「エヴァンスと、ダリャン」

 執務しつむ室の部屋へや、その窓という窓には厚いカーテンが閉ざされ、廊下ろうかに出るとびらには厳重にかぎがかけられていた。親指と人差し指でようやく厚味を測れる重い扉は、外で聞き耳を立てても中の声をひびかせない。


 今、公爵こうしゃくの執務室で行われていることは、決して外部に知らせることができないものだった。


「まあ、まずは乾杯かんぱいしよう」


 ゴーダム公――いや、かつてエヴァンス坊主ぼうずと呼ばれた元小者の少年であった男は、テーブルの上に並べた小さなグラスのふたつに、琥珀色こはくいろの液体を満たした。


 向かいにすわるダリャンはそれを儀式ぎしきとしてとらえ、終わるまで口を閉ざしている。


「さあ、飲んでくれ、兄ぃ」

「ああ」


 二人ふたりは親指と人差し指だけで持てる大きさのグラスをかかえ、かたむけて、合わせた。


「乾杯」


 キィン、とするどんだ音が響く。それと同時に二人はグラスを口につけ、飲み干した。


「――つぅ、みるなぁ……!」


 凝縮ぎょうしゅくされた味のかたまりに舌を半ばしびれさせ、のどから食道、胃へと酒が降りていく過程を目で見るように味わいながら歓喜かんきにダリャンが顔をゆがめた。


「さすが公爵になると良い酒が毎晩飲めるもんだ。おれも公爵様になればよかった」

「公爵様になってもこんな高い酒は毎晩飲めない。マートン商会の社長……元社長がびの挨拶あいさつとしておくってきたものだ。毒は入ってなかったようでよかった」

「おいおい物騒ぶっそうなこというなよ。それにしても、この一杯いっぱいえないっていうのはよほど悪いことがあったらしいな。ま、俺はその良くないことに対しての愚痴ぐち聞き役なんだが」

「……いつもすまない、兄ぃ」

「いいさいいさ。これも給料のうちさ。それに困っている弟分を助けてやるのは兄貴の務めだ。この高い酒分は聞いてやるさ。で、どんな愚痴だ」

「また例の盗賊とうぞく団だ」


 二はい目を自分で注ごうとしたダリャンの手が止まった。


「夕方ごろに報告がた……。正午頃、例の盗賊団にテルベの村がおそわれた」

「俺の故郷じゃねぇか。そんで公爵直轄領ちょっかつりょう

「あの辺りには警戒けいかい線を張っていた。その警戒部隊と部隊の間をすりけるようにして盗賊団は風のように襲いかかり、わずか十五分ほどの襲撃しゅうげきだった。事前に偵察ていさつが入っていたのか、持って行きやすい高価なものだけが優先されてねらわれた。狼煙のろしが上がって警戒部隊が急行した時には例のように」

「風のように消えたってか」

「テルベの村の代官は、今度このようなことがあれば税を上納しないと息巻いていた。おどしだとは思いたいが……気持ちは痛いほどわかる。高い税を維持費としてはらっている騎士きし団がいざという時に役に立たないとなれば、当然の心の動きだろう」


 二杯目をめるように飲むエヴァンスの顔には、酔いの気配などはなかった。最上質の酒を不味まずそうに飲む暗さがあるだけだった。


「これでもう何十件目か……数えるのもこわくなってくる。盗賊団は的確に我々の動きをすり抜けて襲ってくる。予知能力の持ち主でもいるのか、天空高くすべてを見下ろせる目でも持っているのか。こちらの手を全て読んでくる……」

「そのふたつより現実的なのは、この騎士団に間者スパイもぐんでいるっていうことだな」

戦闘せんとう員だけで総勢四千人、非戦闘員ひせんとういんを加えればそれ以上の人間が動いているこの騎士団で、ひとりひとりを内偵ないていするのは限りなく手間だ。全ての内偵が終わる頃にはわたし寿命じゅみょうきる。対象がしぼれればいいのだが……兄ぃ、あやしいやつを見つけたら知らせてくれるか」

「それはいいがよ、エヴァンス」


 ダリャンは二杯目をちびりちびりと口にふくみながら言った。こちらもまだ酔うわけにはいかなかった。


「俺の内偵はしてないのか」

「…………!? 兄ぃが、敵の間者などと……」

「おいおい、なんでそうおもい込む。三十何年の付き合いだからか? 敵が相手の身内の身内を間者として買収するなんて初歩の初歩なんじゃないのか? いちばん疑われない奴を裏切り者にせよ、というのは常識かと思ってたぜ」


 自分でも意地が悪そうだ、と思いながらダリャンはうすく笑った。


「敵は相手の思い込みをいてくる。俺を疑え。俺だけじゃないぞ。エメスの奥様おくさま、サフィーナお嬢様じょうさまも同様だ。全員を疑わなければこの事態は解決しないぞ」

いやなものだな……」

「まったくだ。自分で言ってて酒が不味まずくなる。話が終わるまでグラスは置いておくか」


 ふたりはグラスをテーブルに置いた。


「内偵させるといっても、その内偵役が裏切り者の可能性すらある。人の心が見えないというのは、とてつもなく難儀なんぎなことだな……最近の騎士団は規模を維持いじするのが精一杯せいいっぱいで、人の選別におろそかな点があるのがいなめない。財政も厳しい。カルレッツのような者を入れなければならないほどだ。それはまあ、昼間にある程度の解決がついたが」

「ダクローは」

「あいつか」


 ダリャンに問われ、エヴァンスはますますひとみくもらせた。


「改心してくれればいいのだが……」

「数少ない一人ひとりだったものな、あいつは」

「数少ないなんていうものじゃない。私が自ら入団試験で共に走ったのは、二人だけだ」

「ダクローと、ニコル…………」


 六年前の光景をふたり同時に回想し、酒のものではない心の苦さに、同時に沈黙ちんもくした。


「――なぁ、ダリャンの兄ぃよ。私は本当に、公爵なんかになってよかったのか?」

「なんでそう思う?」


 根本的な問いを提示されて、ダリャンは苦笑した。今の状況の全てに梃子てこを入れかねない問いかけだった。


「先代の当主様に見出していただき、エメスのお嬢様と引き合わせていただいた。貧乏びんぼう父無ててなし子には過分すぎるお計らいだった……。私はそんな先代の御恩ごおんむくいるべく、今日きょうまでがんばってきた……がんばってきたつもりだ……。しかし、それが今、こんなていたらくだ。私は公爵のうつわには相応ふさわしくなかったのではないかと、そんな声が……」

「そんな声は上がってねぇよ。第一、お前が貧乏な家のせがれの出身だっていうことを知っている人間はもう、この家では俺とエメスの奥様だけみたいなもんだろ。サフィーナお嬢様にも知らせてはいないんだろう?」

「ああ。サフィーナは私がこのゴーダムの家の生まれだと信じ切っている。特に問われもしないから教えていないだけだが……」

「領民にもふるい事情を知っている者は年寄りにいるかも知れんが、口をつぐんでくれているのはお前の人徳によるものだよ。お前は家督かとくいで二十年間、必死に働き必死に戦ってきた。戦いが起こると公爵の立場でありながら、騎士団の先頭に……本当の先頭に立って戦った。そんな公爵はこのエルカリナ大陸を見渡みわたしてもお前だけだ」

「私の自信のなさによるものだ。貧乏な家の小せがれが、運良く成り上がって人間に見合わぬ地位についたと後ろ指を指されないためのな。そういう意味では、私は後ろ指を指される勇気がなかった……怖かったんだ。周りの目が常に怖かった……」


 反射的にテーブルの上のグラスに手がび、エヴァンスはそれを理性で止めた。


「今でもそれは変わらない。酒にげてしまうこともしばしばだ」

「…………」

「……最近、よく考える。十三さいの終わりの日、当主様に呼び出されて騎士団入りをすすめられた時のことを。あの時、騎士団入りを決断しない方がよかったのではないかと。小者のまま、この家の底辺でひたすら雑務ざつむの片付けだけに心をくだいていれば、なやむこともなかったのではないかと。その方が幸せなのではなかったと……」

「俺みたいになるってか。――ま、気楽なのは確かさ。日々、目の前のことに取り組んでりゃ勝手に時間は過ぎるし、飯の心配はねぇし、ねぐらもまあ小さくてきたないが一人住むにはそこそこ快適だ。今更いまさらよめを取る気もねぇし、俺が動けなくなったら最低限の扶持ぶちくらいはくれんだろ? 悩みは確かにねぇな。公爵様のお愚痴を聞いてりゃ、こうしてたまに良い酒にありつけるっていうのは、幸せだな」


 薄い自嘲じちょうの笑いを舌の上で転がしてダリャンは背もたれに体重を預けた。

 対してエヴァンスは、テーブルの上にひじを突き、組んだこぶしの上にあごを乗せている。

 それがほとんど生まれを同じくし、方や小者のまま、方や公爵になってしまった男たちの姿だった。


「――でもよ、俺はエヴァンス、お前さんが公爵になったっていうのは、大正解だったと思うぜ。先代様のご判断は決して間違まちがっちゃいなかったと思ってるさ。お前は領民にしたわれているし、騎士団の中でも尊敬を集めている。元貧乏人びんぼうにんの小せがれだっていうのがうそだと思えるほどにな。……全部が全部完璧かんぺきにできる人間なんていないさ。今は少しつまずいているだけだ。躓いていることにくよくよしているひまがあったら、立ち直ることだけを考えろよ。後ろを見ていたってなんにも解決にはなりゃしないぜ」

「ああ…………」

「それになぁ」


 ダリャンは二杯目のグラスをぐっと空けた。


「お前がそんな愚痴を言い出すたびに思い出すんだよ、俺は。お前のおふくろさんのことをさ。部屋は多少変わっても、十五年間同じように寝台しんだいの上でていることしかできなかったお袋さんだ。俺もよく世話をした……そしてお前のことばかり聞かされたよ。騎士団に入って、毎日のように手柄てがら話を持って帰ってきて、毎年のように出世していく息子むすこを持ってどれだけうれしかったか、ってな……」

「…………」

「お前さんが騎士団に入ってから、お前のお袋さんは毎日ニコニコしていたよ。もう、いつ死んでもおかしくないくらいに病気が進んであちこち苦しいっていうのに、やさしいあまさんみたいに笑ってた。お前さんも、騎士団に入ってからお袋さんの苦しそうな顔を、一度でも見たことがあるか?」

「いや…………」

「俺はお前さんほどの孝行息子を見たことねえ。お前がエメスのお嬢様と結婚けっこんして公爵家を継ぐことになった時のお袋さんの顔といやあ、もう死にかけているのに、だれよりも幸せそうに笑っててなぁ……俺もよく夢に見るよ。その報告をしに二人でお袋さんの元に行った時のことが昨日きのうのことのように思い出されるんだ。お袋さんの、もう骨と皮だけになった手が、この手をぎゅっとにぎってくれた時の感触かんしょくもよ」


 ダリャンは自分の太く筋張った頑丈がんじょうな両手を開いて、なつかしさしかない視線をそれに落とした。

 同時にエヴァンスも自分の手を開き、見つめる。


 ふたりの心の中で、同じ記憶きおくの像が再生されていた。

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