優しい名残

はーと

本編

 虫も殺せぬ今村が奈緒を裏切った一年後、突如、奈緒が今村の目の前に現れた。

 幸か不幸か、その時今村は仕事中だった。人生を決める試験に挑む四十名の男女を見守る……これが、今村の仕事だった。そして、四十名の中に奈緒がいた。

 奈緒、なぜだ。なぜここにいる。今村は喉元まで出かかった声を押し戻した。汗が噴き出し、下を向くだけでメガネがずり落ちそうになった。

 許してくれ。問題用紙をめくりシャープペンシルを動かす奈緒に、今村は心の中で詫びた。奈緒のことを忘れたことは一度もなかった。何もいわずにいなくなって本当にすまない。でも、どうしようもなかった。俺だって、奈緒と離ればなれになるのは嫌だったんだ。

 そんな今村に見向きもせず、奈緒は試験に立ち向かっていた。肩まで伸びたサラサラな髪が、エアコンの風で揺れていた。切れ長の目と、細く長い腕。最後に会った日と比べて、少し痩せたかもしれない。念のため、もう一度手元の「受験者リスト」を見た。竹上奈緒という文字は、現実を正直に伝えた。「うそをつくのは人間だけ。紙はうそをつかされる。いつだって、紙と文字は正直だ」という自分の口癖が頭の中で反響した。

 まさか、奈緒は俺を追ってきたのか……心臓の血管が、スティックを握った。左心房と右心房をたたいて刻んだエイトビートは、今村の血を熱くした。だが、血はすぐに冷めた。いつの間にか不穏な空気が充満したような感覚に襲われたのだ。周りを見回すと、何人もの受験者が、今村を見上げていることがわかった。今村が立ち止まったことで集中が途切れてしまったのか、どの目にも不満が溶け込んでいた。今村は平静を装い、血管からスティックを取り上げた。

 足を踏み出し、「受験者リスト」を一枚めくった。今村のちょうど斜め前……奈緒の真後ろに座る女が、示し合わせたかのように手を止め、顔を上げた。今村は「受験者リスト」に貼られた写真をチラリと見て、また一歩進んだ。「写真照合」という業務で、主に替え玉受験を防ぐことを目的に行われていた。だが、替え玉受験など、よほどのことがなければ起こらない、だから真面目にやるなんてバカバカしい……そう考える試験監督は多かった。しかし、今村は違った。いわれたことは必ず守る。これが信条だった。スポーツ刈りをした丸顔に黒縁メガネ。ベルトに乗った脇腹のぜい肉。遠目に見れば浮き輪にすっぽり入ったかのように見える身体つき。これらの外見も手伝って、今村は「真面目人間」というレッテルと共に生きてきた。

 全員の照合が終わり、「受験者リスト」を教卓に置いた。試験時間は残り三十分。同じ空間に奈緒がいる。その事実が今村の中に、ある決意を生み出した。奈緒と、話がしたい。

 突如、浅黒い腕が伸びてきて、書類の束に青い付箋を貼った。今村の思考が止まった。顔を上げると、上司である岸本の険しい顔があった。長い髪をウェーブ巻きにセットし、細身でパンツスーツを履きこなしてキビキビと動く岸本が、今村は苦手だった。今村は慌てて付箋を手に取った。

 『各受験者を回るスピードが速いように感じました。しっかり照合しましたか?』

 ……あ、そんなに速かった?目と仕草で岸本に謝った。岸本は応えず、前に向けてあごを突き出した。しっかり監督しろ、ということらしい。今村はもう一度頭を下げ、素直に後ろに立った。各会場に配置される試験監督は、原則二名。教室の前後に一名ずつ立つ決まりとなっていた。

 さて……このまま試験が終わったら、俺は解答用紙を回収して本部に持っていくことになる。この教室に戻ることはない。そうなると、奈緒と話すことは永遠になくなる。何としても、この教室内で、奈緒と話をするチャンスを掴まなければ。

 テキパキとした足音がして、我に返った。一番後ろに座る受験者が手を挙げており、岸本が歩み寄っていた。そして、腰を落としたかと思うとすぐに身体を起こし受験者の机の上に何かを置いた。筆記具を落としたようだ。受験者は岸本に会釈し、再び問題を解き始めた。教室の前に戻ろうとする岸本だったが、足を止めて今村を振り返った。ちゃんと仕事をしろ……そういわれているような気がして、今村はもう一度頭を下げた。岸本の冷たい視線から解放され、今村は教室全体を見るフリをしつつ、奈緒を見つめた。

 考えろ。奈緒と話をするチャンスは……まず、トイレ退室だ。トイレにいきたいという受験者が出た場合、試験監督がトイレまで付き添う決まりになっていた。万が一にも、奈緒がトイレ退室を申し出た場合、それは一世一代の大チャンスとなる。

 だが、そう簡単にはいかないだろう。まず、奈緒が手を挙げたとして、それに今村が対応できるとは限らない。奈緒の席は教室のちょうど真ん中……距離的には、今村からも岸本からも同じくらいの位置にいた。岸本が先ほど見せた俊敏さに今村が勝てる保証はなかった。そして、仮に今村が勝ったとしても、奈緒に付き添うべきなのは女性である自分だと考えた岸本が、チャンスを横取りする危険性もある。

 中途半端な鈍い音がした。今村はさっと顔を上げた。案の定、後ろのドアに一番近い席の受験者が手を挙げていた。ここぞとばかりに今村は駆け寄った。受験者のカバンのそばに転がったシャープペンシルを見つけ、素早く拾った。通常業務をしっかり遂行することで、岸本からの信頼を回復する。それが作戦成功に大きく繋がる。そう考えた今村だったが、肝心の岸本は、今村のことは歯牙にも掛けない様子で受験者に目を光らせていた。

 今みたいに奈緒が筆記具を落としてくれたら……奈緒の席まで歩き、筆記具を拾って机に置くことで、奈緒と今村との間の距離は短くなるだろう。奈緒が今村を思い出すかもしれない。幸い、今日は昔使っていた香水を手首に振りかけていた。かつて、今村と奈緒は顔を合わせる度に横並びで座っていて、今村から漂う香水の匂いに奈緒はよく反応していた。決して珍しい香水ではないが、匂いで気付いてくれるかもしれない。そして、今村を恨んでいなければ……試験終了後、何らかの形で、奈緒からコンタクトをとってくれるかもしれない。

 今村は手首を耳たぶの裏にこすりつけた。そして、机間巡視を装ってゆっくりと奈緒の席へ歩き出した。緊張が足の裏に染み出すような感覚に襲われた。

 意味もなく受験者の横に立ち止まることは許されない。奈緒の真横に到達した今村は、さりげなく立ち止まり、匂いを振りまくため腕と顔を少し動かした。しかし、奈緒は反応しなかった。これ以上立ち止まるわけにはいかない。しかし、奈緒の真横に立てるチャンスもそうそうない。葛藤する今村だったが、いつの間にか隣に岸本が立っていることに気付き、思わず後ろに下がった。眉をひそめて今村を睨みつけた岸本は、奈緒の机の上に目を移した。奈緒が手を止め、顔をわずかに動かした。まずい。奈緒がこちらに反応を示すことを望んだ今村だったが、今度は奈緒の気が散ってしまうことを恐れ始めた。岸本を「定位置」に戻さなければ。岸本の顔の前に手を差し出し、教室の前方へいくよう促した。岸本は奈緒をチラチラと見ながらも、今村に続いて教卓の後ろに戻っていった。

 「定位置」に戻るなり、岸本は付箋を通じて今村に詰問した。実際のところ、文面は非常に穏やかであったが、付箋にペンを走らせる手の動きは岸本の荒れ狂った心を表していた。

『あの子に何かあったんですか?』

 付箋を受け取った今村は、つっけんどんに差し出された付箋に弱々しくペンを走らせた。

『いえ、何もありません。ご迷惑をおかけして申し訳ありません』

 岸本はすぐに返事を書いた。

『本当ですか?』

 岸本の怒りは、文章の長さに反比例しているに違いない。これ以上怒らせないよう、今村は返事を練った。余計なことは書かず、シンプルにいこう。その間、奈緒が手を挙げる気配はなかった。

『はい、本当です』

 今村の策が裏目に出たのか、岸本の目が大きく見開かれた。岸本が折れんばかりの力でペンを握りしめたその時。奈緒の列の一番後ろに座る受験者が、高々と手を挙げた。

 今村はすぐに彼へ駆け寄った。岸本から逃れるため、その一方で岸本の信頼を勝ち取るため。相反した二つの狙いを携えて、受験者の机の横に膝をつき耳を傾けた。遠慮がちな声が聞こえてきた。

「お腹が痛くて……」

 なるほど、ならば急いでトイレに……トイレに?

 今村の中で黄色信号が点滅した。ここで彼をトイレに連れていくとして、その間に奈緒もトイレ退室を申し出たとしたらどうなる?脂汗を流してこちらを見上げる受験者をよそに、今村は躊躇した。いや、待て。わずかに残った冷静さと良心が、今村を柔軟にした。岸本が奈緒をトイレに連れていくならば、この教室には試験監督がいなくなる。それを岸本が許すとは思えなかった。

 いきましょう。手で合図し、今村と受験者は廊下に出た。


 どのくらい経ったのだろう。今村は男子トイレの入り口を見つめていた。受験者が出てくる気配はなかった。

 時計の秒針が進み続けた。昔だったら、あと十五分あるなら、カップ麺を作る時のあの三分が五つもあるのだからこれほど長いものはないと本気で考えていた。だが、大人の階段を登った今、十五分がどれほど短いかを痛感していた。早く出てこい。何をしている。今村の背後の窓から、わずかに陽が差し込んだ。パンパンに張って波打ったスーツに陽が当たり、今村の体温を上げた。

 今村の視界の右端に、二つの目が浮かんだ。驚いて顔を動かすと、受験者が、手をハンカチでふきながら今村を見つめていた。今村と受験者は、示し合わせたように会場への道を全速力で歩いた。人生がかかっている……この意識が二人を結びつけた。

 会場に着いた。後ろの扉を開け、受験者を先に通した。彼は律儀にお辞儀をして、席へそそくさと戻っていった。今村も会釈をして、受験者を見送った。川の流れのように滑らかだった。

 だが、今村は違和感を覚えた。教室が、妙に広く感じた。数日ぶりに家に帰った時に引き出しという引き出しが全て開いている光景を見たかのような感覚だった。思わず、前を見た。そこにいたのは岸本ではなかった。さらに、奈緒が消えていた。


 奈緒と最後に話したのは、三月の、もうすぐ暖かくなるといわれた時期だった。

 その日、奈緒は今村を見つけるや否や、友達に話しかけるような手軽さで話しかけてきた。

「今村先生、今日どこ?」

 奈緒のラフさを気にもとめず、今村は手元のバインダーに挟まった座席表を指でなぞった。

「えっと、Aの四。一番入り口に近いとこ」

「おっけー」

「あ、この前の模試の結果表がきてるから」

「えー見たくない」

 舌を噛んだような顔をした奈緒だったが、おとなしく、衝立で作られたブースへ入っていった。

 駅前に居を構えるこの塾で、今村は三年間アルバイトをしてきた。学校の教室の半分くらいの広さの部屋に、入り口を背にして左右に授業用のブースが、各ブースの間の通路を抜けて一番奥に講師用の机と棚が、それぞれ置かれていた。

 奈緒は、ブースの中に置かれた机に身を投げ出していた。そんな奈緒の眼前に、今村は模試の結果表を優しく置いた。奈緒は体勢を変えず、人差し指と親指で結果表をつまみ上げ、一瞥した。そして、結果表を放り投げ、机に突っ伏した。

「もおーうそっていって」

 奈緒の席の横に置かれた丸椅子に、今村は座った。

「うそをつくのは人間だけ。紙はうそをつかされる。いつだって、紙と文字は正直だ」

「……何それ?」

「俺の座右の銘」

 チャイムが鳴った。今村の左隣、つまり奈緒の反対側の席に、スポーツバッグを提げた男子生徒……安藤が座った。講師一人に生徒二人の個別指導を売りとするこの塾で、二人の生徒に挟まれながら、今村は英語と数学を教えてきた。だが、そんな日々も、今日で終わりだった。明後日は、もう四月。一度に教える生徒の数が四十人に増える。

 今村は安藤と挨拶を交わし、宿題の丸付けをするように指示した。そして、右隣の奈緒の机の端をトントンとたたいた。

「ほら、来週から三年生になるんだろ」

「ならなくていい、ずっと中二でいい」

「はい、それは聞き飽きた。ほら、宿題の丸付けをして」

「ね、今度からさ、数学も受けたいんだけど」

「ん、じゃあ授業終わったら室長先生に相談してみて」

「……数学も今村先生がいいなぁ」

 今村は何もいえなかった。うそをつくのは人間だけ。

「……とにかく、丸付けをして。よし、じゃあ安藤くん、ちょっと見せてくれる?」

 奈緒に背を向け、安藤のノートを手に取った。バツがついたところを探したがなかった。どちらかといえば、安藤は教えてもらうより自分のペースで問題を解き進める方が好きだった。そういった生徒は少なくなく、講師としては楽をできるから歓迎していたが、それなら塾に通わなくてもいいのではないか、授業料をもらうのが申し訳ない……と、後ろめたさも感じていた。だが、最後の日くらい、安藤に甘えてしまってもいいだろう。

 今村は安藤に背を向けた。真っ白なノートを開いた奈緒が、居心地が悪そうな顔をしていた。

「あーまた宿題やってない」

「違うもん!」

 奈緒はフグのような顔をして、ノートの左上を指した。英文が一つ、申し訳程度に書かれていた。

  I agree with this opinion.

 日本語にすると「私はこの意見に賛同します」……この意見とは、「プラスチック製品を使う量を減らすべきだ」という、どこかの科学者の意見。これに対して、反対か賛成かを理由も添えて英語で書くという宿題を奈緒に出していた。

「えーと……県立高校の英作文だったよね、これ。確か最低条件は……」

「三つ英文を書くんでしょ!思いつかなかったんだもん……」

「ったく……」

 だが、今村は嬉しかった。たった一文ではあるものの、奈緒がこれだけのものを書けるようになったことが本当に嬉しかった。

 あれから一年か。時の流れに慣れない今村は、一年前の奈緒と今の奈緒を結びつけることができなかった。入塾した頃の奈緒の英語力は凄まじかった。「私のカバン」と書かせてみれば”Mai bagu”という宇宙語が飛び出し、さらにはTomを「トン」と読む(mとnの区別がついていなかったらしい)という離れ技さえも繰り出し、今村を悩ませた。だが、自分の英語力の低さを恥じ、時には涙すら流した奈緒の姿は、今村を大きく動かした

 まずは中一で習う分野をガッチリ固めたい。だが、一コマ八十分だけで中一の復習を完了させることは不可能。そう判断した今村は、テキスト以外に自作のプリントを用意し、毎週解いてくるよう指示をした。奈緒は欠かさず解いてきた。今村は丸付けをして、コメントを添えて返した。いつの間にか、奈緒も「コメント」を書くようになった。

『単語ってどうやったら覚えることができますか』

『早起きのコツを教えてください』

 今村は返事を書いた。たくさん書けば書くほど、奈緒は喜んだ。振り返ってみれば、単なる自己満足だったのかもしれない。でも、手をかければかけるほど成長していく奈緒に、今村は手応えと楽しさを感じていた。そして、今村も成長を遂げた。母校に頭を下げ、滑り込みで教育実習の申し込みをしたのだった。

 奈緒がシャープペンシルを机の上に放った。

「もうだめ、降参。三文なんて無理」

「そう簡単にあきらめないで」

「だってー、わかんないんだもん」

「じゃあ一緒に書こう。まず、この意見にagree……同意する理由は?」

「んー……いいと思ったから。だって、プラスチック製品って、なんか環境に悪そうじゃん」

「よし。だったら、「なぜならそれはとてもいいアイディアだから」って書こう」

今村は奈緒のノートを手元に寄せ、

 It is because this is very good idea.

と書いた。

「で、もう一つ。これは……一般的にいわれているのが、自分自身が何をするかをしっかり書くことが大事ってことなんだけど」

「うーん……この科学者みたいな人がいうように、ペットボトルを買わないようにするとか、それくらいしか思いつかない」

「じゃあそれでいいよ。私はそれをしたいと言う文にして……」

 I want to do so.

「はい、おしまい」

「え、これでいいの?」

「文法的に間違っていない文を三つ書くことが最優先。これを軸に、肉付けしていくイメージで。内容が伴っていないと減点されるかもしれないし、そもそもスペルミスがあったら取れる点も取れなくなるだろうから注意してね」

「わーありがとう!これ丸暗記する」

「これだけじゃダメだって……」

 もはや、今村の言葉は奈緒の耳には入ってこないらしく、ノートの「お手本」を何度も書き写していた。

 授業終了五分前。授業を終わらせる講師も出てくる。早々と中学三年生の内容に入った安藤は、キリのいいところでノートを閉じ、満足そうにブースを去っていった。そんな安藤の背中に、今村は言葉にならないお礼を投げかけた。そして、今村は奈緒のノートを覗き込んだ。

「よし、このくらいまで進んだなら、残りは

三年生になってからでいいかな……講習お疲れ様でした。頑張ったね」

「うんーめっちゃきつかったー」

 奈緒はノートとテキストを片付け始めた。今村は、息が詰まるのを感じた。心臓の鼓動が早くなった。奈緒が顔を今村に向けた。

「来年もいるよね?」

「え」

「来年もいるでしょ?いるよね?」

 今村は黙った。

「え……今村先生じゃなかったら私、無理だよ。絶対に今村先生がいい!」

「……大丈夫、大丈夫。来年もいるよ」

 奈緒の顔が一気にほころんだ。

「やったー!だって、優花がね、立石先生がシューショク?するからいなくなっちゃうっていって泣いてて。立石先生と今村先生同い年なんでしょ。私、焦っちゃった」

「……なんで同い年だって知ってるんだ?」

「立石先生がいってたって、優花が」

「……そっか。おしゃべりだな」

 本当に、憎たらしいほど立石はおしゃべりだった。

「でもさ、どうして奈緒は俺がいいの?」

 つい、聞いてしまった。

「え、それ聞く?」

 奈緒は明らかに戸惑っていた。だが、今村は無言で待った。奈緒は目を泳がせた。

「……優しいから。私が宿題をやってこなくても怒らないし。虫も殺せないって感じ」

 そうか。今村は肩を落とした。それは優しさじゃないんだよといいかけた、その時だった。奈緒が悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

「半分うそ。私のこと、ため息ついたり、怒ったり、見捨てたりしなかったから」

「そんなの当たり前だろ。生徒を見捨てる先生なんかいやしないよ」

「学校の先生がそうだったもん……私、いてもいなくても同じだったんだ。寝てても、先生はなーんにもいわない。英語が苦手ですって何度いっても、まずはちゃんと教科書を読みなさいっていうだけで……でも、今村先生は違ったでしょ?こんなに熱心な先生、生まれて初めて出会った。ママも今村先生に感謝してるって」

 今村は胸が熱くなった。ありがとう。俺も、君を教えるのが楽しくて、教えることの楽しさに気付いて……教育実習に行って、教員採用試験を受けたんだ。

 塾講師はつらいね。学校の教師なら、生徒が卒業しても、もしくは教師が異動しても、その後もお互いが繋がることを許されるように思えた。でも、なんとなく塾は違う気がした。「週に一回一コマ八十分」だけの関係だからなのか、あるいは生々しくいえば「授業料」ありきの関係だからなのか……塾の中での関係が切れたら、きっとそれっきり。ましてや、俺はアルバイトだ。きっと、このブースから出たら、俺と奈緒はもう会えない。当然、俺と奈緒は単なる講師と生徒という関係であり、その間に他の感情はない。でも、せめて、この子の人生の節目まで関わっていたい。でも、生きるため、生活していくためには、そうしているわけにもいかない。生きる上で大切なことと生きることそのものは、いつもすれ違ってしまうのかもしれない。

「え、優花」

 奈緒がスマホを見て、それから焦った様子でカバンを手に立ち上がった。

「優花が下で待ってるっぽい」

「そっか……じゃあ、数学の件、俺から室長先生に話しとくよ」

「やっさしい!じゃあ、また来週ね!」

「あぁ」

 スマホ片手に奈緒はブースを出ていった。あまりにもあっけなかった。

 うそをつくのは人間だけ。いつだって、人の本音が引き出されるのは、別れの時だけだ。今村と奈緒は、別れの時を分かち合うことさえできなかった。奈緒は、来週も今村がいるとばかり思ってここに姿を見せるのだろう。今村は、奈緒を裏切ってしまった。


 残り五分。一点でも多く点を取ろうと、受験者たちが必死にペンを動かしていた。奈緒がいた席には、問題冊子と、裏返しになった答案用紙が丁寧に置かれていた。椅子の下には、カバンが寂しそうに置かれていた。

 あの時うそをついた俺を、奈緒は恨んでいるのだろう。いや、それは思い上がりだろうか。いい先生だと思ってくれていたからこそ恨むのであって、恨まれるならむしろ本望じゃないか……いや、そうじゃないんだ。

 混乱した今村の耳に、鐘の音が響いてきた。試験が終わった。

「やめ!」

 岸本の代わりにきた田中が、大きな声で合図をした。そして、今村を見た。今村は頷き、答案用紙を回収し始めた。田中が注意事項を読み始めた。

「試験は全て終了です。忘れ物をしないように帰りなさい」

 そう、全て終わった。

「合格発表は、三月十日の午前九時、本校正門横の掲示板を……」

 若い番号が上になるよう、注意しながら、机の間を歩き回って答案用紙を回収し続けた。

奈緒の机の前で、足を止めた。回収してもいいのか。教室の前方をチラッと見ると、田中は頷いていた。良かった。奈緒はカンニングをして失格になったわけではないんだ。安堵して、奈緒の答案用紙を手に取った。

 回収が終わり、全ての答案用紙が揃ったことを確認し、今村と田中は試験会場を出て本部へ向かった。渡り廊下から外を眺めたら、数多くの受験者が続々と正門の外に向かって歩いていた。

「えらいですよねぇ」

 田中が急に話しかけてきたので、今村はたじろいだ。

「はい?」

「みんな中学生なのに、よく頑張っていて」

「……そうですね。彼らと顔を合わせるのは今日が最初で最後なので、ちょっと複雑です」

「あぁ……そうでしたか。次の学校は……」

「県南のA高校です……ははっ、臨任ってつらいですね」

「来年も採用試験を?」

「えぇ。二年連続で落ちているので、開き直っちゃって、全然緊張しないです」

 田中は笑っただけだった。

 職員室の隣の会議室が本部になっていた。答案用紙の枚数チェックをしてもらうのだが、試験が終わった直後で短い列ができていた。今村と田中は最後尾に並んだ。

「開き直る。いいですね、今村先生」

「え、あ、はぁ、さっきの話ですね」

「あの子も、開き直っていればよかったのに」

「はい?」

「ほら、ずっと帰ってこない子がいたでしょう?真ん中の席に座っていた。彼女、緊張して鼻血を出しちゃったみたいで。止まらなくて、ちょうど廊下を通りかかった私を、岸本先生が呼んだんです。そのあと、岸本先生が保健室まで付き添って……」

「鼻血……」

「出す前に兆候があったって岸本先生はいってましたけどね。顔が異様に赤かったとか。で、それを今村先生が気にかけていらっしゃったって、褒めていましたよ」

「……カンニングではなかったんですね」

「まさか……英語、ちゃんと解けてますか?」

「あ……ちょっと待っててください」

 今村は、束から奈緒の答案用紙を取り出した。が、そこで手が止まった。答案用紙の一番下に、英文が三つ書かれていた。

I agree with this opinion.

It is because this is very good idea.

I want to do so.

「あぁ、やはり空欄がいくつか。厳しいかもしれませんね。英作文は……ははっ、私でも書けそうですね」

 田中が鼻で笑った奈緒の結晶を、今村は見つめた。いつの間にか、涙が出ていた。慌ててマスクを上にずらした。

 白衣を着た養護教諭が本部に入ってきた。

「先生方、先ほど鼻血を出した子ですが、無事に家に帰すことができました。お騒がせしました」

 正真正銘のラストチャンス。奈緒が合格しようがしまいが、今村はこの学校を去る。このチャンスを逃せば、二人が顔を合わせることは確実になくなる。田中ならば、枚数チェックを丸投げしても大丈夫だろう。

 だが、今村は動かなかった。本当に、紙と文字って正直なのかもしれない。今村は、英文をつづる奈緒の姿を思い浮かべ、ただ涙を流した。

 一週間後の合格発表で、今村と奈緒が再会することはなかった。

      

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

優しい名残 はーと @smithberg

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ