049 戦場の美味

 晩餐が始まった。

 ギリスはスィグル・レイラスの席から、壇上の席にいる族長リューズ・スィノニムを見上げ、自分たちの席に料理が運ばれてくるのを待った。

 女官たちが袖の優雅な薄絹をたなびかせ、次々にぜんを運び込んでくる。

 玉座の間ダロワージの女官はどれも皆、絵から抜け出てきたような美貌の者ばかりだ。

 どう見ても、それが族長のそばに仕える女官の条件だった。

 賢ければ容色は問わないと養父デンは言っていたが、それならば、こんなに多くの才色兼備の者が部族領には生まれてくるということだ。ギリスですら驚くほどの絢爛けんらんさだった。

 それを陶然とうぜんと見上げ、王族の席には居慣れぬジョットたちは、女官の持ってきた食膳にどよめいた。ご馳走だったからだ。

 王族の席の飯はうまい。英雄たちにも粗食とは言えない食事が出されるが、王族の席の料理はただ食えればいいという食べ物ではない。

 領土各地の味覚が揃い、それを取り揃えることができる輸送力や財力を誇示するための道具でもある。

 王族の席にはべる側仕えは、毎日それを食えるのだ。

 美味い話だった。ギリスもそれは射手の役得と心得ている。

 それでも、昨夜ゆうべあの高段で食った料理とは違う。

 何がとは言えないが、恐らく何かが違うのだ。

 族長が、ただの殿下と同じものを食っているはずがない。

 それはギリスの妄想だったが、族長リューズは美食家だと養父デンは言っていた。宮廷では美味いものしか食わない男だ。

 アンフィバロウにそっくりな顔も、宮廷絵師の傑作から抜け出てきた魔物のように美しいが、族長は舌も肥えており、料理が不味いと食わないらしい。

 好き嫌いも多い。胃腸も虚弱で、妙なものを食わせると、すぐに腹を壊す。

 養父デンはそう言っていた。

 そんなふうには見えないが、そう聞いて眺めると、族長リューズは確かに宴席ではほとんど飯を食わない。

 高段の食卓にある食い物は、族長の好物ではなく、その日に招ばれる者たちが好む食材が載っているのだ。

 もてなすための料理で、自分が食うためではない。

 昨日はおそらく、エレンディラとジェレフのための料理が食卓に載っていた。

 華麗な花のような包丁遣いの野菜とか、珍しい果物であるとか、女の好むような料理と、デンが好む鶏肉だ。

 ジェレフはやたらと鶏が好きな男で、派閥の宴席にも鶏の料理が出ていた。

 あのデンの奇跡の治癒術を鶏肉であがなえるなら、それは族長も何羽でも雌鳥を絞め殺して食事に出そうというものだった。

 今日は食卓に花が飾られている。赤い花だった。

 それを見て、ギリスは族長がエレンディラが来るのをもう知っているようだと思った。

 お仕着せのように赤い伝統衣装を着ている王子たちと違い、族長は毎日着替える。

 今宵は族長は夜に染まったような黒い服を着ていた。喪服のようにも見えたが黒糸で黒い石が縫い付けられており、ところどころが星のようにきらめいた。

 それでも普段よりは質実剛健に見え、まるで養父デンのようだとギリスには見えた。

 もしや、それがエレンディラの好みなのかもしれなかった。

 それともこの場で今日、自決した英雄たちに哀悼あいとうを示しているのか。

 それにしても豪華な衣服と言えた。

 族長リューズは部族の針子や工芸士に新しい服を作らせて、それを着てくる。

 時にはそれを家臣に下賜かしする。

 族長の衣装には金銀や宝石が使われており、一着でももらえばひと財産だ。

 そのまま着ることは許されないので、下賜かしされた者は一生着られもしないその衣装を大切に保管するか、もしくはバラして別の服や工芸品にする。

 武具やら、武器の装飾として、身につけて戦うと武運を授かれるという信仰があり、族長リューズは難題を与えた家臣には気合を入れさせるために衣装を下賜かしすることも多い。

 だからリューズ・スィノニムにはたくさんの服がいるのだ。養父デンも呆れた様子でそう話していた。

 族長は金遣いの荒い男で、領土は回復したが、軍費も相当使った。

 資金を惜しまず戦うからこそ勝てたのだ。

 その借財がある。

 養父デンの話では、それは主に貿易を行う商人たちが族長にみついだ金で、ギリスはいくつかの豪商の名を聞いた。

 イシュテムとか、テルパミランとか、トゥランバートルとかいう。中には部族領の外の者もいる。

 それと会ってみるのも良いかと、ギリスは高段の花を見て思った。

 彼らが新星にもみつぐ気があるか、早めに確かめても害はないだろう。

 恐らく金の無心はここにいる王族たちの全てが、一度はしに行っているはずだ。

 スィグルも商人たちに顔を売るべきだった。

 王族たちの資金源は直轄の領地からの税収と、王宮の予算からの割り当て分もあるが、それ以外は他人のかねだ。

 王子を支援する後ろ盾の外戚の者や、将軍や博士や官僚が、あるいは商人たちがみつぐお陰で、殿下はいつも絹に包まれ宝石のついた靴で玉座の間ダロワージを歩ける。

 それは規模は違っても、族長になってもずっと同じだった。

 部族領で随一と名高い豪商イシュテムと、族長リューズはずっと懇意こんいだ。

 族長が可愛がっている鷹通信タヒルの鷹も、初代のシェラジールは確か、イシュテムから献上されたものだったのではなかったか。

 イシュテムはなぜか族長を深く愛しており、軍費も宝物も鷹も人も、一切合切を惜しまずみつぐ。

 それに見合った見返りを族長が与えているからだろう。

 それが何かを商人に聞いてみてもいい。同じものを与えると新星にも約束させる。

 誰が族長リューズ・スィノニムの一番お気に入りの息子か、その上でイシュテムに聞いてもいい。

 あるいはテルパミランに。トゥランバートルにもだ。

 彼らがスィグル・レイラスだと言ってくれれば、族長も仲良しの商人たちの声を聞き、継承指名の腹を決めてくれるかもしれない。

 どうなるかは分からないが、やらない手はなかった。

 殿下がイシュテムに会えない訳はない。彼らは天使というわけではないのだし、スィグル・レイラスは天使にすら会った男だ。

 そうは見えない可愛いつらだが、せめて舐められないように、あと二、三年は新星の成長を待つほうがよいか。

 嬉しげに飯を食っているジョットたちと歓談している、スィグル・レイラス殿下の子供のような顔を見て、ギリスは思案した。

 エレンディラはまだ来ない。

 来るはずだった。族長の席の横は空のままだし、食卓には赤い花がある。

 そう思いギリスも驚くほど美味い鶏の料理を食っていると、英雄たちの席がざわつき、皆が叩頭しはじめたので、誰か偉い奴が来るのは間違いなかった。

 エレンディラだろう。

 そう思ってギリスが目を向けると、エレンディラだけではなかった。彼女が長老会の、石で頭の重たそうな重鎮デンたちを数人引き連れてきていた。

 彼らは病状も重く、億劫がるので玉座の間ダロワージには滅多に来ない。

 それでも歴戦の勇だ。英雄たちの座は生きた英雄譚ダージをみる目で高揚し、大先輩デンの来臨を皆喜んでいるようだった。

 スィグル・レイラスの席のジョットたちも例に漏れず、慌てたふうにぜんはしを置き、すそを整え叩頭した。

 ギリスの前を通るとき、長老会のエレンディラは甘い目配せを送ってきた。

 さっき一緒に茶を飲んだのでなければ、自分に気があると思うところだった。

 どういう意味かと、スィグル・レイラスが眉をひそめた不可解そうな顔で、ギリスを見た。

 それがあまりにも良い気味で、ギリスは王子の客座で控え、笑いを噛み殺していた。

「リューズ様、遅くなりまして失礼いたしました。慣れない料理に手間取ってしまいまして」

 エレンディラは広間ダロワージの最奥まで行くと、高段を見上げ、一人で人待ち顔だった族長リューズに気さくに挨拶をした。

 族長は英雄たちに友であることを許し、もちろん常に直言ちょくげんを許した。

 叩頭すら省いて良い。そう族長は許したが、長老会は許さず、エレンディラも他の重鎮デンたちも、高段にかかるきざはしの下でひざまずき、深々と叩頭した。

「席が足りぬぞ、エレンディラ。連れがいるとは聞いていない」

 族長はエレンディラに文句を言った。

「皆も参りたいと申しましたので。いけなかったでしょうか。リューズ様と二人きりとは、わたくしの身が心配でございます。男子でありながら閣下のお子を授かっては一大事でございますゆえ、皆に頼んで付いてきてもらいました」

 エレンディラがにこやかに言うと、族長は笑った。広間ダロワージも笑っていた。

 女英雄エレンディラは美貌で名高く、族長と良い仲なのだと疑う者も多いらしい。

 おそらく大人たち古い世代の冗談だろう。

 ギリスにはエレンディラが族長と寝ているとは思えなかった。

 妻が十二人もいる男が、まだそこら辺の女官や女英雄と戯れたいだろうか?

 そういうものかもしれないが、エレンディラはそういうたぐいの相手ではない。

「もう子はよい。息子も娘も十分に授かっただろう。まだ必要か、エレンディラ」

「いいえ。聡明な殿下ばかりが、こうも大勢、玉座の間ダロワージにお揃いになっては、わたくしも、次は一体どの座にはべればよいやら目がくらみますわ」

 エレンディラの連れの長老会の者たちは、余程おかしいのか、女英雄の冗談に笑っていた。

「口をつつしめ」

 珍しく族長が不快そうに咎めた。しょうがない奴だというように。

 それでもエレンディラも、長老会の者たちもにこやかにしていた。

「上がってきて飯を食え、エレンディラ。話があるのだろう」

「皆も同席してよろしいでしょうか?」

 長老会の仲間を手で示し、エレンディラは族長に求めた。

 それに頷き、族長が許すと、高段に仕える侍従たちが速やかに椅子を持って現れる。

 まるで魔法だ。リューズ・スィノニムは魔法は持たぬが、ただ頷くだけで椅子を出せる。

 長老会の者たちはぞろぞろと階段を登っていった。まるで物見遊山にでも来たような、くつろいだ足取りだ。

 英雄たちの中では、彼らは最も長くこの玉座の間ダロワージで時を過ごした者たちだ。

 ここが彼らの家で、帰るべき場所だった。他にくつろぐべき場所などないのかもしれない。

「リューズ様。今日はこのエレンディラがお食事を作ってまいりました。殿下がたにも差し上げたく、お許しいただけますでしょうか? もちろんこのエレンディラが毒味はしておりましてよ」

「それではそなたが毒を入れない限りは無毒であろう」

 ほがらかに言うエレンディラに、族長は面白そうに言っていた。

 二人とも、恐ろしいほど通る声だ。

 戦場で号令しなくてはならず、王宮でもこうして皆に聞かせるのだから、上に立つ者たちの喉はまるで魔法のごとき声を出す。

 皆も静まりかえってそれを聞く。まるで芝居でも見ているようにギリスには見えた。

「無毒でございますよ。閣下が食べてみてお確かめくださっても結構です」

 エレンディラが真面目くさって言うと、リューズ・スィノニムは吹き出して笑っていた。

 族長に毒味をさせる女も珍しい。

 エレンディラは立ち上がって、広間ダロワージの英雄たちに向かい、大声で言った。

「ごめんなさいね、皆の分はないの。そこのご飯を食べていてくださる? わたくしの非力な腕では、王族の皆様のぶんを作るので精一杯でした」

 祈る乙女のように胸の前で手を組合せ、エレンディラは心からびているようだった。

 それに英雄たちが笑い、かまいません姉上デン、遠慮いたしますと口々に答えさえした。

 エレンディラはもしや料理が下手なのではないか。皆がほっとしている気配がした。

 もしも全員分の飯があったら、エレンディラの手料理を食わされたのだろうか。

 非力でよかった。

「俺は嫌だぞ、エレンディラ。何を作ってきた」

 不味いものは食わないという族長が、高段で隣に座すエレンディラを警戒している。

「リューズ様の大好物でございますよ」

 エレンディラが目で指図すると、広間の中程の入り口から、礼装で着飾った女英雄たちがぜんを持って入ってきた。エレンディラの派閥の者たちで、女長デンと似てにこやかで、皆、愛想がよく可愛げがあった。

 そのぜんに載っているものを見て、ギリスはぽかんとした。兵糧ひょうろう団子だんごだ。さっき食ったやつだ。

 あんな不味まずいものを族長が食うのかと、ギリスは不思議だったが、高段の男も笑っていた。苦笑のようだった。

「これがお好きでございましょう、リューズ様」

「お前のデンが考案した不味まず団子だんごだ!」

 憎たらしいように、族長リューズは自分の食卓にもやってきた膳を指さし、エレンディラに言った。

「まあひどい。美味おいしゅうございますよ。戦場で火を使わず飢えをしのぐには、もってこいでございましたでしょう」

 すねた口調でエレンディラは反論し、それに英雄たちもそうだそうだと言った。将軍たちの席からも笑いが漏れている。

 英雄と将軍の席は別だが、同じ戦場で不味い団子を食った仲だ。

 美貌で愛想の良いエレンディラは、兵にも絶大な人気がある。

 特に将軍職につくような年配の者にとっては、戦場に舞う彼女は若き日の夢だ。

「まったくだ。お前のデンの不味い団子には何度となく命を救われた」

「では今宵は我が姉上デンしのび、その名を英雄譚ダージでしかご存知のない殿下がたにも、ご賞味いただきとうございます。このお団子も、我が部族の戦歴のほまれでございますゆえ」

「わかった。ありがたく食うとしよう。大英雄エレンディラ。我が戦場の花よ」

 笑って許し、族長はまさに花のように微笑んでいるエレンディラと、長年の恋人か、まるで姉と弟のように見つめあって、手掴みで兵糧の団子を食った。

「うん。美味い」

 族長は褒めたが、エレンディラは隣の席で美しく笑っていた。

「嘘つきな閣下。でもたくさん召し上がってくださいね。閣下にはしっかりお召し上がりいただき、明日も明後日も末長く戦っていただきますので」

「わかったわかった。息子たちも女英雄エルの手料理をありがたく食うがよい。これこそ戦場の美味だ」

 族長は品よくガツガツと食った。滅多に人前だは食べないが、食うときは早飯の男だ。

 それも養父デンには好ましかったらしい。養父デンは誰であろうと、だらだら飯を食う奴が嫌いだった。

 さっさと食い、さっさと戦うのだ。

 高貴なるジョットにも、イェズラムはそのようにしつけたのだろう。

 派閥のジョットたちにも、そうだったように。

 英雄たちと居ると、族長リューズ・スィノニムは王族というより、まるで派閥のデンたちのように見えた。

 そう思うのは玉座に対し不敬かもしれないが、ギリスにはずっとそうとしか見えなかった。

 族長は軍人だ。さらに言えば魔法戦士みたいだった。

 頭に石はなく、代わりに永遠の蛇の族長冠を戴いているが、それもまた、竜の涙と似て、一生消えない死の呪いに近い。

 即位前にはアンフバロウの血筋を証す王族の額冠ティアラを常に帯び、新しい星でなければ死ぬ定めだった。

 王家の血の呪いだと、養父デンも話していた。

 英雄たちよりもはかない命だ。

 王族は、死ぬ時すらも自分では決められない。玉座から死ねと命じられたら、いつでも死ぬ定めなのだ。

 その証拠に、スィグル・レイラスも自分の膳に配られた、クソ不味い兵糧の団子をおとなしく食べた。

 蒸してあるようで、パサパサの乾いたやつを食わされるよりはマシだが、決して美味うまくはない。

 食えないことはないだろうが、食わずに済む王宮でまで食いたいという奴は稀だ。

 毎日食っているというエレンディラがおかしいのだ。

 族長も喜んで美味うまそうに食っているみたいに見えるが、あの男もおかしいのだろう。

 戦場の申し子たちだ。

 ぐふっという声が王族の席から聞こえ、スィグルの隣の殿下が食ったばかりの団子を吐き出していた。

 それを眺め、スィグル・レイラスが団子を噛むのをやめて青ざめている。

 吐き出していいのかと思ったらしい高貴なる殿下がたが、次々に団子を吐いた。

 袖で隠して優雅にやっても、無作法なことには変わりない。

 慌てて果実水を飲む赤い衣装の連中を見て、ギリスは嫌な予感がし、スィグルの膳から団子を一個取って食ってみた。

 まさか毒殺か。エレンディラが発狂したのかと、ギリスは疑ったのだ。

 しかし団子はただ不味かっただけだった。

 派閥の部屋で出されたものより、もう一段不味い。

 何か妙な匂いがする苦い粉が入っている。人の食うものと思えない味だ。

「お前の工夫はないほうがよいぞ、エレンディラ。偉大なる姉上デンの処方に戻すのだ」

 平気な顔でエレンディラの団子を食いながら、族長は女英雄をさとしている。

「どうしてでしょうか。お腹の調子を整える薬草を少しだけ入れました。これで兵も戦地でお腹を壊しません」

薬臭くすりくさいのだ!」

 族長は端的たんてきに間違いを指摘した。

「でも閣下は美味しそうに召し上がっていたではないですか」

 エレンディラは口を尖らせ、怒ったように可愛らしく言っていた。

「優しいお前を傷つけまいと耐えているだけだ。だがこれは不味い。お前からほどこしを受けた兵は、これを食って泣いているぞ」

「でも、レイラス殿下は平気で召し上がっていらっしゃいますよ」

 エレンディラは朗々ろうろうと響く声で良い、赤く塗った爪の指で、末席のスィグルを指差してきた。

 ギリスと並んで大振りの団子を手に持ったままだったスィグル・レイラスを。

美味うまいか。息子よ。エレンディラのデンしのび、戦場の美味を食してやれ」

 諦めたように言って、族長リューズは黙々と団子を食った。

 一度は団子を吐き出した王子たちも、偉大なる父が我慢して食っているものを、不味いとは言えないのだろう。

 赤い服を着た兄弟たちに劣らぬよう、青ざめた顔で団子を食っている。

 その必死のさまを見て、ギリスは笑った。こらえたが笑わずにおれない。

 新星レイラスはギリスの隣で、何やら決まりが悪そうに、黙々と不味い団子を食った。

 それも美しい行儀作法でだった。胃薬入りのを、よくも平気な顔で食えるものだ。

 末席ゆえ、英雄たちからも、よく見えただろう。

 その奥の将軍たちの席からも、なんとか目にできたのではないか。

 王宮の美味に慣らされ、兵糧を食えない王子たちとは、新星レイラスは一線をかくすのだと。

「レイラス殿下はお気に召したようですが、もしやこの味をご存知だったのですか?」

 エレンディラがにこやかに高段の席から聞いてきた。

 この距離で声を届けるには、かなりの声量で言わねば無理だ。広間ダロワージに響き渡るような美声だった。

 スィグルはそれに頷いて答えたが、ずいぶん小さな声だった。

「聞こえませぬ、殿下!」

 叱りつけるような声で、エレンディラが答えてきた。

 高段の食卓にいる長老会の者たちは、女長デンの叱責にびりっと痺れたようにおののき、苦笑して見えた。

「そのような小さいお声では、兵に号令できませぬ。立ち上がっておおせください、皆に聞こえるように!」

 族長も苦笑するだけで、女英雄に玉座の高段での大声を許していたが、赤みがかった紫の宮廷服に身を包んだエレンディラは、まるでそこに君臨する花のようだった。

 命じられたわけでもないのに、スィグルは仕方なくのように立ち上がり、族長に一礼をして見せた。

 それに答礼した族長リューズは、答えろというように、優雅に手で示した。

 玉座の間ダロワージが聞いている。このやりとりを。

 ギリスは足が震えているらしいスィグル・レイラスの横で、銀杯の果実水を飲みながら聞いた。

「ヤンファールで……いただきました。同じものを」

「まあ、ヤンファールで。激戦の地でしたわね。よくぞご無事で。それは殿下の飢えを満たす美味だったでしょうか」

 エレンディラはにこりともしない真顔で、問いただしてきた。

「はい。ありがとうございます。本当に……。命を繋ぐ美味でした。父上と、皆の大勝利のお陰で、今もこうして生きてここに」

 新星の声が沈黙に途絶えるのを、ギリスは見上げた。足が震えている。声も。

 もう喋らないほうがいい。

 ギリスは銀杯を持って立ち上がり、それで殿下の口を塞いだ。

「お帰り、スィグル・レイラス。お前が助かってよかったよ。俺もヤンファールで死ぬほど戦った甲斐があった」

 ギリスが果実水の銀杯を傾けると、スィグルは青ざめて飲んだ。飲まねば溺れる。

「この先の一生で、俺に借りを返してくれ。割賦かっぷでいい。でも早くしろよ、俺は長生きできないし、死ぬほど利息をとるからな?」

 ギリスが大声で言うと、将軍たちの次の座にいる官僚たちが笑った。

 常日頃、王宮で族長の金庫の金を数えているような連中だ。

「わかった、やめろ。必ず借りは返す!」

 おぼれたくない一心か、新星レイラスは約束した。

 ギリスは新星を許し、空になった銀杯で高段のエレンディラに乾杯ジャードをしてみせた。

「返すって言った!」

 ギリスが伝令すると、長老会の女長デンは大きく頷いていた。

「結構! お帰りなさいませ、スィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下。王家の金の麦よ。実りある生涯となられますよう、エレンディラがお茶を差し上げましょう」

 エレンディラは花のような笑みで言い、約束のとおり、高段で族長に献茶けんちゃを取り行った。

 美しい女英雄の自慢の茶道具を女官が用意し、その場でれた熱い茶を族長にけんじる。

 王族の席にはエレンディラが淹れた同じものが、彼女のジョットたちによって配られ、英雄たちや将軍、官僚や博士の席にも、別のどこかから女官たちが同じものを運んできた。

 玉座の間ダロワージに甘い茶の香りが満ちた。

 ギリスもエレンディラがれたのをもらったが、派閥の部屋サロンで味見したものと同じだった。

 英雄来たる。新星昇る。

 小さな二杯の茶器をって、エレンディラはスィグル・レイラスだけでなく、ギリスにも花を持たせてくれたらしい。

 ありがたい女長デンに押し頂いて、ギリスはその熱い茶を飲んだ。

 まったく、えらい雷撃をいきなりブチ込んでくる女だぜ。また忙しくなる。

 ギリスは舌を焼くその茶の味に、心から舌を巻いたが、隣にいた新星レイラスはまだ青い顔で震えながら、その茶をちびちび飲んでいた。

「スィグル、お前、その茶の名を知ってるか?」

 ギリスは小声で新星の教養を試した。

 スィグルは呆然としたような青い顔で、ギリスに答えた。

めい? え……英雄来たると、新星昇るかな? ……それが何?」

 それが何、と新星はとぼけたつらだった。

 気楽なもんだなとギリスは呆れ、そして笑った。

 これが新星の黎明れいめいの第一日目だった。 

 いずれ詩人がこの日の出来事を記録するのかもしれない。

 その時にはきっと、もっともらしい物語としてうたわれることだろう。

 そうだといいと、ギリスは心から祈った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る