

 ギリスは思わず歯噛みしたが、黙っているしかなかった。そのほうが都合が良いからだ。

 その予想に違わず、フューメはおごそかに新星に申し出た。

「実は私たちも殿下のご帰還式の隊列にお加えいただきたいのです」

 フューメは長い睫毛まつげの伏し目で、極めて控えめにスィグルに言った。

「正直に申しまして、私たちは戦闘経験もない弱輩でございます。殿下の行列にふさわしい英雄ではございませんが、どうぞ末席にお加えください。派閥の姉上デンが、新しい殿下には新しい英雄をと仰せで、及ばずながら私たちが星園エレクサルを代表して殿下にお仕えいたします」

「こんなチビばっかり送ってきたのかよ」

 ギリスは心底驚いてフューメに聞いた。お前のデンを連れてこい。まともな戦闘経験のある女英雄を。

 そう言うギリスをスィグル・レイラスまでが、非難するような横目で見て来た。

「ギリス。非礼だぞ。言葉をつつしめ」

 ぴしゃりと偉そうに言って来て、スィグルはさっきまで震えていたくせに、急に主人みたいな態度だった。

「エル・フューメンティーナ。あなたの姉上デンたちにお礼を申し上げてくれ。僕は戦うために隊列を組むわけじゃない。王都に戻るだけだ。戦闘経験はいらないよ」

「抜かりなく護衛を勤めますゆえご安心ください」

姉上デンの念動術は星園エレクサルでも一、二を争うものです」

 まだ餓鬼みたいな声の小娘がフューメをめていた。

 まだ新星に挨拶もしてないのに喋るなとギリスは驚いたが、娘たちは個々に名乗る気はないようだった。

 確かに十人ぐらいいる娘っ子にいちいち名乗られても憶えられない。

 エル・フューメとその一味でギリスには十分だったが、誰が新星に直言ちょくげんして良いと許した。

 そういう目でギリスはにらんだが、スィグルはにっこりとして、自分より年下らしい、その元服したての少女の英雄にうなずいていた。

「そうなんだね。ありがとう」

 優しげに言うスィグルに、餓鬼みたいな花簪はなかんざしの連中が、うっとりと照れていた。

 まるで星を見るような娘たちの態度に、こいつすぐ殴ってくるし人を食う殿下なんだぞと、ギリスは呆れた。

 それでも確かにスィグル・レイラスの容貌は良い。いかにもチビの女英雄が好みそうな綺麗な殿下だ。

 それに心が動いたのかどうか、フューメンティーナは冷静そうな真顔でスィグルに申し出た。

僭越せんえつですが、殿下に念動術の指南をするよう、エル・エレンディラから仰せつかっております」

「エレンディラにそこまで話してないぞ」

 ギリスはフューメの申し出に驚いて言った。なぜエレンディラにその用件が分かったのか。

 だが、フューメは尋ねたギリスをうるさそうに見て来た。

「ごちゃごちゃうるさいのよ、あなた。どうでもいいでしょ!」

 これが本性としか思えない顔で、フューメが凄んできて、ギリスは黙った。

 抵抗してはならない何かがフューメの目の奥にあった。

「念動術」

 スィグルが不思議そうに聞き返している。

「殿下は念動術をお使いになるとか」

「英雄に習うほどの魔力ちからではない」

 確かめてきたフューメに気後れしたように、スィグルはぶつぶつと答えた。

 それにフューメはにっこりとした。

「大丈夫です。魔力は使うほど伸びますし、特に念動術は使いようでございます、殿下。ただ馬鹿みたいに力が大きければ良いという、氷結術や火炎術とは違います」

 氷結術のところをフューメは明らかに強調して言った。たぶん火炎術のところも。

 ギリスの背後でサリスファーと包帯巻いてる奴がうめいていた。氷結術と火炎術だ。

 髑髏馬ノルディラーンには特にその辺りの魔法を使う者が多い。

「賢き者が正しく使えば、念動術は千倍にも万倍にも役立つ魔法です。聡明なる殿下に相応ふさわしい技でございますね」

「そうか。わかったよ、ありがとう、エル・フューメンティーナ。あなたの指導を受けよう。でも……」

 暗い顔をして、スィグル・レイラスは言い淀んだ。フューメが何事かと首を傾げている。

「でも、あなたが魔法を使うのは止して欲しい。使うと石が痛むんだろう? 僕は魔法を使っても疲れるだけで済むけど、あなたは命が縮むのだから、もっと大事な時のために取っておくべきだ」

 ジェレフには魔法で小怪我こけがを治させるくせに、新星レイラスは女に優しかった。

 ギリスにはそう見えた。それで隣であんぐりとしていた。

「そんなに驚くな、ギリス……何だよ」

 気味が悪そうにスィグルがこっちを見ていた。

 だが仰天していたのはギリスだけではなかった。

 フューメンティーナも両手で口を覆って驚いていた。

「お優しい殿下……!」

 今度は本気で驚いているらしく、フューメは微かに涙目だった。

「私の身のことはお気になさらないでください。英雄は日々魔法を使うものです。訓練いたしますので。それに殿下のために振るう魔法をフューメは惜しんだりいたしません」

 いつの間にそんな忠臣になったのか、エル・フューメンティーナは熱く約束した。

 廊下で悪口言ってたくせに……!

 ギリスもそう言いそうになり、思わず片手で自分の口を押さえた。

「感動してるのか、ギリス……お前も?」

 不可解そうに新星レイラスが尋ねてきて、ギリスは首を横に振るので精一杯だった。

「この男は放っておきましょう殿下。フューメがおります」

 膳ににじり寄ってスィグルの気を引いて、フューメンティーナは美しい顔で微笑んで言った。

「ありがとう、エル・フューメンティーナ。千軍を得た気分だよ」

 スィグルも相当な玉なのか、にっこりとしてフューメに感謝している。

 いかにもお育ちの良い殿下という風情だった。

 すぐ殴ってくる癖に……?

 ギリスは押さえたままの口の中で、その言葉を噛み締めて飲み込んだ。

 飲み込んだ言葉で腹がふくれそうだ。

 射手にこんな苦労があるとは予想外だった。

 思ったことを自由に口に出すこともできないなんて。

 ギリスは膳の銀杯を取って、果実水で言葉を流し込もうとしたが、その杯すら空っぽだった。さっきスィグルに飲ませたせいだ。

 くそ……。

 ギリスは空の杯を見つめ、震えてそう思ったが、その背をサリスファーがバンバン叩いて来た。

兄者デン、叩頭してください、叩頭!」

 小声でうるさく言うジョットに、ギリスはムッとした。今度は誰が来たと言うのか。クソ忙しい夜だ。

 苛立って目を上げると、そこに見たことがあるような礼服のすそが見えた。

 フューメが恐れるようにおののき、腰を抜かして見上げている。

「エル・ギリス」

 ギリスは怒ったような声で呼ばれて、趣味のよい紺地こんじ長衣ジュラバの者の顔を見上げた。

デンに叩頭しろ」

 長身から見下ろして来て、その男は言った。黒塗りの盆を持っている。

「ジェレフ……」

 なぜデンがここに来たのかも一瞬忘れ、ギリスは唖然と長身のデンを見上げた。

「呼び捨てにしないでよ、不敬でしょう!!」

 噛み付くようにエル・フューメンティーナがギリスに言った。

 なぜお前が怒る。

 そう思ってギリスが星園エレクサルの連中に目を向けると、なぜか全員が怒った目でギリスをにらんでいた。

 いつ吹っ飛ばされても不思議ではない状況だった。

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