「フィルフィナの誤算」

「……サフィーナが、捕まったですって……!?」

「お嬢様、申し訳ありません!」


 汚れた床にフィルフィナが膝を、手を着き、躊躇ためらいもなく額をぶつけるようにして擦り付けた。

 周囲を警戒します、と告げてロシュが部屋を出ていく。重い鉄の扉が開いてから閉まるまでの間閉ざされていた口が、せきが切れたように悲鳴のような声を吐き出し始めた。


「わたしが……わたしの判断が甘かったばかりに! こんな事態を引き起こして! あの時……あの時、眠気に負けて居眠りをしてしまったのがそもそもの原因なのです! わ、わたしは、取り返しがつかないことを……!」

「フィル、やめて。お願いだから頭を上げて」


 報告にニコルが言葉を失って立ち尽くしている中、土下座をしたまま姿勢を揺らがせないフィルフィナをリルルが床から引きがすようにして抱き起こした。


「あなたが一人で抱え込むことじゃないわ。それぞれ勝手に行動した私たちが悪いのよ。フィル、私たちの主従関係なんて形だけのものじゃないの。フィルにそんなことされたら、私、悲しくなる。だから、お願い……」

「リ、リルル……」


 顔を上げたフィルフィナは、頬を洗うほどの涙を流していた。

 後方で全体の状況を俯瞰ふかんし、冷静で適切な判断を下さなければならない、参謀の立場でありながら――そんな責任感が彼女の心を絞め上げているのは、わかる。


 フィルフィナが取り乱している分、リルルとニコルはいくらか落ち着きを得られていた。重大な事実が思考を混乱させることなく頭を通り過ぎ、感情の揺れを最低限にできていたのだろうか。


「……サフィーナ様が、捕らえられたのか……それで、国王はリルルを呼んでいる……」


 これ以上もない最悪の状況だから、自分は悲鳴を上げることもできないのか。主君に等しいゴーダム公の娘であるサフィーナの身柄を奪われたという事実にここまで乱されないでいれる自分は薄情なのではないのかとニコルは思った。あまりもの大きな衝撃は、人をこうも固まらせるのか。


「フィル、状況を教えてちょうだい。あなたも手は打ってあるのでしょう。それがわからなければ、こちらもなにも対応できないわ」

「は……はい……」


 リルルが汚れたフィルフィナの額を拭う。引きつる喉を落ち着かせて、フィルフィナは数回深呼吸をしてから、いっていた。



   ◇   ◇   ◇



 フィルフィナは、打つべき手は打っていた。

 ひとつは、ゴーダム公夫人エメスをメージェ島に移したこと。


「……奥様には申し訳ありませんが、無理矢理眠らせて身柄を移させていただきました。今、この状況でご主人の戦死と御息女が連れさらわれたことを同時に報告するのも、されるのも酷でしょうから」

「ああ……そうだね……」


 その判断については、ニコルは感謝さえした。どちらかひとつだけでも無限の度胸を必要とするのだ。せめて、サフィーナをなんとか救出しないことには顔を合わせる勇気さえわかなかった。


「そして、昨日のうちにメージェ島にクィルとスィルを送りました。『森妖精の王女号』を王都に向かわせるためです。今日の夕方には到着するでしょう」

「え……『森妖精の王女号』を、何故?」


 ウィルウィナから譲られた、魔法の動力で動く小型帆船をリルルは頭の中で思い浮かべた。三本のマストを有し、風がなくても恐ろしいほどの快速で走る船だ。初めてそれに乗って海に出た時の心地よさをリルルはまで実感として思い出すことができる。


 ――メージェ島に温泉旅行に行く、という話をしていた時期が、唐突に懐かしく思い出された。ウィルウィナにその話を持ってこられた時は、こんな崖っぷちの悩みなんてなかった。子供のように無垢むくな時代だったのか。


「ゴーダム公爵邸とメージェ島との繋がりを切断しました。転移鏡を破壊したのです。サフィーナの身柄はとうに知れたでしょう。公爵邸がいつ当局の手入れを受けてもおかしくありません。たとえ未登録のために転移はできなくとも、繋がっている先を突き止めることは不可能ではありませんから」

「それで、メージェ島への移動手段のために、船を?」

「もうこの王都に、わたしたちの居場所はありません」

「フィル――」


 冷酷で、現実的な判断をリルルは寂しい思いで受け止めていた。ゴーダム公爵邸に隠れていることもできず、他に安住できる拠点も――。


「このアジトも放棄します。既に重要なものは一時、安全そうな場所に移しました。それを運搬する手段としても、船は必要です。……エルフの里ももう、安全ではありません。大規模な襲撃を受け、メリリリア様が戦闘の中でお亡くなりになりました」

「メリリリア様が……!?」

「もう……話さなければならない事情が山積みで……」


 告げる方も告げられる方も苦痛を伴う時間だった。メリリリアが探してくれと依頼していた双子の妹・ティターニャが国王の手先であったこと、そのティターニャの襲撃で『東の森の里』が半壊し、女王を失うという致命的な損害を受けたこと、ティターニャ自身は重傷を受けたが撤退したこと――。


 そのティターニャが捨て台詞のように残していった『快傑令嬢の片割れを捕らえた』という言葉。フィルフィナが急ぎ確かめてみれば、リルルはゴーダム公の元に向かったニコルを追って王都を離れ、サフィーナは王都で起こった事件に対応するという書き置きがあった。


 フィルフィナは判断した。さらわれたのはサフィーナだ、と。

 それが、昨日の話だった。そして一夜明け、王都中に触れが回った――。


「……正確には、然るべき場を設定するので出頭の期日は明日、場所の詳細は明朝早くに発表するとのことです。これもなにかの罠なのでしょうか。一晩、わたしたちを王都に縛りつけることで居場所を急襲しようというのか、明日までの間にわたしたちが嗅ぎ回るのを待ち受けているのか……」

「……私の正体は知れてしまったんでしょうね」

「リルル!?」


 ニコルがリルルの顔を見た。ニコルはここでやっと気づく。自分が魔法のメガネの影響を受けていないことを。いつもぼやけるようにして見えていたリルルの素顔が、メガネをかけている状態でもはっきりと見えていることを。


「天界での戦いの時、国王は、私の体から血を採取していったわ。そこからなにか手がかりを得て、サフィーナに確認させたんだと思う。……サフィーナが進んでそれを明かすとは思えないけれど、詰められればバレてしまうことでしょうね……」

「血……ですか……」

「それに、今になってたかが・・・快傑令嬢の身柄を押さえたいっていうのが、そういうことなんだと思う。快傑令嬢リロットと伯爵令嬢リルルが同一人物だとわかったから、そんな手間のかかることをするんでしょう……」


 リルルは手近にあった木箱の上に腰を下ろし、肺から全ての空気を吐き出してから、かけていたメガネを外した。このメガネには正体を隠す以外の能力はない。国王に、国家に正体を知られた今、最早無用の長物でしかなかった。


「……お嬢様、とにかく、ここから早く移動しましょう。このアジトが割られている可能性も大なのです。一刻も早く……」

「――フィル、ソフィアとローレルは、どう処置したの?」

「えっ?」


 リルルの言葉に、虚を突かれたようにフィルフィナが目を丸くした。


「僕の母さんと、婆ちゃんが……?」

「私が快傑令嬢となって逃げ回っているということは、元乳母で母親同然の付き合いがあるソフィアなんて、人質にもってこいじゃないの。その二人を押さえられたら、ますますこちらは手出しが――」

「あ、あ、あ…………!」


 フィルフィナの表情が歪んで行く。――失念していた、というように。


「わ……わたしとしたことが、わたしとしたことが、そんな、自分の足元のことにも気が回っていなかったなんて!」

「リルル、僕は急いで家に帰るよ。まだ手が回っていないかも知れない」

「待って!」


 部屋を飛び出そうとしたニコルを、リルルが腕で制した。その目が理性的な光をたたえて、この場で最も落ち着いた瞳の色を見せていた。



   ◇   ◇   ◇



 王都は騒然としていた。

 昨日あたりから大勢の避難民が流入し始め、街の公園や広場、大規模施設に箱形の簡易住居が敷き詰められるようにして建てられ、ただ人数を投げ込むようにして雑多に押し込められている。


 それは役所が管理している計画的なものであるはずだったが、元々王都に住んでいる住民からすれば無計画そのもののいい加減なものにしか思えなかった。あちこちで迷子になった子供の泣き声が響き渡る。薄汚れた服装から、二日ほどの旅をしてきた人間のものだとうかがえた。


 ラミア列車は当に運行を停止していた。商店も軒並み扉を固く閉じ、配給の物資を載せた馬車がひっきりなしに大通りを走り回っている。元々住んでいる百六十万人、これから流入してくる想像もできない人間の、最低限の衣食住を成立させるということがどれだけ困難なことか。


「いったい、王都はこれからどうなっちゃうんでしょうねえ」

「知らないよ」


 ニコルの母であるソフィア、祖母であるローレルは自宅の居間でお茶を飲んでいた。扉一枚向こうの通りでは、大勢の人が流れる音が足音、ざわめき、泣き声となって聞こえてくる。まるで祭のような日を迎えているようだったが、二人は少しもめでたい気分にはなれなかった。


「ねえ、お義母かあさん、今からでもニコルの世話になりましょうよ。きっと島の方が居心地がいいですって」

「あたしゃこの王都で生まれて暮らして百年になるんだ。いまさら他で暮らせないよ。ソフィア、お前だけでも島に行きな。息子と一緒に暮らせばいいじゃないか」

「お義母さんを残して行けませんよ。お義母さん、意地張らないで」

「いいんだよ、あたしゃ今日明日にくたばったって。もうやれることは全部やったし、可愛い孫も立派に育ったしね。これ以上世の中が悪くなる前に死ねたら本望って奴さ。いまさら長生きしたくないんだよ」

「本当に困ったお義母さんですねぇ」

「あんたも相当に困った嫁だよ。こんなしゅうとめにいつまでも構って。捨てるにはいい頃合いだろ。さっさと行きなよ」

「そんなお義母さんが好きだからあたしは、ここにいるんですよ。お義母さんが島に行ってくれる気になるまで動きませんからね」

「……本当に困った嫁だよ」


 ソフィアは微笑み、ローレルは二日前の新聞を顔の前に広げた。もう新しい新聞も発行されなくなっていた。


「お義母さん、新聞が反対ですよ」

「……あたしゃ、新聞を逆に読むのが好きなんだよ」


 ふう、と息を吐いてソフィアは立ち上がった。今はまだ比較的のんきにしていられるが、これもいつまで続くかわからない。避難民の流入はまだ序の口の序の口で、これから百万人を軽く超える人間が王都に避難してくると予想されていたからだ。


「まったく、王様もなにを考えているのか……」


 外に続く扉がバン! と開かれたのは、この瞬間だった。

 驚いたソフィアとローレルの目に、黒いローブを身にまとい黒いフードを目深に被った二人の人影が押し入ってくる。まるで躊躇ちゅうちょのないその押し入りに、ソフィアが悲鳴を上げた。

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