「告発の行方」

「どうしてそんなデタラメを閣下ご自身で吹聴ふいちょうするような真似まねを!」

「バイトンが裏切り者であるといううわさが流れているのは知っているだろう」

「ぐ」


 ダクローから聞いた話が、ニコルの頭の中で再生された。


「この一週間で起こった変事をつなぎ合わせただけで、かなりの核心かくしんせまっている噂だ……これを放置はできん。しかし、わたし自ら乗り出してそれを真っ向から否定する行動に出れば、噂に真実性を増すだけだ。本当のことだからよりたちが悪い。――ニコル、お前はバイトンにちかったはずだ。バイトンの名誉めいよまもくと」

「そ、それは、確かにかたく誓いました。けれど、それと今回のこれにどういう関係が」

「人の口に戸は立てられん」


 ゴーダム公は断言した。


「人というものは、噂話うわさばなしが好きな生き物だ。みなが噂話をするのを止められず、しかしある噂については口にしてほしくない――この命題にどう対応するか。それで私が出した答えがその『告発文』だ。食堂の中は、どんな様子だった?」

「…………その内容の当事者であるぼくが現れたことで、ほぼ全員の注目を受けました。その噂で食堂は盛り上がっていたようです。もう僕は、食堂で食事ができません!」

「ふむ。期待通りの効果だな。成功と見てよさそうだ」

「何が成功なんですか!」

だれもバイトンの話をしなくなっていただろう?」


 ニコルの口が開いたまま、止まった。


「その『告発文』がされてなければ、食堂の中はバイトンが裏切り者だったかも知れないという噂で持ちきりだったろう。人が集まれば噂話が始まるからな。それより衝撃インパクトの大きな醜聞スキャンダルをぶつけて、前の噂話をばそうという作戦だ。そのためには人々の関心を引ける強烈きょうれつな、同時に人々が好みやすい話題を持ってくる必要がある。わずか十四さい騎士きし見習いと公爵こうしゃく夫人が密会をしているという内容だ。都合がいいことに、その噂には真実性がいくらかある。エメスがお前を猫可愛ねこかわいがりしていることを知らない人間はもう、このゴッデムガルドではいないはずだ」

「僕はそんな立場になっているんですか……情けない……閣下、おうらみ申し上げます!」

「事前に相談もせずに悪かった。バイトンについての噂がこんなに早く生まれて広まるとは思わなかったものでな」


 執務しつむ机の上に組んだ両手を置き、ゴーダム公は微笑ほほえんだ。


「情けないのは私も同じだぞ。私は妻を若いツバメに寝取ねとられた情けない公爵になっている筋書きなのだからな。まあ、心配するな。こんな噂が立ったとしても、お前と私がいつものように過ごしていれば、いずれ噂というものは消える。消えない噂などないからな……」


 その口調だけにはさびしさがただよっていた。


「人は物事を忘れる。忘れることで生きている。……今は人の口のはしあがっているバイトンのことも、いずれ、誰も話題にしなくなる……『黒い』に刻まれている名前はみんなそうだ…………」

「閣下…………」

「しかし、ニコル。私たちは、私たちだけはバイトンのことを忘れん。バイトンもそれで満足してくれるだろう。私たちは真相を知りながら、かれの心をたたえ、記憶きおくし続けるのだ。私もいつか、天の国でバイトンと再会するだろう。その時まで名を覚え続ける……」

「はい…………」


 座っている椅子を回転させ、ゴーダム公は締め切られた窓の外を見た。

 もうほどなく夕方の色に染まる西の空に、眩しい太陽の輝きがガラスを差していた。


「私は当主となって、騎士団の団長となって、任務のために命を落としてきた数百人の名を忘れん。死ぬまで心の中に刻み続けている……だがニコル、お前はその一人ひとりになってはならんぞ。お前が死ぬのは、私が引退してからだ。いいな。できたら、私が死んだあとにしてくれたら助かる。泣かずにすむからな」

「…………はい…………閣下も、僕が生きている間におくなりにならないように……」

「おいおい、私の話と矛盾むじゅんすることを言うな」

「はは…………」


 ゴーダム公は笑った。そんなゴーダム公のみに、ニコルは不器用な笑みを返して見せる。目の前の少年騎士が口元に作って見せた複雑な色の微笑みに、公爵は感づいていた。


「……何か心配か? ニコル」

「……もうしてしまったことは、時をもどせないので仕方ないですが」


 いつもの少年らしくないよどみに、知らず知らずのうちに公爵の身が乗り出していた。


「問題か? 何か不都合なことがあったか?」

「この話、よく奥様おくさまがご承知なさったものだと思いまして……」


 ゴーダム公が、まばたいた。


「奥様は、僕を実の息子むすこのようにあつかってくださいます。本当にがたい限りで、身に余る光栄だと心より思っています。深い愛情をもって接していただけるのは幸せな限りではありますが……奥様は僕に母としての愛情を注いでくださるのであって、間違まちがっても愛人として見ていらっしゃるわけではありません。そういう観点でこの噂は、奥様が心からきらうものとばかり……閣下、いったい、どう奥様を説得なさったのですか?」

「――あ、いや…………」


 公爵の目が左右にれる。それに違和感いわかんを覚えたニコルの心に、嫌な予感がいた。

 強烈に嫌な予感がした。


「…………閣下、まさか…………」


 戦慄せんりつふるえた少年がこめかみに冷たいあせき出させ、いた汗の玉がほおを流れる。同じようにゴーダム公も悪寒おかんに震え、執務室の空気がいきなり重い物になっていた。


「……時間がなかったものでな……」

「と、いうことは、奥様は…………このお話を知らない、と……?」

「まあ、そういうことになるのかな……」

「そういうことにしかなりません!!」


 ニコルは公爵の執務机を両手でたたき、うったえた。


「あの奥様のことです! 烈火れっかごとくおいかりになられるに決まってます! どうなさるおつもりですかぁっ!?」

「私は今から急用で出かける。あとはたのんだ」

げないでください!!」


 ゴーダム公のこし椅子いすの上で浮いたのと、執務机をえるようにしてニコルが公爵のうでにすがったのと――廊下ろうかの方から地響じひびきが走ってくるのが伝わってきたのは、同時だった。

 速度のおそ前震ぜんしんのように聞こえてきたその震動しんどうに、公爵と少年騎士の心と体が固まる。


 二人ふたりが逃げようとする間もなく、重厚じゅうこうとびらがバネでかれた勢いで開け放たれ、あまりの勢いに片方の扉の蝶番ちょうつがいがねじ切れ扉が飛んだ。


「あなたぁっ!!」


 扉がゆかたおれるのと同時に、い上げているかみが天をくほどの怒りを噴き出しているエメス夫人が執務室にんできて、ゴーダム公とニコルの体が同じ角度にひるんだ。


 エメス夫人の怒りの血気が、白粉おしろいの白を完全にしゅに染めている。その怒気どきすさまじさに完全におそれをなして、ニコルとゴーダム公の腰が見事な深さに引けていた。


「あなた!! 騎士団内で、私とニコルについてのとんでもない噂が流れているのを耳にしました!! あなたはそれについて把握はあくしているのですか!!」


 ニコルはさきほど自分が机に叩きつけた『告発状』を回収しようと手をばしたが、エメス夫人の手の方が早かった。


「ニコルもいるではないですか!! ニコル、あなたもこの破廉恥はれんちな『告発状』とやらのためにたのですね!?」

「は、はい、そうです、おくさ――」

「母上と呼びなさいと言っているでしょう!!」

「はいっ、お母様かあさま!!」


 ニコルは直立した。勢いでかかとを鳴らし、敬礼までしてしまった。


「それで、あなた!! この件についてどこまで知っているというのですか!!」


 エメス夫人が両手を執務机の天板に叩きつける。天板の上に置かれているもののすべてが指のはば一本分、ねた。


「う、うむ、それについては今、ニコルから報告を受けたところだ」

「う、嘘吐うそつき!」


 思わず口から飛び出したそのニコルのかすかなつぶやきがエメス夫人の耳に聞かれなかったのは、夫人の次の怒声どせいされただけのことだった。


「ならば何故なぜここで平然とした顔ですわっているのです! これはゴーダム公爵家への挑戦ちょうせんです!! わ……私が、私がニコルに向ける母としての美しい愛を、男女の痴情ちじょうとして見るなど! これ以上の恥辱ちじょくはありません!! 即刻そっこくこんないかがわしい文書を書いたやから摘発てきはつし、らえ!!」

「と、捕らえてどうするつもりだ」


 ゴーダム公は限りなく体を退かせようとしていたが、椅子の厚い背もたれにはばまれてそれ以上逃げることもできなかった。


「決まっています!! 二度とこんな馬鹿ばかげた文章を書けなくなるように、その手の指を全部叩きって落とすのです!!」

「おいおい」


 考えるよりも先に、執務机の上に置いていた手をっ込めたゴーダム公が顔をゆがめた。


「そ、そのことについてはおいおい、沙汰さたを下す。エメス、お前は大人おとなしく待っておくのだ。あまりさわてると噂が広まるだけだぞ。ではな……」

「あなた、どこに行こうというのです!」

「急用だ」


 椅子から立ち上がったゴーダム公はかべけてあった上着にそでを通すと、わざとらしくしか感じさせない咳払せきばらいをして居住まいを正した。


「ではニコル、あとを頼む」

「閣下ぁ!!」


 裏切り者、とさけぼうとしてニコルはかろうじてその言葉をみつぶせていた。

 風の速さでゴーダム公が逃げ出し、あとに残されたニコルの口は歪みきり、口の中は百匹の苦虫を噛みつぶしたあとより苦み切っていた。


「まったく!! こういうことになると全然頼りにならないのですから、あの人は! ――ニコル! 自分にしなければならないことがわかっていますか!!」

「は、は、はい!?」

「なんですかその空気が抜けたような返事は!! 気合いを入れなさい、気合いを!!」

「はい!!」


 夫人の一喝いっかつにニコルの背が伸び、ついでにその反動で足裏が一瞬いっしゅん、床からはなれた。


「今から犯人をさがしに行きます! ついて来なさい!」

「犯人なら今、逃げていかれました……」

「私の権限でゴッデムガルドの全警察力を動員し、犯人を捕らえて必ず仕置きをします! 私たちの名誉を傷つけた罪は、血と、なみだつぐなわせます!! ニコル、あなたにも犯人に一太刀ひとたち浴びせる権利をあたえます! 覚えておきなさい!!」

「かしこまりました!!」

「行きますよ!! ついてきなさい!!」

「はい、お母様!!」


 足を踏みらしながらドレス姿のエメス夫人が執務室から出て行く。流れに逆らうと命がないという予感だけを覚えながらニコルはその背中に続き、もしも真犯人が判明したらどうなるのだろうかという想像を頭の中でしてしまって、それに心から身震みぶるいした。

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