「帰還して受ける、第一声」

 風が吹いていた。

 木々が生い茂らせる葉が擦り合わされて鳴る、さざ波のような音を演奏のように聞きながら、背中とおしりがいい具合に収まる木の幹と根っこを椅子のようにし、リルルは座っていた。


 安らかな顔をして目を閉じているリルル、そんな彼女の膝に頭を乗せ、ニコルが眠っている。疲れ切った体と魂を癒やすため、深い深い眠りに少年は落ちていた。


 父と慕っていたゴーダム公、そして騎士団の先輩たちを一度に失った心の傷は深かろう。望まぬ殺戮さつりくに手を染めてしまった衝撃も多かろう。戦えば鬼神の如き力を見せる彼も、その心はやっともうすぐ十七歳になるかという若い心に過ぎないのだ。


「今は……ゆっくり眠って……あなたはよく戦ったわ……」


 緩やかに琴を弾くかのように、リルルはニコルの髪の間に指を入れてその頭を撫でる。

 王都に帰ったらエメス夫人にサフィーナに、ゴーダム公たちの戦死をどう伝えればいいのだろうか、そのことを気に病みながらニコルは、また重い疲れの中に体を沈ませた。


 父の死を覚悟していたとはいえ、実際にその事実を受け取ったサフィーナがどんな反応を示すのか。そのことを想像するとリルルの胸も締め付けられた。彼女にどんな慰めの言葉をかければいいのか、頭の中でいくつも案を浮かばせてはその度に消した。


 同時にもう一つ、気がかりになっていることがあった。


「……私のお父様は、いったいどうしているんだろう……」


 父のログト。


 フォーチュネットの旧領に返り咲き、おそらくは嬉々として領主の座に納まって我が世の春を謳歌おうかしている――はずの父だが、ゴーダム公領に存在する街や村が焼かれて領民が王都に移動させられている状況を見れば、フォーチュネット領が例外であるとは考えにくい。


「お父様も領地を焼かれて、王都に向かわされているというのかな……。……旧領に帰れて一ヶ月と少しくらいなんじゃない。何十年も帰るためにがんばってきたのに、これは酷い仕打ちだわ……」


 おそらくは領地を引きがされただろう父の気持ちを思うと、今度は自分が沈みそうな気分に襲われる。リルル自身はフォーチュネット旧領になんの思い入れもなかったが、父の執念は十二分に理解していた。国王との婚約もそれにまつわる話だったのは間違いのないところなのだから。


「……でも、裏を返せば私が自由になれたっていうことなのかも知れないわ。もう、お父様は領地を失ってしまったんだもの。私が王妃候補から外れたって、なんの遠慮もないということなんだわ。お父様は辛いだろうけれど、これも仕方のないことなのよ……」

「リルルお姉様」

「まずは王都に戻って。サフィーナにことの顛末てんまつを全て話して……その後はどうなるのかしら。私ももう王都で顔を出して暮らせないし、サフィーナの屋敷にいつまでも隠れているわけにもいかないし、落ち着く先を決めなくっちゃ。メージェ島がいちばんいいのかな……」

「リルルお姉様?」

「ねえ、ロシュちゃんもどう思う? ロシュちゃんもメージェ島がいい? フェレスさんとも近くなるし、ロシュちゃんにとってはお里帰りみたいなものなのかしら?」

「私は、ニコルお兄様とリルルお姉様と一緒なら、どこでもかまいません」

「ありがとう。私もみんなと一緒ならどこでもいいの。フィルや、エルフのみなさんたちや……ああ、もうみんなまとめて島に行ってしまえばいいのよ。王都より平和だろうし、ソフィアのママや、サフィーナのお母様も移ればみんな幸せよ。みんなで穏やかに暮らせれば、それ以上のいうことは――」


 ふっ、と気が付いたリルルが視線を横に投げた。

 本当にいつの間にかで、全くの真顔をしたロシュが正座をして側に座っていた。


「きゃあああああ!?」


 座っていたリルルがその場で跳ねたと同時に、ニコルの頭が膝からズレて地面に落ちる。


「ロ――ロシュちゃん、おどかさないで!」

「おどかしたつもりはないのですが……」

「うーん……」


 後頭部を地面に打ったニコルがうめいて顔を歪め、ゆっくりと目を開いた。

 ニコルを膝から落としてしまってあたふたとしているリルルと、その横で平静そのものの顔をしているロシュが、少年の瞳に同時に写った。


「あ……ロシュ……」

「ただいま戻りました、ニコルお兄様」

「やっぱり無事だったか……君のことだ、きっと切り抜けてくれるとは思っていたけれど……」

「ニ、ニコル、大丈夫?」


 あたふたとしているリルルの目の前で、ニコルはゆっくりと体を起こした。


「ロシュ、よくやってくれたね。君が『祭壇』を破壊してくれたから、最悪の事態はまぬがれたよ……父上や先輩たちの戦いが無駄にならなかったのは、君のおかげだ。ありがとう」

「そのことなのですが、単純にいいことばかりでもなかったようです」


 うつむいていたニコルが、顔を上げた。


「『祭壇』の破壊には成功しましたが、『魔王』は転移して直後の大爆発を逃れたようです。おそらくは、魔界に移動したものだと思われます。その『魔王』以外はほぼ全滅した模様ですが」

「……彼女がまだ、生きているのか……」


 ニコルが唇を噛む。両目を拳銃で潰したとはいえ、致命的な傷は負わせられなかった。きっと傷を回復させた後に、逆襲に転じてくるだろうことは想像に難くない。

 かつて存在した『魔王』そのままの力を振るう彼女が再び地上に現れ、王都を襲えばどうなるのか。


「その時、僕は……」

「ニコル、取りあえずは王都に戻りましょう」


 思考の深淵に沈み始めたニコルの肩をつかんで、リルルが揺さぶった。


「あなたもゆっくり休まなければならないわ。このままだと、本当に体が壊れてしまうもの。サフィーナに報告して、それから身の振り方を考えて……フィルともよくよく相談しなくちゃ。先に考えないといけないことが山ほどあるのよ」

「ニコルお兄様、私は先程ヴァシュムートを見つけました」


 ロシュが自分の手首から、ニコルが見覚えがある馬具の数々を取り出した。くらや馬の頭に装着する革製品が並ぶ。


「ああ……確かにヴァッシュのだ。彼女は……?」

「ここまで連れて上げることもできなかったので、馬具を外して放しました。ただ、ニコルお兄様のところには戻りたがっていたようなので、来た道を戻るように伝えて・・・おきました」

「……ロシュちゃん、あなた、馬と話せるの?」

「お姉様は話せないのですか?」


 リルルは首を横に振った。ニコルも縦には振れない。気持ちを通じ合わせることができる、というのならうなずいただろうが。


「取りあえず、ここから離れましょう。転移のペンで王都の秘密のアジトまで片道移動できるから。……フィルたちとすれ違いばかりで、全然会えてないのが気になるわ」


 リルルが立ち上がる。それに合わせてニコルもまた立ち上がった。


「そうだね……僕も、覚悟が定まっているうちに、サフィーナ様に伝えないと……」


 リルルは右手首の黒い腕輪から、指より細いくらいの一本のペンを取り出した。木と木の間が離れている場所にその先端を当て、人ひとりが横たわれるくらいの長方形を線で描いていく。

 長方形の線がつながるとそれは少しの間眩しく発光し、それが収まった後には、一枚の鏡があった。


「ニコル、この中に入って。すぐに消えてしまうから、思い切ってね」

「あ、ああ」


 手本を示すようにリルルが先立ち、受け身なしで地面に倒れ込むようにして鏡に飛び込んだ。体の前面を打ち付けるようにしか見えない倒れ込み方だったが、鏡は固い水面のようにリルルの体を受けて沈み込ませる。


 ニコルは緊張を鎮めるために大きく息を吸い込み、いわれたままに鏡の中に体を飛び込ませた。顔と胸、腹を打った感触はまさしく、水の中に飛び込んだ時に受ける衝撃と同じだった。

 意識を虹色の光が満たし、心臓がひとつ拍動するわずかな間、ニコルは意識を寸断させた。



   ◇   ◇   ◇



 王都の工業地域、外れ辺りにある廃工場を転用した快傑令嬢の秘密のアジト。

 百六十カロメルトあまりもの距離を一瞬で跳躍し、かび臭い工場の一室の壁に取り付けられた転移鏡からまずはリルルの体が飛び出し、その背中を押すようにしてニコルの体が続いて飛び出た。


「あ、リルル、ごめん……」

「いいのよ――きゃあっ!」


 鏡の前で固まった二人を、最後に跳んできたロシュがまともに押し退けた。たまらず押されたリルルとニコルが絡み合うようにひとまとめになり、その場に転がる。


「あ……すみません」

「い、いいのよ、仕方ないことなんだから」

「うああ……」


 汚れきった床を服で掃除させられることになったニコルが顔を歪める。如何いか敏腕びんわんメイドのフィルフィナであっても、この廃工場をピカピカに維持することは難しいらしい、と苦笑しながらニコルは立ち上がった。


「ここは……王都なのかい? いや、こんな建物が残っているだけで王都なのかも知れないな……ゴッデムガルドはもう、柱の一本さえ残らないほどに焼かれていたからね……。エルカリナ大陸の街も村も、王都以外は全部そうなっているのかも知れないな……」

「ここがいつも快傑令嬢私たちが使っている、秘密のアジトなの」

「そうか。ここを襲えば快傑令嬢を逮捕できたんだ。今度からそうするよ」

「ニコルったら、もう」


 ニコルとリルルは笑い合った――寂しそうに。

 王都警備騎士団の警備騎士として、王都の夜を騒がせる快傑令嬢として、追いつ追われつしていた頃が懐かしかった。とても優しくて、いまさら取り戻せない、大切で宝物のように貴重な時間だった。



 そんな回想にふけってしまう二人の心を打ち鳴らすように、部屋の扉が荒々しく開けられた。リルルとニコルが思わず身構える。が、飛び込んできたその小さな影に口から肺の空気が全て漏れた。


 薄暗い部屋の中でもわかるくらいに顔から生気をなくしたフィルフィナが、いつものメイド服姿で鉄製の扉を一呼吸で押し開け、肩を上下させて荒い息を吐いていた。


「お……お、お嬢様、ニコル様……! ぶ、無事で……ご無事でお戻りに……!」


 まるで半日を親とはぐれていた迷子の子供のような顔を見せて、フィルフィナが涙ぐんでいた。


「フィル、よかった。いてくれて。サフィーナは今どこにいるか、知ってる? サフィーナに告げなければならないことが――」

「そのサフィーナが、さらわれました……」


 リルルとニコルの思考が一瞬、停止した。すぐにはフィルフィナの言葉を理解できなかった。

 そんな二人に畳みかけるように、悲鳴そのものの金切り声でフィルフィナが叫んでいた。


「サフィーナがさらわれたのです! 国王の手の者に! そして、王都中に布告が出ています! 快傑令嬢リロットは当局に出頭せよと! これを無視した場合は、快傑令嬢サフィネルの身柄の無事は保証できないと!!」

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