「僕」の休日
じゃがりこ
最高の休日
部屋に電子音が響く。自分のものではないと思えるほど重く固まった体に力を入れ、騒がしくなり続ける目覚まし時計たちに手を伸ばす。
いつも通りの朝。
寝ている間に跳ね除けたのであろう窓際で申し訳なさそうにクシャッとなっている薄手の布団を敷き直し、まだ日もささない部屋の中、洗面台へと戸を開ける。丁度歯を磨き終えたあたりで、今日が休日だったことを思い出した。いつぶりの休暇だろうか、ならばもっと寝ていればよかったと昨日目覚ましをかけたままにして寝た自分を恨む。かといってもう一度寝る気は起きないので、朝食を取ることにする。この歳になってやっと食卓に行けばご飯があるということが有難かったことに気づく。自炊は何年経っても面倒だ。まあ面倒と言えるほどまともな物を作ったこともないのだが… いつもの冷凍のご飯と溜め買いしてある納豆に加え、味噌汁を作ってみた。味は悪くなかったがもう二度と作ることはないだろう。
一通り朝食を終えた所でようやく日が上り始めた。早く起きてしまったせいで時間を持て余した気持ちになる。
やることならいくらでもある。使った記憶すらない部屋の掃除に溜まった服の洗濯、テレビの容量を圧迫し続ける録画や買うだけ買った数年前のゲーム、引っ越したばかりの時に少しかじったっきりのギター。しかし、もちろんやる気などは湧くわけもなく、何もせず時間を過ごす。目的もなく冷蔵庫を開け、いつ買ったかもわからないような炭酸の抜けたコーラをコップに注ぎ、机に戻って時計の秒針と睨めっこをはじめた。
数分経った。ついさっきまで何もやる気が起きなかったくせに、いざ、何もしないとなるとどうしようもない焦燥感に駆られた。結局じっとしていられなくなってしまって、椅子から体を起こし押し入れへ向かった。埃のかぶった棚を開け、大学の頃履いていた裏がすり減ったシューズを取り出す。それを履き玄関に立った。そこにある鏡を見て自分がまだパジャマのままだったのに気づき慌てて服の山から上着を引っ張り出した。それを羽織り、僕は家の外に出た。
…財布を忘れた。
とりあえず外には出たものの別にすることもない。何となくいつもの通勤とは違う方向へと歩いてみる。少し歩くと街でも栄えていたあたりに出てきた。前を見ると四階建てのあたかも『趣向を凝らしました!』と言わんばかりの造りの市役所が見えてきた。自分が越してきた頃はこの建物ももう少し明るい空気が流れる場所だった気がするが、今は雨風によって残念な姿を晒している。
僕はそのまま近くのデパートへと歩いた。財布は持ってきたものの数千円しか入っていなかったのでATMへと向かった。慣れない手つきで金を下ろした。自分の預金など気にしたこともなかったので、意外と入っていたことに驚いた。もっとも普段使っている暇などないので貯まるのは当たり前と言えば当たり前だ。
財布に膨らみが戻った所で、『宝くじ』という錆びて茶色くなっている看板が目に入る。まるで客を拒んでいるかのようなその小屋に近づき、中を覗いてみる。僕は小さい頃この宝くじというものに興味があった。もちろん買ったこともその仕組みさえも知らなかったのだが、「当たったら大金を貰える」というのがどうしようもなく興味を引いたのを覚えている。今になってその頃の気持ちが再び湧き起こってきた。別に当てる気も無いが、ちょっと財布に手を突っ込み一万円分の宝くじを買ってみた。子供の頃のくだらない夢を叶えているようで、なんだか楽しかった。買ったからには当ててみたい。一枚ずつ丁寧に確認していくと、意外にも十数枚で一万を越してしまった。なんだかつまらなくなったのでそこらに転がっているホームレスに残りを全て渡してしまった。
店内へ足を進めると、まるで雑に絵の具を塗りたくったような色彩の服や雑貨が僕を迎えた。とりあえず店内を歩き回ってみた。靴屋の前で子連れの家族が目に入った。去年の年賀状を思い出す。大学の頃の友人は皆結婚していて、僕は返したことすらないのに、毎年きっちり年賀状を送ってくる。同じ歳の同じ人間で何故ここまで違うのかなど考えたくも無い。数分歩いたが、あまりにも煩い色たちに押し潰されそうで、おもむろに目の前にあった 服を手に取り、デパートを出た。少し歩いた先にあった路地裏でそれに着替えた。パジャマをもっていくのは面倒だと思ったのでそのままそこに置いてきた。
デパートを後にしたその足で床屋へ向かった。最後に髪を切ったのはいつだろうか。床屋は意外にも空いていた。僕は椅子に座り、鏡を見て寝癖を直していなかったことに気づいた。流石に赤面した。髪や髭を綺麗に整えられた顔を見て改めて顔だけはそこまで酷くは無いことを自覚する。しかしいくら顔がまともでも中身がなければ人間はダメだ。僕は幼い頃から人と話すことがからっきしで、初対面はもちろん、仲のいい友人にまではっきり話せないような男だった。大学時代の友人はそんな自分を理解してくれる唯一の人だったと思う。床屋を後にした僕はどうしようもなく彼らに会いたくなって、1番近くに住んでいたYの家へ向かった。
Yの家は床屋からそう時間はかからなかった。彼の元へ向かうたびに昔の思い出が蘇ってくるようで楽しくなった。確かYも結婚していて二児の父だったはずだ。家の前まで来てそこにあったはずの建物がないことに気づく。大学時代何度も遊びに行ったあのアパートが。
がっかりした。よく考えれば子供がいればここでは狭いことなどわかるが、引っ越しの連絡など来ていなかった。
自分は何十通と作るハガキの送り先の一人でしかなかったのかと落胆する。親友だと思っていたが、どうやら僕は人の気持ちを読むのも下手らしい。
気分が下がっていてもやはり人間腹は減るもので、仕方がないので店を探した。長い坂を下った辺りにこの街にふさわしい相貌の喫茶店を見つけた。ここも人はいないようだ。夫に先立たれたのか、白髪の女性が一人で切り盛りしている様だ。店の奥の暖炉の横の席に座った。後からつけたようなそこだけ色の違う暖炉から時々パチッパチッと火の跳ねる音が聞こえる。頼んだものを食べ終えるとコーヒーが出てきた。今の会社に勤め始めてからめっきり飲まなくなった、いや、入れる気力もなかったので、とても久しぶりにこの匂いを嗅いだ。一口飲んでみる。驚くほど苦い、あまりの苦さに一口で飲むのを諦めてしまった。コーヒーは苦手ではなかった。いやむしろ好んで飲んでいたほどなのに、自分の体がこの味を完全に忘れてしまっていることに驚いた。残すのも惜しいが、我慢して飲むものでも無いと思ったので店を出た。そしてまた街をあてもなく歩いた。
しばらく街を歩いたがもう昔のような体力もないのですぐに疲れてしまった。丁度駅の前だったので、財布の奥から昔使っていた定期を引っ張り出し、そこまで使う予定もないが入れれる分だけ金をいれた。そのままホームに向かい、当てもなく電車を乗り継いだ。冷房がいい具合に効いていて心地よかった。僕はここで少し眠ることにした。
目が覚めるとトンネルを丁度抜けた山間だった。今自分が何処にいるのか気になったが、それを見てしまってはつまらないと思い我慢した。二つ目のトンネルを抜けると海が見えた。海を見たのは中学以来だ。友達もいない上にカナヅチだったので、海とは昔から縁がなかった。
しかし、その日の僕は違った。あそこに行きたいという衝動に駆られ、次に止まった無人駅で電車を降りた。今まで自分を乗せていた電車を見送る。電車がいなくなると、突然、とてつもない好奇心に襲われた。「線路に降りてみたい。」僕は躊躇わなかった。ひょいっと体を線路に投げ出すと、言いようのない感情が込み上げてくる。そのままホームの横に行き駅から伸びる階段へと歩いた。僕はその時自分が無賃乗車をしていたことに気づいてはいなかった。
海へ近づくにつれて、都会では感じることのない気持ちの良い風に乗せて、潮の香りがした。海へ着くと靴を履いたまま海の中へと進んだ。破れかけた布の隙間からどっと海水が入ってくる。気持ちがよかった。僕はくるぶしあたりまで水に浸かり、雲の隙間から覗く太陽を見た。それから僕は少年のようにはしゃいだ。水切りをしてみたり流木を振り回したり、まるで新しいおもちゃを貰った犬のように遊んだ。不意に写真を撮りたくなった。日がだいぶ傾いてきてそれが海に写り、何とも言えなかった。しかし携帯もカメラもないので諦めるしかなかった。
日が沈むにつれて明日が近づいてくるのを感じた。空高くにはもう月が煌々と光っていて、砂浜を照らしていた。どう足掻いても明日が来てしまうことへの恐怖が湧き起こってきた。またあの生活に戻ると思うと、とてつもなく気持ちが悪くなって大量に吐いた。今日の出来事を忘れる為かのように 吐いた。吐くものすら無くなっても、嗚咽が続いた。
少し落ち着いたので仰向けになって空を見上げた。波の音とともに星空に包まれていく。
消えてしまいたい僕を、月だけが優しく暖めた。
このまま逃げ出したいと思った。しかし生憎そんな勇気も気力も無かった。しようがないので駅へと戻り、今度はちゃんと改札を通って電車を待った。電車に揺られながら僕は思った。会話は苦手だったが、容量は悪くは無かった。勉強もできたし、一般常識くらいならばあった。しかし、働き始めてからというものの、毎日仕事が遅いだの出来が悪いだの悪口を言われ続け、休みすら無い環境で働き続けさせられている。何で自分だけがこんな目に遭わなければいけないのだろうか。
分からなかった。同僚も上司も何故それほど働こうと思えるのか。僕はこれからの自分の生活が手に取ってわかるようで辛かった。そんな気分のまま電車を乗り換えた。
反対のホームへ向かう途中で僕はとても楽しい事を思いついた。気持ちが一気に明るくなった。口角が上がり笑みが溢れる。天才だと思った。今まで生きてきた自分を褒めたいと思えるほどだった。僕は喜んだ。自分を称えた。階段を降りながらとてつもない幸福感に包まれた。
そして僕は、線路へと身を投げた。
「僕」の休日 じゃがりこ @Jyaga-riko
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