「開幕」

 王立エルカリナ大劇場を市民に開放する、というお達しはあったが、厳密にはその全てを開放しているわけではなかった。


 客席の上部、一般席とは隔離かくりされるようにして設置された貴賓席きひんせきへの立ち入りは厳密に制限されていた。そこは貴族階級や、王家に対して大規模な献金を行っている一部の富豪たちの社交の場であったがためだ。


 もっとも、今現在、当の貴族階級は焼かれた領地から領民を保護しながらこの王都に移動させる仕事で、多忙の極致きょくちにあった。そのために、暇を持て余している当主たちはほぼいない。いるとすればその妻子たちくらいのものだ。


 有名な歌劇団による歌劇オペラが開催される時はあっという間に埋まってしまうはずの貴賓席も、もう予定の時間になろうというのに七割ほどしか埋まっていない。そしてその七割が本日の最終的な埋まり方であろう――関係者の誰もがそう思っていた。


 だから、正装したリルルとそのかたわらについたフィルフィナがビルディングの四階に上がった時も、混雑の極みにある下の階に比べてその階は割と閑散としていた。これ以上は人の出入りがないだろうことを受けて、警備と人の整理をしていた人員も下の階に行ってしまっている。


「――もし」


 如何いかにも上流階級の子女、といった落ち着いたたずまいで正面階段を上がって来たリルルとフィルフィナの応対に出たのは、たった二人の警備員たちだけだった。その付近を見渡す限りは、他の人員は見られなかった。


「貴賓室をご利用の方でございますか?」

「ええ、そうです」


 微笑を浮かべ続けるリルルの代わりに、メイド服姿のフィルフィナが応える。その姿に警備員たちは少し首を傾げた。この場にお付きの者が来るとしても、こんなあからさまなメイド服は着てこないものだ。が、かたわらの正装姿の少女に、この少女が貴族ではないという断定もできなかった。


「失礼ですが、身分証を」

「どうぞ」


 フィルフィナは無言でリルルから手渡された身分証を、警備員たちに手渡した。写真入りのそれに書かれた文面に警備員たちは目を通す。


「リルル・ヴィン・フォーチュネット……伯爵令嬢……でいらっしゃいますか……」


 フィルフィナに身分証を返し――返してから、二人の警備員たちはハッとした。

 両手に隠れるくらいの白く小さな鞄を抱くようにしている、目の前のドレスの少女に視線が行く。


 純粋の絹で織り上げられた真珠色の清楚せいそなワンピースドレスをまとい、目を伏せるようにしてそこに立っている少女の顔と名前を、今しがた返した身分証の情報と照らし合わせて、ようやく警備員たちの頭に閃くものがあった。


「――あなたは、お城から連れさらわれた、リルル嬢……!」


 閃いた時には、遅かった。


「さすがにそう結びつけられるだけの知識は受けていたようですね」


 大声を上げようと口を開いた警備員の顔に、フィルフィナの掌底しょうていが真正面から痛打を食らわせていた。一瞬で意識を失った警備員がその場に背中から倒れ、もう一人が顔を引きつらせて回れ右をしたその背中に、エルフのメイドの鮮やかな跳び蹴りが埋まっていた。


 受け身もなしに警備員は絨毯じゅうたんに顔の全部で熱烈なキスをさせられ、そのまま動かなくなった。


「フィル、そんな仕草はこの高貴な場には相応しくないわ。もっと上品にできないの?」

「すみません。今度から気をつけます」

「じゃあ、貴賓室に行きましょうか。適当に空いているところは……と」

「お嬢様、正面の部屋に人気がありません。位置的にもちょうどいいかと」

「そこにしましょうか」


 リルルは地面に転がった警備員にわずかに一礼をして、丁寧ていねいにまたいだ。



   ◇   ◇   ◇



 劇場内は喧騒けんそうに近い大きなざわめきの中にあった。普段この場には縁がない、物見高さが高じた市民たちが大半で、劇場内での礼法とか作法とかとは縁遠い者たちが大半だった。

 が、時計が開演を示す正午ちょうどに近づくと、緊張感が勝って自然と静寂せいじゃくに導かれていく。劇場内を照らしていた天井の明かりのほとんどが落とされて濃い闇に満たされると、五千の客席を埋める市民、客席と同じだけの数の立ち見の市民たちの口には、それぞれに無形の固い錠が噛まされた。


 今は下りて舞台の全てを隠している厚い緞帳どんちょうが上がる瞬間には、これから展開する予想もつかない光景が舞台で展開される――誰もがそう信じ、口の中にたまった固唾を飲むために一言も発せられなくなっている。全員の目が、正面の舞台に向けられて釘付けになった。


 ジリリリリリリリリリリ……!!


 空気を激しく震わせるベルが鳴る。小さな風に吹かれた麦の穂の海のように、市民たちの総勢が微かに揺らいだ。機械音が重々しく響いて緞帳がゆっくりと上がり、幅五十メルト、高さ十五メルトという小さな屋敷が一軒はまるまると収まる広大な舞台が姿を現す。


 その舞台上にしつらえられた装置を目の当たりにして、市民たちに荒波のようなどよめきが上がった。

 それは、巨大な牢獄ろうごくだった。

 書き割りに描かれた背景は、そこが寒々しい流刑地であることを示す冬の光景を表していた。


 冷たい色の石の壁、冷たい色の石の柱、冷たい色の石の天井――そして触ってしまえばその冷たさに凍え凍り付きそうな黒い鉄格子が幾重いくえにもめられ、重犯罪人が一生を過ごすことになる監獄そのものであるということを大道具の全てが主張していた。


 それ以上に市民たちを驚かせたのは、灰色の世界の中で唯一、鮮やかな色をまとうことを許されている中央の一人の囚人だ。紫陽花あじさい色の帽子、紫陽花色のドレスをまとい、短い鎖が壁に固定されたかせに両腕と両脚を固定され、座ることも横たわることも許されない快傑令嬢サフィネルがいた。


「快傑令嬢、サフィネル……!」


 快傑令嬢サフィネルが囚われたという話を信じていない者はいなかったが、この数ヶ月の王都に出没していた彼女が実際に束縛されている姿を見せられるのは、ひとつ違った段階の驚きをもたらした。

 そして、いつもの快傑令嬢サフィネルと決定的に違うことが、ひとつあった。


「待て……顔がわかるぞ」

「顔がわかる? 魔法のメガネをしているのに?」

「メガネはしている。でも、顔はわかる!」


 気を失って体の全部を前に傾け、体重の全てを鎖に預けるままにしているサフィネルの顔には、確かに象徴シンボルともいうべき青いメガネがかけられていたが、見た者の精神に作用して認識をぼかしてしまう効果は欠片かけらもなかった。はっきりとその顔立ちがわかった。


「あの顔、どこかで見たことがある……」

「なにいってるんだ、サフィーナ様だよ、ゴーダムの家のサフィーナ様! よく孤児院の慰問いもんに回られているあのサフィーナ様!」

「なんだって!?」


 劇場内を埋め尽くしている一万人の市民に、薄紙に赤い葡萄酒ワインが垂らされて拡がって行くかのように声が、認識が伝わっていった。客席の最後方に陣取らせられ、あまりの遠さに舞台にいる人物の顔の判別できなくなっている市民たちも、囚われ人の正体を知る。


「あの公爵令嬢サフィーナが、快傑令嬢サフィネルだって!?」

「そんな……いや、でもそういわれれば、納得してしまうものも……」


 地鳴りのように起こる声が、大劇場の優秀な反響設備によって空気の全てを響かせる。ひとつの巨大な洗脳装置そのものにそれは機能して、全ての市民たちが一致する認識を得るという効果があった。


「――正午になった! 約束の時間が来た! 聞いているか、快傑令嬢リロットよ!」


 どこからその声が発せられているのか。朗々ろうろうとした男の声が劇場内に響き渡る。


「姿を現すがいい、リロット! そなたが相棒を見捨てられぬ者であることはわかっている! この場のどこかに潜伏していることも! もしも怖じ気づいて姿を見せられぬというのなら、そなたの罪までこの相棒が背負うことになる! 大人しく言葉に従えば罪をゆるす――姿を現せ!」

「――ご配慮の数々、まことに痛み入るところでありますわ!」


 涼しい春先の風のような少女の声が、この閉鎖された空間に吹き込んだ。

 誰もが知った。その声を知らない者も知った。

 それが快傑令嬢リロット、その人の声であることを確信した。


「このような素晴らしい舞台を用意していただき、厚く御礼おんれい申し上げさせていただきます! 仰せの通り、私は相棒を見捨てはしません! 今ここに参上させていただきます! どうか我が姿、とくとご覧下さいませ!」


 客席を大きく二つにわける、劇場の中央を縦に貫く幅広の通路。そのど真ん中に天井から一線ひとすじの照明が落とされ、一人の少女が二十メルトはあると思われる高さから舞い降りた。

 風が吹く。目に見えて吹く。若草の香りを乗せて、さわやかに吹く。


 その少女を見上げることのできる位置に座っていた市民たちは、心の底から驚いた。

 真珠色の清楚せいそなワンピースドレスを身にまとったその少女は、市民たちが知っている姿では全くなかったからだ。


「お初にお目にかからせていただきます!

 我が名はリルル・ヴィン・フォーチュネット! フォーチュネット伯ログトの一人娘!

 そしてまたの名を――快傑令嬢リロット!

 皆々みなみな様、わたくしめのためにかくも盛大にお集まりいただき、恐縮の極みでございます!

 さあ、ご期待にお応えいたしまして、ここから一世一代の大舞台を演じさせていただきます!

 どうか、最後までお楽しみくださいませ!」

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