「騎士見習いとしての、仕事」

「君に担当してほしい仕事場はここだよ」


 マルダムに連れられ『仕事場』を案内されたニコルは、眼前に広がるその光景を見て思わずほっと息をいた――屋根は大きく張り出しているがかべはらわれている厩舎きゅうしゃ、それが数十ものきを連ねている景色けしきが少年の前にあった。


「ゴーダム公爵こうしゃく騎士きし団が保有している馬の数は約千二百頭。ひとつの厩舎に二十頭の馬がつながれている。そんなのが六十むね。まあすごいものだね」

「ええ、本当にそう思います…………」


 少し足をばせば、昨日きのうゴーダムこうと入団試験を行った乗馬訓練場に出る位置だ。馬から出る様々なにおいを防ぐため、仕切りのようにえる林の向こうに厩舎の群れはあった。


「君はひとりで一棟ひとむね、二十頭の面倒めんどうを見なきゃならないんだ。一日仕事だよ」

「馬の世話は慣れています。八さいのころから毎日のように見ていましたから」


 馬の体臭たいしゅうふん、飼料やそのほかの食べ物が発する濃厚のうこうな臭いが空気をも湿しめらせているようだ。マルダムはそれに顔をしかめていたが、ニコルにとってはれ親しんだものだった。


「君の家はその……馬を持てるような家じゃないんだろう?」

「知り合いに貸し馬屋の老人がいるんです。その手伝てつだいをする代わりに、タダで馬に乗せてもらって騎乗きじょうの練習をしていました。多い時で十頭ほどを一度に見ていました」

「そうなんだ。……ぼくの実家でも馬は持っているけど、君より世話をしたことはなかったなぁ。もっぱら使用人の仕事だったからさ。君向けの仕事のようでよかったよ。じゃあ、一から教えることはないね?」

「物の在処ありかさえ教えていただければ、大丈夫だいじょうぶです」

「そっか。じゃあ、僕は他の仕事があるから…………」


 マルダムから道具や物資の所在を教えてもらったニコルは、うでをまくって農作業フォークを手にし、厩舎の木枠きわくにつながれている馬たちの列の前をゆっくりと歩いた。


 精悍せいかんな顔をした立派な体の馬が、厩舎の真ん中の道を行く少年を見て興味をそそられ、大きな顔のわきかがやくこれも大きなひとみを輝かせる。鹿毛かげ黒鹿毛くろかげ青鹿毛あおかげ、青毛、栗毛くりげ栃栗毛とちくりげ芦毛あしげ、白毛――様々な毛色をした馬たちが、初めて見る人間に鼻を鳴らしていた。


「みんな、初めまして。僕はニコルっていうんだ。今日きょうから君たちの世話をすることになったんだよ。僕もがんばるから、みんなも僕を信頼しんらいしてほしいな――よろしく」


 目の前の人間が微笑ほほえんで挨拶あいさつするのに、馬たちは特に変わった反応はしなかった。


「じゃあ、早速さっそく仕事を始めるとするか」


 他の棟の厩舎でも騎士見習いたちらしい人影ひとかげが動き、馬の世話をしている気配がある。しかしそのほとんどは最低でも二人ふたり以上の作業で、一棟二十頭の馬の面倒をひとりで見ようとしているのはニコルくらいのものらしかった。


「あの二人が働かないっていうしわ寄せだよね、これは」


 ダクローとカルレッツはかげさえ見せない。マルダムの話からすると、騎士見習いに課せられている作業の義務から完全にのがれているとのことだったが。


「まあいいや、今はこの馬たちの信用を得なきゃ。そうだろう、みんな――ああ、おはよう、レプラー。今日も綺麗きれいな体だね」


 厩舎のいちばんはしにつながれていたレプラスィスがニコルの臭いをぎつけ、ニコルが気づくよりも先に鼻を鳴らして自分の存在を示した。


「よかった。知り合い・・・・がいてくれるとうれしいものだね。まあ、みんなとこれから知り合いになるわけだけど――さて、じゃあみんなの糞から始末するとするか! みんないっぱいして・・くれているね! やりがいがあるよ!」


 表に一輪の手押ておし車を回し、ニコルはまず、わらの上にたっぷりと積もったレプラスィスの糞を農業用フォークで藁ごと車の中に移し始めた。


「これが二十頭分か。世話のし甲斐がいがあるよね、本当――」



   ◇   ◇   ◇



 馬の糞の始末、厩舎の清掃せいそう、馬具の修繕しゅうぜんと管理、馬が病気にかかっていないかどうかの確認かくにん、馬の体の洗浄せんじょう、そしてえさやりと水やり。


 厩舎での仕事は数多く、重労働だ。馬は一日に大きなおけはい分の水をガブガブと飲むし、青草や干し草だけでなく、消化しやすい麦類や豆類などの配分を考えてあたえられなければならない――草だけを食べさせていればいいというわけではないのだ。


 餌だけで、一日に必要な量は約十五カロクラムに達する。しかもこの量を長い時間をかけてみ、消化することになるので、一度に容器にぶちんでおけばいいというものではない。食べっぷりを観察しながら、その都度必要な分を入れなければならないのだ。


 そして馬にも食べ物についてのきらいがやはりある。たいていのものは出せば食べてはくれるが、できるなら食欲が進むように餌の配分を考えてやらなければならない――この管理を二十頭分、頭に入れておかねばならないのだ。


「ジャゴじいさんはすごいよ。馬の世話って本当に大変だからね。君たちはわかる言葉でしゃべってくれないし。わかる言葉で文句を言ってくれたらだいぶん助かるんだけどなぁ……でも、君たちが感情を伝えようとしてくれる仕草は好きだから、いたかゆしだね。あはは」


 ニコルは馬が好きだった。リルルと結婚けっこんするための足がかりとして騎士になる――幼いころ、砂場でふたり一緒いっしょに山を盛りながらわした約つかがあったとしても、馬に対するあこがれがなければこれほど熱烈ねつれつに騎士になりたいと思ったかどうかは、わからない。


 馬もニコルのことを好いてくれるのが、ニコルの馬好きに拍車はくしゃをかけた。気難きむずかしい馬ももちろんいたが、馬は人間の心に対して結局は素直すなおに返してくれる。好意を示してくれる者には好意を、そうでない者に対してはそうでない心を。


 ニコルは今まで、馬に悪意を向けたことがない。だから馬がニコルに好意を向けるのも自明の理だった。


「レプラー! 君だけを特別扱とくべつあつかいするわけにはいかないんだって! わ、服を引っ張らないでよ!」


 となりの馬を大きな|刷毛はけ《ブラシ》でっているニコルに首を伸ばし、レプラスィスが自分にかまえとうったえている――えりそでを軽くんでくるレプラスィスから逃れながら、ニコルは額にいたあせをタオルでい続けた。


 午前の終わりごろから始めた作業は数時間続き、服が汗にまみれ馬の体臭と馬糞ばふんの臭いがみ込み始めたころ、西に下がろうとしている太陽の高度はかなり落ちていた――夕暮れ一歩手前といった気配を見せる空の色に、ニコルはふところ懐中かいちゅう時計とけいを取り出す。


「夕食は午後五時だっけ。一日二食だっていうのは、ちょっと調子がくるうな。朝、もう少し食べてくればよかった――おなかがペコペコだよ」


 今日最後の餌を、馬の前に並べられているそれぞれの容器に投入し、体から湯気が出るほどに汗だくになったニコルは台の上にすわって一息を吐いた。

 これでも今日は楽なのだ。午前の大半は訓練についやされるはずが、ニコルは認証にんしょう式のためにそれを省かれているのだから。


「訓練でくたくたになっているところをこの仕事か。でもこれが騎士見習いなんだ。じゅん騎士に上がることができればこれから解放されるっていうんだから、がんばらないと……ああ、みんな、君たちの世話が嫌だって言ってるんじゃないよ。准騎士になったって君たちの世話はするから――でもちょっと人手はしいかな、あはは」

「おう、なまけてるのか。ずいぶん余裕よゆうだな」


 背後でした声が、ニコルの神経をざわめかせた。


 反射的にくと、どこからいて出たのかダクローとカルレッツのふたりが並んで立っている――汗まみれ藁まみれのニコルとは対照的に、朝の小綺麗こぎれいな姿からまるで変わっていない様子にしか見えなかった。


「…………先輩せんぱい、おつかさまです」

「別に疲れちゃいないけどな」

「まだ全然仕事が終わってないみたいですねぇ」


 最低限の敬意けいいは示さないと――そう立ち上がったニコルの前をダクローとカルレッツがスタスタと歩き、よごれを取り除かれ上機嫌じょうきげんで餌を食み水を飲んでいる馬たちをながめながら視線を左右に振っていた。


「ふん、レプラスィスもいやがる」


 厩舎の端までを歩いたダクローがレプラスィスの前で止まる。静かな敵意をたたえた厳しい目に、餌容器から顔を起こしたレプラスィスが反応してギロリとにらんだ。


「このレプラスィスがお前のものになったっていうのは、本当か?」

「閣下が僕に与えるとおっしゃいました」

「閣下もひどいことをなさるよなぁ」

「……どういうことです?」


 カルレッツのふくわらいを背景にしたダクローのあざけりに、ニコルは聞き返していた。


「このレプラスィスは騎士団でも有名な馬なんだよ。千二百頭もいる馬の中で、騎士団のだれもが名前を知っているくらいにな。気性きしょうは難しいがすぐれた軍馬――そんな馬が、騎士見習いになりたてのガキに与えられる。さて、周囲の人間、特にお前と横並びになっている騎士見習いの連中はどう思うかな?」


 ――嫉妬しっと

 ニコルの頭にその二文字がひらめいた。


「まあ、おいおいとわかるだろ。自分が今置かれている立場がヤバいって。今日入ったばかりの新人の名前がもう口から口に伝わって広まっている――全員がお前の名前を知ってるぜ。嫌なやつの名前としてな」

「……そんな」

「まあ、いいんだ、どうでもいい。そんなことはおれにはどうでもいいんだ」

「それより君にはちゃんと仕事をしてもらいませんとね」

「……仕事はしています。厩舎の仕事は終わりました」

「ちゃんとしてる? 終わりましただ? 肝心かんじんの仕事がけてんだろ」


 ダクローは厩舎から見える一軒いっけんの小屋に似た建物をあごで示した。


「あの水汲みずくみ小屋が、どうかしましたか?」


 この厩舎で使う水を一時的にためておく、建物全部が大きな水槽すいそうになっている小屋だった。ニコルが馬に飲ませていた水はすべてその小屋からんでいる。この厩舎群で馬の世話に使う水はあまりに量が多いために、井戸いどの水の使用が禁じられているのだ。


「おいおい、にぶいなぁ。あの水汲み小屋で水を使ったら、補充ほじゅうしておかないといけないだろ。もうそろそろ空になっている頃だぜ」

「というわけです、ニコル君」


 ダクローとカルレッツが言わんとするその意図を察して、ニコルは血の気が引いていくのがわかった。


「今から川に行って水を汲み、あの小屋を満杯まんぱいにしてこい。何往復になるかな……それが終わるまで食堂に来るんじゃねぇぞ。いいな」

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