「父と子」

 分厚い帆布はんぷを敷いただけの天幕テントの床に、ゴーダム公とニコルはあぐらを掻いて向かい合って座った。テーブルはあれども椅子はないし、そもそもそのテーブルも食事をしたりお茶を飲んだりするためのものでもない。


 明日の攻撃のための全ての指示と段取りを終え、眠って体調を整える就寝までの、わずかな時間。

 それが父と息子に与えられた、語らいの時だった。


「ニコル、どうだ」


 ゴーダム公が一本の蒸留酒ウィスキーのボトルを床に置く。小振りの瓶には残りはほんの少し入っているだけで、薄めずに二杯も飲めばなくなってしまう量しかなかった。


「それだけなのですか」

「これで私とお前の分だ。留守部隊が装備や物資を持てるだけ持ち出してくれたのはありがたかったが、馬車に載せられるのも限度があったからな……七百人に公平に分配したらこうなった。兵と共に戦い、苦しみ、泣き、時には共に飢えるのがゴーダム騎士団の伝統だ。ははは、損な公爵だな」

「父上……お酒がお好きなのに……」

「私も根が細い方らしくてな。つい酒に頼ってしまう。このしばらくは酒量も増えていよいよどうにかしないと思っていた頃合いだったが……ふふふ……これが最後の酒だ。きっぱり断酒できるということだな、ははは……」


 ゴーダム公は水筒のコップに瓶の中身の半分を注いだ。


「どうした、ニコル。コップを出せ」

「ぼ……僕は、結構です。父上、僕の分までお召し上がりください」

「これっぽっちぐらいで酔わんぞ」

「それが、酔ってしまうんです」


 恥ずかしさに顔を赤らめながらニコルがいった。


「僕は相当の下戸げこらしくて……王都エルカリナに帰ってから地元の仲間と飲み屋で飲んだら、最初の一口で正体をなくしてしまって……僕も全然覚えていないんですが、もうそれは派手に乱れたらしくて、以来飲み会には誘われなくなりました……恥ずかしい……」

「ははははは!」


 天幕の外を巡回していた騎士が驚くほどの笑い声がゴーダム公の喉から跳ねた、


「そうか、それは知らなかった! そんなに飲めないのか! ふふふ……はははは……!」

「父上、そんなに笑わないでください……本当に恥ずかしいんです……」

「は、ははは、はははは……。いや、愉快なものだな。私はお前のことをなんでも知ってると思っていたが……いや、思い上がりだったな……そんなことさえも知らなかったのか、私は。しかしな、ニコル。父の酒を断るとは、これは礼儀がなっていない。見逃せん事態だ。飲まないと許さん」


 ゴーダム公は自分の水筒から、ニコルのコップに水を注いだ。七分まで満たされたそのコップに今度は、蒸留酒の瓶からほんの数滴、琥珀こはく色の液体を垂らした。

 目を丸くしているニコルの前に、ゴーダム公がコップを置く。その目が優しく笑っていた。


「さあ、飲め。飲まないと親子の縁を切るぞ」

「……いただきます、父上」

「ぐっと行け、ぐっと」


 ニコルはコップを抱えてひとつうなずき、口をつけて一気に煽った。ほのかな森の香りがした。


「いい飲みっぷりだ。さすがは私の自慢の息子だ」


 ゴーダム公も自分のコップを持って口につける。大事そうに唇の先でめ、愛おしそうにそれを舌の先で味わっていた。


「ニコル。私が酔っ払う前にいっておく。お前の騎士団への再入団は許可した。しかし、死ぬことは許さん。私の許可なく死ぬな。そんな親不孝をしたら、天の国でお前に会ってはやらんからな」

「父上……ですが……」

「これもゴーダム騎士団の伝統だ。最年少の者はなんとしても生き残り、生還して部隊の顛末てんまつを報告せよ」

「……そんな伝統は、今初めて聞きました」

「そうだろう。今初めて作ったからな」

「父上!」

「まあ、聞け」


 残りはもらうぞ、といってゴーダム公は瓶の全部をコップに入れる。


「この騎士団の誰も、お前に死んで欲しいなどと思っていない。皆に弟として可愛がられたお前だ。道連れにしたくないのだ。お前を仲間外れにしているわけではない。皆、お前を愛している。それが皆の望みなら、お前は応えなければならん。それとも、自分のわがままでその想いを無為にするか」

「ですが……」

「それにお前が死んだら、お前の大事な人たちはどうなる。リルル嬢を遺してお前は死ねるのか。私が知らない名前の人々も、同じ想いをお前に抱いているのだろう。お前一人のわがままで何人を泣かせる気だ」

「自分は……僕は、命を捨てることになるとわかっていながら、それでもおもむかれた父上がお可哀想で……せめて僕ぐらいが道連れにならなければ……父上があまりにも……」

「ありがとう、ニコル。その気持ちは本当に嬉しい。私はお前がそんな想いでここまで来てくれただけでもう、満足なのだ。だから、お前が私に付き合って死ぬことは、ない」


 カップの底に残った最後の酒を見つめて、ゴーダム公は微笑んだ。


「お前は生き残れ。そのための道を、我々で作る。我々に心残りを作らせるな。自分たちの死で誰かが生き残るから、私たちは戦える。お前はまだ若い……私の半分も生きていない。まだ、十七にもなっていないのだろう。ここから先は、十六歳以下は立ち入り禁止だ。規則には従え……それにな」


 そのコップの中の、残り少ない水面になにを見ているのか。ニコルは父の瞳を見て、わかった。


「……サフィーナもまた、お前を愛している。もう、未練たらしいほどに、な……。いや、とっくにあきらめてはいるが、それでもお前の近くにいたいのだ。あの娘……本当に愚かしいほどまでにお前を想いおって……お前が我が手元から旅立っていった、去年の春、あの時のことを思い出すな……」

「はい……」


 ニコルもまた、空になったコップの底を見つめた。

 本来ならば許されない、准騎士に上がった直後の退団。その時のやり取りはもう遠くのものになり、とてもまだ一年も経っていないとは思えないくらいだった。


 だが、その時のやり取りははっきりと覚えている。古びたとしても輪郭りんかくを残す写真のように。


「それに、エメスだ。お前を実の息子のように、実の息子であればあり得ないほどに愛している。お前が死ねば、エメスは心が死ぬぞ。お前を道連れにしたことになったら、私は墓を建ててもらえるか、葬儀を出してもらえるかも疑わしい。向こうで出くわした時、どんな目に遭うのかわからん」

「父上……もう……」

「お前には失うものが多すぎる。その者たちの顔を思い出してみろ」

「父上、もう、もう、やめてください」


 ニコルはそういうが、言葉を聞いてしまった心は素直に反応して、数十人の顔を一度に思い起こさせた。いちばん怖れていた『未練』という重りが鎖を引いて心の底に墜ちていく。

 そして、次の言葉がある意味、致命傷だった。


「それに、だ。お前は成人の歳を迎えたとしても、まだまだ子供だ。……下世話なことを聞いてすまんが、お前はリルル嬢と契ったか?」

「父上っ!!」


 悲鳴のような、悲鳴にしか聞こえない、そして実際悲鳴そのものの声を発して、ニコルは歯を見せるようにして顔を歪めた。本当に半分べそを掻いていた。


「お願いします! 本当にそれ以上は! それ以上はおっしゃらないでください! 僕は今、心を斬り裂かれた思いです!」

「お前は自分の死で、愛してくれる何人の、何十人の心を斬り裂こうとしているのだ。いい加減にわかれ」

「くぅぅ……!!」


 ニコルはうなり声を上げるが、それ以上の言葉は出なかった。理屈と情緒で説得してくるこの父に対して勝てないと思うだけだった――それは、至極当然の、本当に当たり前のことに過ぎなかった。


「私は、そんなこと・・・・・もしていない子供を、自分の最期の道連れにする気にはなれん。いいな、ニコル。これは厳命だ。わかったな。……わかったというんだ」

「…………」


 膝に握りしめた拳を押しつけ、ニコルは奥歯を噛みしめた。内で震えるものが体を突き破って飛び出しそうになるような衝動が、肺と胃を内側から叩いている。

 死を覚悟し、制止の手紙の内容をも振り切ってここまで来たのに、望みはかなえられないのか。


 いや、ニコルにも死の葛藤はある。死にたくない、と思う。当たり前のことだ。

 それを今は考えないことにして、ここまでやってきたのだ。冷静になれば、死への恐怖が使命感を上回ることはわかっていた。だから考えない、そのようにしてきたのに。


 あとは、ゴーダム公は、ニコルが返事をするまでなにもいわなかった。ただ、目の前で自分の内なるものと格闘している少年を、落ち着いた目で見つめるだけだった――自分は、明日には死ぬという確信があるのに。


「……わ……わ、わ、わ……」


 自分の魂を胃の底から食道を通し、喉から吐き出す思いで、ニコルは言葉を搾り出した。


「わ……かり、まし、た…………」

「……すまんな、ニコル」


 ゴーダム公の肺から、いっぱいの安堵あんどの息が漏れる。

 今日、この日いちばんの強敵を倒した思いだった。もう、思い残すことはない。


「私はお前の亡骸なきがらを抱きしめて泣きたくない。泣き虫なのでな。もう、私を泣かさんでくれ。今日はお前のせいで大変恥ずかしい思いをした」

「はい…………」


 頭のつむじが見えるまでに腰を折って、自分が発した言葉の重みに耐えるニコルを、ゴーダム公は微笑で見やっていた。


「そろそろ寝るか。明日は早い。体を休めねばな……ニコル」

「……わかりました、今、準備をいたします……」


 ハンカチで顔を拭い、ニコルが立ち上がる。隅に積んであった毛布を広げるために背中を見せた。


「すまんな」


 その一言にも寂しさが陰る。もう、従者らしいことをさせるのも、これが最後の最後なのだ。

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