ゆりかごの店 episode1
うつりと
天野絢斗
本日のご来店、心よりお待ちしておりました。
誠にありがとうございます。
はじめに…。
本作は、キャラクターの成長や葛藤などをメインに表現しているため、物語の運びがゆっくりであると同時に、技術の向上や知恵の在り方などを筆者である私なりに描いているため、あえて具体的な金銭のやりとりや、その額を明記しておりません。
また、本作では働き方改革が推奨される現代において、勤務時間、指導、教育のしかたなどを、あえて逆行させている場面が登場します。
しかし、それは決して飲食業や、それに携わる方々を批判したり価値を下げる目的ではななく、あくまでも飲食店の裏側をリアルな姿を描いるためであり、それ以外の目的は一切ございません。
ただ、読者様方が楽しみながらお読みいただけるよう、かなりマイルドな表現に工夫しており、暴力的な言動を表現される場面に関しては、私自身、十分な配慮を行った上で、作品を創らせていただいております。
また、作品に登場した料理も抜粋したものだけになりますが、本日の解説の欄で説明させていただいております。
冒頭が長くなり、大変申し訳ありませんでした。
それでは、ごゆっくり本編を楽しみください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ゆりかごの店
天野絢斗
episode1
声なき命との対話。
雪が解け、冷たい土の香りが混じる春の風と、その中に名残惜しそうに漂う冬の香りが鼻をかすめ、まだ肌寒さを覚え、桜の蕾もまだ色づくことを知らない、3月中旬のある日。
早朝の7時30分。
30歳後半ほどで、この店の料理長である真中聡(通称、真中さん)が、寝ぼけ眼を擦りながら店の裏手、距離にして徒歩約5分ほどの所に建てられた、ミモザのスタッフ全員が暮らす寮から出勤する。
店に着くとすぐに暖房を入れ、1度、事務室と更衣室が設けられている2階に上がり、そこでコックコートに袖を通す。
そして熱いコーヒーを淹れ、ミルクだけでシンプルに仕上げる。
それを飲みながら、何かに浸るようにリラックスした表情で、窓から入る朝日をしばしボーッと見つめたあと、スイッチを切り替えるように、さっも仕入れ伝票に目を通す。
それから、前日に下処理を終わらせたものや、仕込んだもの、すべての状態を確認し、必要であれば更に、それぞれに応じた下処理を施す。
現在は働き方改革で、色々な職種で勤務態勢や勤務時間が変わり始め、さらに自身の好きな働き方を選ぶことができる時代になってきた。
しかし、飲食業に携わる人々にとって働くというこもは、少し違う意味を持つ。
その理由は古くさいかもしれない。
料理人もサービススタッフも、働くというよりも、仕事を通して自身を錬磨する、修行としての意味合いが大きい。
それが飲食業の現実なのだ。
ただ、最近は少しずつ働き方など、全体的に変わり始めているのも事実である。
なぜ飲食行が大変かというと、答は実にシンプルなものになる。
料理人は、もの言わぬ食材と対話をし、食べた人の思い出を創る。
一方サービススタッフは、その知識を言葉や所作を使い、思い出の記憶に彩りと奥行きを与える。
それゆえ食の仕事は、厳しくなってしまう傾向があり、繊細で常に神経を張っているため、心身に大きな負担がかかるのだ。
しかし、技術を学び、知識や知恵を身につけるとは、そういうことなのだ。。
それゆえ真中は、日々、その重圧の中で働くスタッフたちを、少しでも早く休めせたいと思い、店のすぐ近くに寮を建てた。
真中本人が義務を非常に嫌うため、入寮はの有無はすべて各スタッフに任せている。
寮には、責任ある立場だったり、子供や配偶者がいるスタッフ以外は、同性同士、相部屋で使うという、まるで学生たちの寮生活のような決まりがある。
これはチームワークの基礎である、お互いを知り、配慮や思いやりの気持ちを養うためだ。
そして、ここでの暮らし方も、すべて本人に任せており、なかには子供が居たとしても、相部屋を選ぶスタッフもいるほどだ。
ミモザで働くスタッフたちは時に衝突することはあるが、店と寮の雰囲気、そして何よりも、この仲間との時間が落ち着くらしく、全員がここを生活の拠点にしている。
店もそうだが寮における生活も、決まりはあるがさほど厳しくないのがミモザにおける最大の特徴だ。
真中が出勤してから10分も経たずして、副料理長の副島凛香(通称、凛香)と、店長の盛田繁(通称、繁(しげ)さん)が出勤しする。
店に着くとまず、昨晩、寮であった事や趣味など仕事以外の話でしぱし談笑してから、それぞれ仕事に入る。
3人とも、まず出勤時間が狂うことがなく、ほぼ毎日、この時間に店に到着する。
他のスタッフたちも、遅くても午前8時30分頃までには全員が出勤し、まずは各自ストレッチをしたり、コーヒー片手に談笑したり、寮生活だけでなく、始業前にもお互いの状態を確認したり、それを共有してから各自の仕事に入る。
これは先述したよつに飲食業は拘束時間が非常に長いため、仲間と過ごす全ての時間で、相手への思いやりを持ち、それを通じて人としても成長してほしいという真中が考えで、それをミモザの習慣にしてるのだ。
そして午前8時30分頃から、続々とその日の食材が店に入荷し始める。
他のスタッフたちが、ゆっくり自分を整えているなか、真中と副島だけは仲買人や生産者たちに温かい飲み物を振る舞い、ときに談笑しながらその日入荷した食材の状態を、各素材ごとにチェックする。
これが2人の日々のルーティンだ。
そして店長の盛田も、熱いブラックコーヒーを飲みながらその日の予約状況を確認するほか、仕入れの確認が終わった真中、副島との3人でその日に想定されるコースの内容の確認をする。
また、ミモザには時期は限られているものの笠岩の街を流れる春見川や、山奥にある源命湖(げんめいこ)などで獲れた鮎やウナギ、渓流魚のヤマメやイワナ、シジミなど、さまざな天然の淡水魚介類も入荷することがよくある。
また秋から冬にかけてはジビエも扱うが、なかでも、源命湖のすぐ傍にある輝生沼(きおうぬま)で獲れた鴨肉の味と、その肉質は絶品だ。
そのため笠岩の街にある飲食店の中でも、扱う食材と調味料の数は群を抜く。
ただ、この日の仕入れでは、小さなトラブルが発生した。
春を告げる食材の菜の花が、予定の時間になっても届かないのだ。
時計の針は、すでに朝9時より少し手前を指している。
いつもなら、遅くても20分ほど前に入荷していてもおかしくない。
一方そのころ、店の外では菜の花をいっぱいに詰めた箱を軽トラックからおろし、重い足取りで店の裏手にある、仕込みや仕入れを専門に行う建物の前に近づく1人の男がいる。
(滅多にこんなこと無いんだけどなぁ…。なんでこうなったんだ…。でも、持ってきてくれって言われてるかならなぁ…。)
そうこう考えているうちに、男は扉の前に着く。
「どうかなぁ…。」
自分を落ち着かせるとも、不安とも取れることを呟いたあと、困り果てた顔でドアを開け、その重い口を開ける。
「おはようございます…。遅くなってすみません…。あのぉ…。朝摘みの菜の花なんですけど…。ほんの少し蕾が早く開きはじめてまして…。」
この男は、仲村銀一(なかむら かねいち)という。年齢は40代半ばくらいだ。
彼は、菜の花や春菊など、日本の伝統的な野菜を栽培し、それを笠岩中央卸売市場に卸したり、このように直接契約を結んでいる飲食店のほか、自宅の前に構える直売所で販売をしている。
彼はその家系の5代目だ。
食材とは、私達と同じ生き物であるが、人間よりも気候変動をより敏感に患者るため、同じクオリティーになることはない。
そのため、いつ何が起きてもおかしくないのだ。
真中はそれを知った上で、他の店ではあまり好まない状態でも、あえて持ってきてほしいと頼んでいる。
仲村が来たことに気づき、副島が仕込みの手を一旦止め、笑顔で挨拶してドアの方に向かい、入荷した菜の花をウキウキした様子でみる。
「おはようございまーす。お疲れ様です。遅かったから心配したよー。でも、安心しました。いつも、ありがとうございます。今日のはどんな感じかな?」
箱いっぱいに詰められた、ほんの少し蕾が開きはじめている菜の花と、しばしにらめっこをしたのち、考え事をするように独り言を呟く。
「いちおう、確認してみるか…。」
そしめ副島は、仕込みブースの奥で、先ほど入荷した魚の掃除をしながら、さらに入念に身質や脂ののり方などのチェックをしている真中に向かい、やや大きめの声で問いかける。
「真中さーん!! 今日の菜の花、ほんの少しなんですけど、 蕾が開き始めてますー!! 念のため確認してもらえますかー? お願いしまーす!!」
しかし真中は、それを聴き取れなかったようで、右手に出刃包丁を持ったまま、キョトンとした顔で副島に聞き返す。
真中は魚を捌くときに限り、牛刀やペティナイフだけでなく、出刃包丁や柳葉包丁を多く使う。
「え、何だって? 申し訳ない。もう一回教えてくれる?」
彼は仕事になると、あまりにも集中力が高くなるため、よく人の声が聞こえなくなる。
ただ、基本的にかなりマイペースな性格で、仕事のとき以外はいつもボーッとしている。
それに、あまり人の話も聞いていないこともあって、1日に何度も聞き返すことは珍しくない。
すでに慣れた副島は苛立つこともなく、当たり前のように繰り返す。
「 今日の菜の花、いつもと違うので確認してもらえませんか? お願いします。」
「ちょっと待ってて。すぐ行く。」
それを聴いた真中は不思議そうに一瞬、眉を細める。
そして切りの良い所で魚の下処理を一旦とめて持ち場を綺麗にして、持っていた出刃包丁を定位置に戻してから、すぐに2人のところに向かう。
「銀(かね)さん、おはようございます。」
真中はさらっと挨拶をすませると、菜の花を1本手に取り、全方向から見回してその状態を確認する。
「こんなこともあるんだな…。栽培でも生き物だから考えられるか。で、ほかの子は?」
真中は食材のことを、人のように「この子、こいつ」と言う。
そのまま箱の中を確認する。
そして、その様子を仲村が不安そうに見守る。
通常、美味しいとされる菜の花の蕾は閉じており、蕾が薄ら黄みがかっている。
なぜなら、その状態でなければ菜の花が持つ独特のホロ苦さと、その中にある繊細な風味と甘さを感じられないのだ。
真中は、その味がこの時期にを迎える白身魚の、繊細で上品な香りと甘さとの相性が良いと考えて、頻繁に仲村の菜の花を仕入れている。
しかし今日は、若干ではあるが珍しく、ほとんどが開きかけていた。
ただ真中は、その状態を確認すると、問題ないと言わんばかりに、優しい表情と声色でこの菜の花の可能性を話しだした。
「まだ蕾に張りがあるし、色もそんな悪くないから、うちの店では1軍要員だよ。やり方次第で何とかできる。」
すると真中は副島に聞いた。
「この状態、凛香ならどうする?」
副島が迷うことなく、それに答える。
「私なら炭火で炙るだけじゃなく、特製醤油出汁を噴霧して、香ばしい香りを出しますね。」
それを聴いた真中は、笑顔ではあるが静かな声で言う。
「OK。任せた。」
「わかりました。」
このようなトラブルが起きても2人は動じることなく、副島はいつも通りの返事をする。
そして、この瞬間から厨房が少しずつ慌ただしくなり、調理スタッフたちの緊張も一気に高まる。
なぜなら、普段からミモザの下処理や仕込みなどは繊細さを極める。
そこに、他の店なら使えないと断るような素材でも受け入れるため、それをベストの味と差異を感じさせない仕込みと調理を施すため、より繊細で複雑になるからだ。
特にこの店に入社して間もなかったり、ようやく持ち場を任されるようになったスタッフは着いていくのが精一杯になることがほとんどだ。
過去には、そのプレッシャーに怯み、その日のうちに辞めてしまうスタッフもいた。
しかし、真中はそれを気にせず、この仕事の仕方を変えようともしなかった。
そして真中はそのままの笑顔で、仲村に話しかける。
良い品質の菜の花を収穫できず、届けられなかったという仲村の悔いに寄り添おうとする、彼なりの配慮だ。
「鮮度も良いし、食材としての価値はまだ十分ある。銀(かね)さん、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。ありがとう。」
真中は、この菜の花がどんな料理に生まれ変わるのかが楽しみだと言わんばかりに声を弾ませる。
「今日も新しい何かに出会えそうで嬉しいよ。」
副島は、すぐに菜の花と魚料理の仕込みに取りかかる。
それと同時に前菜担当で、その準備をしていた樺島さくら(通称、さくら)に、一部の前菜を変更するように伝えた。
「さくら、ごめん!! 魚変えるから!! 温菜の、黒豚のしゃぶしゃぶ仕立てから別のにに変更して!! あと冷菜は盛り付けを1つ追加して!!」
それを聞いた真中は、すぐに違う指示を飛ばす。
「ダメだ。今日は寒いし、良いカブが入ったから、まずはアミューズでカブと真鯛のポタージュを、吉野仕立てにしてくれ。それからいつもの流れに入る。あと、パスタを変えるから温かい前菜はそのままで良い。」
その指示を聴いた樺島は、わずかに戸惑うものの、すぐに返事をする。
「わかりました!!」
副島もすぐに返事をして、自身は内容を変更したメインの1つである、魚料理の仕込みに取りかかる。
そして真中は少し、仲村と話しはじめた。
ただ、その表情は優しい雰囲気ではあるが、先ほどと違い目の奥は真剣そのもので、隙がなくなっていた。
「銀(かね)さん、いつも旬の食材を届けてくれてありがとうございます。月末になるけど、今日の分も正規の値段でお支払いしますね。」
仲村は困惑したように言う。
「真中くん…。さすがに今日のは値引きするよ。」
真中も何か腑に落ちない様子で説得するように話す。
「銀さんのプライドわかるよ? でも、仕方ないんじゃない? いくら人間が管理してても、生き物なんだから。それに 俺が銀さんの野菜を使いたいんだからさ? もちろん俺の考えは、料理人では有り得ないのは自覚してるよ?」
仲村は頭を抱えるように、困り果てた顔をする。
次に真中は、少し声のトーンを落とし、その言葉にはどこか悲しみのような感情が滲み出ていた。
「でもさぁ…。なんで優等生じゃないとダメなわけ? みんな同じ手間かかってるし、同じ味だよ? それに生産者の人たちが潤ってくれないと、俺たちの仕事なんてないも同然だからさ。もちろん無理にとは言わないけど、できるなら正規のお代を受け取ってくれないかな?」
それを聴いた仲村はより困った顔になり、しばしの沈黙のあとに答える。
「いや。ダメだ…。その気持ちだけで十分だよ。ありがとう。でも、少しだけ値引きさせてもらうよ。」
真中も考えるように少し俯くも、納得したのか穏やかな表情に戻り、仲村に礼を言う
「わかりました。じゃぁ、それでお願いします。今日もありがとうございました。」
しかし仲村が帰ろうとしたとき、真中は何かを思い出したように声をあげる。
「あぁ!! そうだ、そうだ。朝早くて寒かっただろうから、これで何か飲んでください。」
そういうと真中はポケットの中の財布から小銭を取り出し、仲村に渡す。
仲村も安堵したような表情になるが、どこか申し訳ないような顔で言う。
「本当、いつもありがとう。じゃぁ、また明日よろしくお願いします。」
真中も笑顔で手を振り、仲村を見送った。
彼にとって料理を創ることは、働く側や食べる側のゲストだけでなく、陰で支えている生産者や仲買人がいるからこそ、この仕事が出来ると常に考えている
そのため真中は、当たり前のように生産者や業者たちを大切にしており、これもいつもの光景だ。
一方、副島の指示を聴いた樺島が、返事をしたのち、その流れで尋ねる。
「わかりました!! じゃぁ、冷たい前菜はメバルの炙りカルパッチョのままで大丈夫ですか?」
しかし、それを聴いていた副島は間髪入れずに厳しく叱った。
「前菜任されて、どれだけ経ってると思ってるの!! 考えなさい!! ここは家や学校じゃないんだよ!! わかった!?」
「は、はい!! わかりました!!」
目を大きく開け、萎縮した表現で返事を返す。
普段はどんなに忙しくても笑い声が響くミモザが、自主性や思いやり、配慮が足りないときなどは、叱責する声が上がることもある。
この店では、若いスタッフには徹底的に考えさせ、指示がなくても自分で仕事や課題を見つけられる人材も育てる。
そのため、あえて仕事の工程をすべて教えることがもなく、叱られた理由も話すことはない。
ときに叱責を受けることは、自ら考え、工夫できる人間になるための癖づけであり、そのためには必要なことで、決して避けては通れない道だと、真中は思っている。
普段は樺島のことを妹や我が子のように可愛がっている真中も、このような時は様子を黙って見ているだけで、彼女を助けに行くことはない。
そして真中は、担当する肉料理の持ち場に着いてすぐ、パスタを担当する大島巧(通称、巧(たくみ))に真中は指示を出す。
「巧、悪いけど今日のパスタ、ソース変えてくれないか? 内容はお前に任せるから。」
それを聞いた大島はすぐに返す。
「でしたら、キノコのミンチソテーと、笠岩の地鶏のもも肉を使ったクリームソースで行きたいんですけど。それで、いいですか?」
それに聞いた真中は一瞬考えるも、すぐに納得して答える。
「わかった。ただ、もし何かあったら遠慮しないで言ってこいよ? いいな?」
「わかりました。ありがとうございます。では、それでいきます。」
大島がすぐに返事をして、仕事に移る。
大島が言ったマッシュルームのミンチソテーとは、みじん切りにしたブラウンマッシュルームと椎茸をラードでカリカリになるまで炒め、そこに刻んだパセリを入れて焦がさないように注意しながら、水分がなるまで煮詰め、仕上げに塩コショウで味を整えたものだ。
この店では、素材の個性を引き出すための下処理と仕込みの他、昆布や鰹節など出汁を取るための素材といった、味の基礎になるものには、非常に強いこだわりを持つ。
しかし、だからと言ってブランド食材や高級な調味料を使うことを好まない。
食材と素材は、各専門の業者や仲買と契約しており、必ず旬の食材を仕入れる。
しかし、香酸果汁などの、一部の調味料以外はすべてスーパーでも揃えられるものばかりだ。
それに、仕入れる食材も笠岩の人々だけでなく、日本人であれば、ごく一般的で馴染み深い食材だけを多用し、それのみを使って思い出に残る1皿を提供することが、ミモザの理念である。
これは真中が自分だけでなく、全スタッフにも求める、料理に携わる者としての矜持とも言えよう。
その意味とは、料理人と呼ばれる人々の仕事をしていれば、自ずと食材と素材を選ぶ目が養われてる。
それは至極当然のこと。
しかし、それよりも重要なことは、いかにして素材の個性を100%以上に引き出すか。
それは下処理や仕込みといった、この仕事の基礎に凝縮されている、素材の本質を理解し習得したうえで、必要な時に、必要なスキルを使いこなすことを当たり前に行うこと。
そのため、入荷した素材が最低限の鮮度を保っており、そこに生産者たちの思いを感じたなら、産地がどこであろうと、魚の締め方がどうであろうと関係なく受け取り、その手間に見合った代金を支払っているのだ。
それを特別とは考えず、当たり前と捉えているからこそ、真中は料理人を1人のアーティストだと例える。
しかし真中は、樺島が困っていることを、ただ単に放っているわけではない。
困難な状況から、どれほど学ぶか。
レシピも盛り付けのルールもない店で、1皿を彩るというプレッシャーを、どう味方につけるかを見ている。
そして真中は、ミモザで働く若いスタッフの中で、特に樺島に期待を寄せている。
だからこそ、安易に助けに行くことはしないのだ。
ただ、樺島は20代半ば頃で、物静かで芯が人一倍強く、洞察力と観察力の深さと速さは長けているものの、同じだけ繊細で不器用な部分も持ち合わせている。
その性格もあるため、真中は普段から彼女のことをかなり心配しており、今日もその様子を見つつ自身の仕込みをしながら呟く。
「さくら、最近、特にビクビクしてるな…? どうしたんだ…?」
ミモザでは、たとえどんなにキツく叱ることはあっても、決して怒ることはない。
また、叱ったあとにほったらかしにすることもない。
注意を受けたのが若いスタッフであれば、真中をはじめ、先輩スタッフの誰かが必ず遠巻きその様子を見ている。
すぐに気持ちを切り替えた真中は、自身の仕込み作業をしながら、次にパティシエの芳田寛次(通称、寛次)に指示を出す。
「寛次、今日は流れ変わってるから、デザートは気をつけてくれ。頼むぞ。」
その言葉に芳田はすぐに返事をする。
「はい。わかりました。」
全体の様子を見て、一通りの指示が出し終わった真中は、再び自身の仕込みに集中する。
そして、肉を加熱するための熱源や、盛り付けかたなどの答えを、自身の中で探すように呟く。
「今日はコースの構成を変えたからなぁ…。とりあえず出汁と調味料を見てみるか…。」
ミモザでは、西洋料理で使われる出汁とは別に、日本料理で使われる出汁の素材や和の調味料などを、かなりの数を常備している。
また、出汁の摂り方には調理下処理と同様に強いこだわりと、工夫があり、それは真中が「出汁が究極の料理である」と考えているためだ
出汁はどの業態の料理でも基礎と言われており、そこに関してはミモザも同じだ。
しかし、これほど豊富な種類の出汁を、使っている店は、おそらく他では見当たらないだろう。
そう思い、真中が冷蔵庫に向かおうとしたとき、芳田が少しかんがえこむような表現のまま、駆け足でデザートの変更を伝えに来た。
「真中さん。肉のメインから似た色が続くので、ガルニを足すことにします。」
それを聴いた真中は、笑顔で返事をする。
「わかった。うちにはレシピや、盛り付け方のルールはない。それにお客様が感動する新しい料理を創れるなら、寛次の好きにしてくれ。もし、それで失敗しても、それは俺の責任だ。」
「はい!! ありがとうございます!!」
真中の言葉を聴いた芳田は、嬉しくも、この言葉の重みを噛みしめるような表情で返事をして、再び自身の持ち場に戻っていった。
そして、再び肉料理の準備を始める。
少し樺島が気になり、そちらに方に目を向けると、コールドテーブルからボタンエビらしきものが入った容器を出していた。
それを見た真中は、何かを感じたのか少し険しい表情になり、自身の手を止めてすぐに様子を見に行く。
樺島の調理台の上にはやはりボタンエビがあった。
真中はなぜこれを盛ろうとしたのか、その理由を訊くと、樺島は困惑しながらも返事をする。
「昆布締めをしているので、昆布の上品な香りだけでなく、ねっとりとした甘さと強い旨味を感じられますし、食感も生のものとは違いますので、それも楽しんでもらいたくて、選びました…。」
それを聴いたとき真中は、語り口調は静かだが、樺島にかなり厳しい事を言った。
「さくら。今まで俺たちの仕事ちゃんと見てたか? 半年以上やって、何も工夫してないな。これなら居ないのと同じだ。どけろ。」
そういうと、その調理台から離れるように言い、入れ替わるように真中がそこに立ち、おもむろに前菜のコールドテーブルの扉を開けて、ボタンエビが入る容器を戻し、他に何かを出そうとしている。
樺島は少し目を落とし、その場を離れようとした。
それに気づいた真中はその手を止め、珍しくやや強い声色で樺島を自身の元に戻した。
「どこ行くんだ!! 戻ってこい!!」
ミモザの教育や指導の仕方は今の時代には逆行しているかもしれない。
しかし人は、時に厳しく注意されることで、我に返ったり、初めて自身を振り返る時もある。
また、それを成長と例える人もいる。
技術という仕事は、繊細かつ鋭敏な精神と思考の両方を使うことが求められるため、その錬磨も他業種と異なるところが多い。
ただ真中は常々、副島や盛田などに、この時が1番苦しく、辛いと話している。
なぜなら、彼は普段から年が離れている若いスタッフほど、我が子や弟、妹のように接し、本当に可愛がっている。
しかし、場合によっては厳しく、冷酷にも似たことを言わなくてはならない。
たとえ相手を、どんなに人として可愛がっても、大切にしていても、そこを履き違えてしまうと最後は誰のためにもならず、お互いに悲しい結末を迎えてしまう事がおおい。
それが仕事と趣味の違いだ。
「は、はい…!!」
真中に叱られた樺島は、一瞬ビクッとして慌てて真中の元に戻る。
その様子を鮫島有希という、1年ほど皿洗いを任せており、近々、樺島と共に前菜を担当することになったスタッフと、ほんの数ヶ月前にホールから厨房に入った陶山和久が心配そうに見ている。
人は、自身が無知無学であると知ったとき、初めて感じる苦しみと恥ずかしさを覚えることが多い。
しかし、その思いは時として人生のスパイスになり、それを経験した人の立ち居振る舞いに深みを与え、その言葉には説得力を持たせる。
恐怖や孤独、葛藤の中で自身を見つめ、好機を掴んだときから、人は輝きを放ち出し、自分らしくなってゆく。
to be continued…
この物語と、登場する都市、人物、団体などは、すべて架空のものであり、フィクションです。
ただ、物語に登場する調理技術や下処理、盛り付けなどの手法やその理由に関しましては実在するものを記載しておりますが、それとは別に、それらを筆者なりの感性で捉えていたものや、経験を元にした調理法も多く登場します。
その場合は、作中でキャラクターたちの経験や記憶として反映させており、それらはすべて本日の解説欄で◆を付けてお伝えいたします。
なお、料理名に関しましては、私が知る限り本作オリジナルのものとなっております。
料理名などを解説欄に記載する場合も◆を付けさせていただきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の解説 ◆筆者独自の感性による考えなどです。
①魚を掃除するとは。
鱗と内蔵を取り、腹の中を綺麗に洗い水気を取るまでの、下処理のことをいいます。
しかし、魚だけでなく、野菜の皮むきや、肉から余分なスジや脂を取り除くなど、すべての食材の下処理を「掃除する」と言います。
②吉野仕立てとは
日本料理に使われる料理名です。
葛粉を利用してスープや出汁に、トロミを効かせたものになります。
◆本作に登場する「カブのポタージュ吉野仕立て」とは。
カブの皮と、白身魚の出汁を合わせた中に、カブの繊細な香りと味を活かすため、1度蒸して味を染み込みやすくしたカブの実を出汁に加え、さっと煮込んだあとハンドミキサーで液状にしたのち、葛粉でトロミをつけ、塩とごく少量の白コショウのみで味を整えた寒い季節限定の料理になります。
③アミューズとは
先付けという意味であり、アミューズから派生したと言われております。
日本料理のコースでは、先つけと言われます。
◆ただ筆者は、このアミューズというものを1皿の料理ではなく、その日、来店してくださったゲストへ、料理人が感謝の気持ちを伝えるために必要な1品であり、食後に供されるデザートと同じくらい重要な意味をもつ1皿だと考えておりました。
④香酸柑橘とは
日本原産の柚子、すだち、カボスなどのように酸味が強いだけでなく、香り高い日本原産の柑橘類全般を言います。
⑤ガルニとは。
ガルニチュールの略で使われる言葉で、主に付け合わせ、添え物を指すフランス語です。
また、ガルニという言葉のみにも、上記と同じ意味があります。
⑥コールドテーブルとは。
調理台の下に冷蔵庫が取り付けられている調理台のことです。
以上で本日の解説を終わります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なお、解説や本編で表現した料理や食材、調味料等の味と香りは、すべて筆者自身が感じたものであり、すべての人が同じように感じるとは限りませんので、ご了承ください。
解説が長くなり、申し訳ありませんでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日も長らくお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。
またのご来店、心よりお待ちしております。
ゆりかごの店 episode1 うつりと @hottori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ゆりかごの店 episode1の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます