「白き巨神」

 夜がなく、永久に陽が差し続ける天空の神殿の最奥部に、天界をべる純白の巨人は立っていた。

 権威あるもの、権力者であればそれらしい豪奢ごうしゃな椅子に座しているものだろう。しかし、彼は立ち続けていた。この世に存在するものの中で、ほぼ最上位に位置するものでありながら。

 長い脚が小揺るぎもせずに体を支え、静止し続けるその姿は彫像そのものにも見えるが、彼は生きている。


 オーガよりもさらに大柄な、人の三倍を超える身長の姿。だが、その体形は全くいかつくはない。その体には余計な筋肉も脂肪も一滴も見受けられず、頭身や胴体、四肢の長さの比率の全てに、人が人体に求める理想の黄金比が成立している。


 その体はなにもまとっていない。性器に相当する隆起もない。衣服をまとう必要もなく、彼の美しい姿は完成されていた。


 物言わずに直立し続ける巨人の顔に表情はない。仮面のような、いや、まさしく白い仮面そのものにしか見えない顔が、顔としか思えない部分にまっている。そんな、生物であればあり得ない形の顔が、実際、彼の素顔だった。


 磁器を思わせる質感の白い肌にこの世の万物を見通す卵形の大きな目。呼吸の必要もないのか鼻はなく、食物を摂る必要もないのか口はそれらしいくぼみがついているだけだ。唯一の飾り気といえるものは、耳があるだろう部分から後ろに向けて生えた、腰にまで届く長すぎる髪くらいのものだ。


 美しいまでに簡素シンプルなたたずまいだった。


「――――」


 白き巨人――オルディーンは、玉座の間に相当するこの空間に一人たたずみ、待っていた。

 天界ではさほどの意味を持たない時間の経過が、今は面白味のあるものに感じられる。出来事というものがほとんど存在しないこの天界で、久しぶりに目まぐるしい変化が起こっているようだった。


 天界の者ならば耳を覆いたくなるほどの醜態が、遠くから音となって聞こえてくる。霧のヴェールの向こうで展開されているらしい光景は見えないが、それが近づいてきていることは、重なるようにして響いてくる喧騒と悲鳴が近づいてくることからわかった。


「――そろそろか」


 その硬質な顔には似合わない、女性のなまめかしささえうかがわせる声がから漏れた。

 呟きから数秒も置かず、白い濃霧のヴェールが揺れる。そして、白い幕を抜けて一つの人影が浮かび上がった。


「――――」


 緑の長い髪をなびかせたその女性は、そこかしこが切り裂かれた黒いマントの襟を正し、コツコツと硬い響きを立てて神殿の石畳に足音を刻ませて歩く。固く結ばれた唇からはいつもの微笑みが消え失せ、その鋭い眼差しには冷たい光が宿っていた。


「ウィルウィナか」


 長身のエルフの女性が前に立ち、ひざまずきもしないことに白い巨人はなにもとがめない。

 虫や小動物が自分の前を素通りしても、人間がなんの感情も湧かせないのに似ていた。


「――お久しぶりです、オルディーン様」


 ウィルウィナは頭も下げずにいった。敬称と敬語を使っていれば十分だと思っていた。


「ずいぶん、印象が変わったな。あれから地上ではどれくらいの年月が経ったのか」

「五百年です」

「そうか。娘だったお前も見違えるほどの時間ということか。エルフとしては」

「そろそろ終わり際を考えないといけない時期です。オルディーン様は、お変わりなく」

「変わるわけがない」


 オルディーンは微かに愉快そうな色をその声に載せた。


「我は天界の神。永遠の時をたどるもの。創世より存在する我に、変化などあり得ない」

「その変化が訪れようとしています。オルディーン様。魔界で、古竜神ワイブレーンが倒されました」

「ほう」


 驚きでも嘆きでもない、楽しむような調子が天界の神から発せられた。


「倒された、とは面白い。そなたたち、五百年前にワイブレーンを魔界に閉じ込めるという条件で和解したのではないか。ワイブレーンをほうむらなければならぬ理由は……」

「倒したのは私たちではありません。エルカリナ王国国王、ヴィザード一世をご存じですか」

「知るわけがない。我には地上や魔界の些事さじなど関わりのないことだ」

「……エルカリナ王国は、私と同行していた仲間の一人、ヴェルザラードがワイブレーンを魔界に追いやった後に建国した国です。ヴィザード一世は直系の子孫に当たります」

「あの、そなたに劣らぬ礼儀知らずの軽薄な人間か」

「……そのヴィザード一世が、ワイブレーンから『命の珠』を奪い、自らの胸に埋め込んだのです」

「なんだと?」


 オルディーンの声音の調子が、一段階低くなる。


「人間の身でありながら、『命の珠』を胸に埋め込めただと? そんな馬鹿げた話があるわけがない。あれは人間の器には過ぎたものだ。なにかの間違いであろう」

「そのヴィザード一世が、『水の世界樹』を伝ってこちらに向かっているのです!」


 ウィルウィナは叫びたくなる苛立ちにこめかみを震わせながら声を上げた。


「封印されていた『水の世界樹』を開放した手段もその力の根拠も今はわかりませんが、その目的は、オルディーン様が持つもうひとつの『命の珠』を奪うことしか考えられません! 万が一それが奪われ、ヴィザード一世の胸で二つが重なり融合することになれば! 取り返しのつかないことに!」

「好都合ではないか」


 その危機感のない言葉に、ぎり、とウィルウィナの奥歯が噛みしめられて鳴った。


「元々は暴竜神イェザースの心臓であり、イェザースの暴走の原因となったもの。イェザースを我とワイブレーンの二者で倒し、その心臓を二つに分けたのが『命の珠』――強大な力と長大な寿命を与える神具。そしてそれを、我とワイブレーンがそれぞれ胸に埋め込んだのだ。力の均衡バランスを考えてな」


 オルディーンの胸の中心で、鼓動の拍動で明滅を繰り返す内部からの光が透けて見えた。その虹色の輝きは緩やかな光の波紋を神の体に刻んでは消えて行く。


「しかし、ワイブレーンの生命は不死ではない。奴は所詮しょせん、本物の神である我とは違う、ただの竜の眷属けんぞくでしかない。我とは格が違いすぎた」

「ですから……!」

「元々、『命の珠』は二つとも我が管理すべきものだったのだ。天界から地上を統べる神にこそ、その力は相応しい。ヴィザードとやらが持ってくるのであれば、我が奪うだけ。愚かな人間のことだ。老いた古竜を倒せたことに調子に乗り、本物の神である我を倒せるとでも思っているのであろう」

「人間だからといって、ヴィザードを侮ってはなりません! 老いていたといえど、ワイブレーンが吐く光の奔流ほんりゅうを受けて傷一つつかなかったのです! もう彼はすぐ近くにまで迫っています! 天界の防備を固め、私も防衛の一翼をにない――」

「愚かなエルフ。そなたがこの天界において犯した、五百年前の罪を我が忘れているとでも思ったか」


 背中と服の間を、氷の塊が滑り落ちていく寒気がウィルウィナの肩を跳ねさせその肝を凍らせた。


「仲間と徒党を組み土足で天界に押しかけ、この神殿を汚し、宝物ほうもつの数々を奪っていったな。どうせ全てを使い果たし、失ったのであろう。身の程を知らぬ蛮行よ」

「あれは、地上に侵攻しようとしていたワイブレーンを止めるためには――!」

「地上に竜が出てこようが、我のいかずちが一撃でそれを粉砕してやったのだ。目の前のことに惑って先走り、うるさく喚くだけの羽虫どもよ。ウィルウィナ――そなたには五人分の罰を受けてもらう」

「な――――!」


 ウィルウィナが身構えたのと、今まで微動だにしなかったオルディーンの右腕が前に掲げられ。その人差し指がウィルウィナに向けられたのとは、同時だった。


「っ!」


 白い巨人の指先から、白い闇・・・が噴き出した。それは影が伸びるのと同じ速さでウィルウィナの全身を包み込み、伸びたのと変わらない勢いでオルディーンの指に全てが吸い込まれる。

 闇が引いたあと、ウィルウィナが立っていた場所には、もはやなんの痕跡も残ってはいなかった。


「ウィルウィナ。命までは取らないでおいてやる。この次元から切り離された場所で、永遠に命を保ち続けるがいい――自分の愚かさを十分に反省するのだな。時間は、いくらでもある――」


 オルディーンの腕が下がり、元の姿勢に戻る。

 全ては変わらぬ状態に戻り、時が機能を果たさない天界の静けさが戻って来た。



   ◇   ◇   ◇



 ウィルウィナが放り込まれたのは、永遠に続く白いもやだけが存在する空間だった。

 他にはなにもない。重力もなければ足をつけるべき地面もなく、上下左右の概念すらなくウィルウィナは白い虚空の中に浮いていた。


「あ……あの、あのオルディーン……! よくもやってくれたわね……!!」


 悪態にまみれた声が飛ぶ。不思議に空気があるのか、呼吸をするのに不自由もなく声が届くのは確かなようだった。


「あの、アホ神、バカ神、ボケ神々!! 人がわざわざ手間こいて危険を知らせにやってきてやったっていうのにこの仕打ちなの!? ほ……ほ、本当に救いようのない神ね……!」


 怒りを噴き出して白い空間に撒き散らすが、なんの反応も返ってこない。自分には興味が持たれていないのか、それとも全く無視されているのか。


「私が心配しているのはね、あんたが倒されるかっていうことじゃないのよ! ヴィザードに命の珠を奪われて、あのクソ国王がとんでもない力を持つことの方なのよ! できることならあんたとヴィザードが共倒れしてくれたら、いうことないの百点満点だと思ってるわ!!」


 手足を振ってもなにも殴れず、なにも蹴れはしない。それでも憤懣抑えがたいウィルウィナはひとしきり吠え、疲れてきたところでようやく声を落とした。


「これじゃ、なんのために犠牲を払ってここまで来たのか、全くわからないじゃない……! 命を失うかも知れないから、心残りのないようにミーネと別れたというのに! ……あの子、きっと私の芝居を真に受けて、私に捨てられたと思い込んでるわ……でも、そんな口実しかなかったのよ……」


 ぐすぐすとひとしきり泣きじゃくり、それにも飽きたウィルウィナは天を――頭の上の方を仰ぐようにして、はああ、と塊の吐息を吐き出した。


「……って、グズグズしてられないわよね……。あのカス神々に期待できないとわかったら、自分でなんときゃしなきゃ。って、ここから出ないと始まらないのだけれど、どうしたらいいのかしら……」


 ウィルウィナは腕を組み、足を組んで考える。この隔絶かくぜつされた空間はオルディーンの力によるものだろう。オルディーンの力が途絶えれば、空間が崩壊しその途端に出ることができるかも知れない。


「って、それはヴィザードがオルディーンを倒したっていうことじゃない。二つの『命の珠』を手に入れたオルディーンがどこまで強くなるのか……そんなのを私が相手をしなくてはいけないわけ……!」


 その状況も最悪の想定の中に入っていないわけではなかったが、それは、あくまでこの天界に着くのがヴィザード一世よりも遅かった時のことだ。まさか。先んじておきながらこんな目に遭うというのは、ウィルウィナも予想していないことだった。


「――本当に、どっちも相討ちになってくたばればいいのよ」


 ウィルウィナは髪をひとしきりかきむしったあと、目と口と心を閉じた。もうここからはなにをしても体力の無駄だったからだ。

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