「サフィーナの敗北」

 意識を引き裂くような凄まじい痛みの中。サフィーナは、明かりと影にその輪郭りんかくをくっきりと際立たされて脳裏で巡る過去の光景に、ああ、走馬灯というのはこういうことをいうのだなと他人事のように思っていた。


 体は今までに上げたこともないほどの、世界の全てがきしみ上がるような悲鳴を上げているのに、精神は自らを五歩離れたところから自分の背中を見つめている。自分を中心にして世界がぐるぐると回る。回転木馬メリーゴーランドのようだ、とサフィーナは思った。


 全てが自分の記憶の光景だった。そして、ほとんどニコルの記憶の再生しかないことにサフィーナはほとほと自分が嫌になった。


『どれだけニコルに未練があるの!? これでもう諦めた、とか誰が信じてくれるのよ!』


 これが他人に見られる類のものではないということだけが救いのようなものだった。誰かに、特にニコルかリルルのどちらかに見られたらサフィーナはその場で舌を噛んでいただろう。


 走らなければ追いつかない速度で巡り巡る幕のひとつでは、今より少し初々しいニコルが、リンゴのように赤い頬をして、懐かしいゴッデムガルドのゴーダム公爵邸の玄関前に立っていた。


 それほど立派ではない服が数日の旅を経たためにさらに汚れていて、みすぼらしい、と偶然に直接応対したサフィーナは思ったものだ。ただ、少女の面影をたたえたその顔立ちは綺麗だった。笑うと本当に女の子に見間違えられないくらいの可愛い顔の中で、瞳だけが少年の凜々りりしさに輝いていた。


 その瞬間、サフィーナは思った。自分の運命が少年の姿をして訪れたのだと。だから、初めてニコルの姿を目にして、恋に落ちるまでには数十秒しかかからなかったろう。その少年が単なる訪問ではなく、自分の家の騎士団で生活することになるということを知った時、本気で神に感謝したものだ。


 以来、寸暇を惜しんでニコルの側にいた。偶然を装うって着替え中のニコルの部屋に入ったことも、なにかと用事をいいつけられて同期の騎士たちと入浴の時間をずらされたニコルが一人で風呂に入るところをのぞいたことも、数え切れないほどあった。


 もっとも、ゴッデムガルドに住む年頃の女の子で、ニコルのお風呂をのぞいたことのない者はほとんどいなかったといっていい。そして、女の子たちの間では秘密となっているのぞき穴の前では、身分差は一切関係なかった。農民の子も商人の子も、農奴同然の娘まで平等にのぞき穴に目を通した。


 公爵令嬢も例外ではなかった。早く見せて、と他の女の子が急かしてくるのには素直に穴を譲った。


 濃い湯気の向こうにニコルの上半身が見えて、線が細い印象があるのに脱ぐと意外に張っている肩や、天使の翼の名残のように背中に目立つ肩甲骨の盛り上がり、何故か不思議な色っぽさをかもし出している鎖骨のきれいな形に、女の子たちは口から漏れる黄色い悲鳴を抑えるのに必死だったものだ。


 そのことは取りこぼすことなく日記に記してある。いつ、自分がニコルの体のどんなところを見て、どんなところに感動したのか、日記をめくればたちどころに思い返すことができるだろう。


 そんな風にニコルと近しく接しているうち、ニコル自身は自分から口にすることはなかったが、彼に想い人がいるであろうことに気づいたのはすぐだった。ゴッデムガルドに赴任ふにんしてきてからニコルが毎日のように――いや、毎日手紙をどこかに出しているのにサフィーナは気づいた。


 郵便局員をおどして聞き出すと、それがほぼ同一人物あてだということがわかった。貴族階級を示す『ヴィン』がついている、女性名としか思えない『リルル』という名前!


 さすがに郵便局員に手紙を盗むことは拒否され、仕方がなくサフィーナは自分の手で盗むことにした。ニコルの元に小間使いの男の子を向かわせ、ニコルが男の子に手紙の投函とうかんを頼むように仕向けたのだ。


 男の子から手紙を受け取り、躊躇ちゅうちょなくその封を開けて内容を読んだサフィーナは、顔が爆発したと思えるくらいにその頬を一瞬で赤くした。


 ニコルに恋い焦がれ、つきまとい、サフィーナが必死になって追い払っている女の子は両手両足の指の数、十数人分はいるというのに、全くといって浮いた話がない少年。意地の悪い者はニコルを同性愛者だとか、酷い者になるとゴーダム公爵の愛人であるとかいう始末だ。


 女の子に一方的に話しかけられていても、いつも心が上の空でいる少年。自分に好意が寄せられていることにも気づかない少年。その、好意を素通りさせられているうちの一人であるサフィーナは、あの朴念仁ぼくねんじんにも見られかねないニコルの心から、こんな恋の言葉が出てくるのかと仰天した。


 もの凄い密度で、自分がどれだけ少女を想っているか、愛しているか、想ってほしいか、愛してほしいかということが、まるで印刷されているようにきれいで、律儀りちぎそのもののかっちりとした字でつづられていた。


 数分間目を丸くした後、サフィーナの心を、激しい嫉妬しっとの炎がいた。怒りと悔しさと憎しみに任せて手紙を細切れに破いて床に投げ捨てた。

 投げ捨ててから激しく後悔した。


 この手紙が届かなければ、やり取りの中で齟齬そごが生じ、手紙が一通紛失されたことが判明するに違いない。手紙を引き裂ききってからそのことに気付き、サフィーナは泣きながら手紙の修復にかかった。爪の大きさに破いた手紙の破片を台紙に貼り合わして元に戻し、筆跡を真似て手紙を書き直した。


 何故自分が、少年の恋心を、恋仇こいがたきの少女に向けて手紙に記さなければならないのか。

 全て自分の責任だったが、惨めだった。文字通りの徹夜をして完璧な複製をでっち上げ、当日の発送に間に合うよう時間ギリギリで投函することができた。


 だが、この時にもう、サフィーナの心にはリルルへの興味が湧いていた。どんな少女なのか、会ってみたい。ニコルの心をこうまで独り占めする少女がどんな存在なのか。自らリルルに会ってみようと決意した、園遊会直前の夜は期待と不安で眠るのが難しいくらいだった。


 結論からいえば、期待とは違っていた。

 自分のちっぽけな期待などはやすやすと跳び越えていくような少女だった。

 彼女が快傑令嬢リロットであると明かされた時、サフィーナの心は、一瞬体から離れたに違いない。


 それからは、毎日が楽しかった。二人のエルフなメイドを得て快傑令嬢サフィネルとなって、王都を飛び回る。ムチを振るい剣を繰り出す。全てが冒険で、危険なことさえ喜びだった。

 だから、自分をこんな幸せにしてくれたリルルとニコルには、報いなければならない。


 たとえそれが、自分の命を代償にしたとしても――。



   ◇   ◇   ◇



 完全な閉鎖空間の中で、金属と金属を擦り合わせたような悲鳴が鳴り響き続けていた。

 声帯がすり切れるような、鬼女が上げるような声がもの凄い音量で壁と壁、天井と床の間を反響する。椅子の上で仰け反る少女の顔が、いや、体が縦に伸びたかという悲鳴の上げ方だった。


 テーブルを挟んだ向こう側に座るヴィザード一世は、自分が少女にさせていることから目を逸らすまいと決意しているかのように、まっすぐに向ける視線を揺らしはしない。


 その中で、ヴィザードにはひとつの確信があった。この少女は口を割らずに死ぬだろうという結論にしか達しなかった。あの魔族の少年がそうであったように、この少女も秘密を守り通すことだろう。


「……それは確かに尊敬に値する。値するが、余になんの利益ももたらさん。得られるものはこの娘の死体だけだ。そんなものが得られても、なんにもならん」


 だが、ヴィザードには思惑があった。切り札を一枚、心の奥に忍ばせていた。


「サフィーナ、黙っていても無駄だぞ」


 その声も聞こえているのかどうかもわからないサフィーナの悲鳴の高さと音量だったが、聞こえている、とヴィザードは思えた。どのみちいうしかないのだ。これ以外に手段はないのだから。


「これはお前の、快傑令嬢リロットに対するお前の心を試しているに過ぎない。実をいうと、余は知っているのだ」


 サフィーナは、その言葉を聞くべきではなかった。興味を持ってしまったから反射的に反応してしまった。

 それが、はかりごとを持っている人間、持っていない人間の差だった。


「余は知っている。――快傑令嬢リロットの正体が、伯爵令嬢リルルであるということをな」

「――何故それを!?」


 サフィーナの頭を締め付けていた金色の布が、勝手に千切れて破れた。

 その瞬間、サフィーナは知った。自分が敗北したということを。

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