「王都にそそり立つ世界樹」
その異変は、屋外にいるものであれば、王都エルカリナに住まうもの全てが目撃できるほどの『大異変』だった。
どこでなにが起こるか予告するまでもない。それが見えない者は目が見えない者だけだったろう。
王都エルカリナを東西ほぼ真っ二つに両断する、幅四百メルト弱に達する大運河――その中間点。
まさしく王都の中心部における運河の水面に、悠々たる流れに何の関わりもないように、小さな渦が生まれた。
そんな、小さな渦の発生に気づくものなど、まだ一人としていない。全員の意識は空に投影される国王の幻像に向かい、視線の全部は上に向けられていたのだから。
が、小さく生まれた渦は人の駆け足よりも速くその直径を広げていく。
そこからは、全てが速かった。
それは、運河の底で眠っていた昇龍が、天に向かって駆け上がるような勢いだった。
巨大な水柱――城のひとつを水面に叩き込んだかのような、凄まじい規模の水柱が立ち上る。
王都の全てを響かせた爆音に耳を持つ者たち全員がその方向に顔を向け、目に映ったあり得ない光景にその目が裂けるのではないかというほどに見開いた。
幅三百メルトはあろうかという大瀑布――巨大な滝が、
それは遠目から見れば、十二カロメルトという城壁で囲まれた四角の植木鉢の真ん中から、無限の長さで伸びていく一本の細い木を想起させただろう。
地上から天に届き、そして空を貫いて宇宙まで届こうかという、水の樹。
神代の時代にあっただろうと思わせる威容の前に、誰ひとりとして言葉を発せられなかった。心が圧迫されて言葉が失われ、空白の思考の中で、展開される光景を見届けることしかできない。
水色の巨木はその幹の先端を空の向こうに
「――諸君。目撃していただけただろうか」
国王の巨像が口を開く。これが現実であることに人々が引き戻される。
「これが五百年前、『五英雄』が天界に赴くために使った『水の世界樹』だ」
天界、そして世界樹。
知識としてあったかも知れないが、その一端に触れることもないだろうと思っていた語句のひとつひとつに、人々の心がおののいた。
「水の世界樹……ですって……!?」
リルルもその例外ではない。
長年見慣れ、親しんだ街角に突如現れた、非日常そのものの産物。
それひとつがあるだけで存在する全ての現実感を失わせてくれる、夢想の領域でしかないもの。
「私が住んでいた街に、こんなものが眠っていたなんて……!」
だが、リルルは同時に気づいていた。
「でも……でも、私は見たわ。見たし、実際に確かめたわ。この街の下には、魔界と繋がる出入口がある。そもそも、それだけでも普通ではなかったのよ。だけど、私はその意味を考えないようにしていたわ。この街が何故、普通でないのかということを……!」
「……この世界樹の存在は、わたしは知っていたのですよ……」
フィルフィナの呟きにリルルは反射的に目を向けた。誰もが呆気に取られている中、まだ平静さを保っているフィルフィナの顔がすぐ側にあった。
「わたしの一族、『西の森の森妖精』はそもそも、これを監視するためにこの大陸にいたのです。天界に続く地上からの道である、この世界樹を」
「フィルの……一族が……!?」
エルフの、という言葉を辛うじて口の中で消して、リルルは言葉を吐いた。
「
「……ダージェから聞いたわ。人間の中で天界に招かれた一族が、あなたたちになったって」
「あの者はそういってましたか」
フィルフィナは小さく苦笑した。今はそれくらいしか笑えることはなかった。
「五百年前に一度出現し、間もなく崩壊したこの『水の世界樹』の再来が訪れないかどうか、それをわたしたちは監視していました。この『世界樹』は天界に至るための道のひとつ。かつて『五英雄』がこれをたどり、天界において『魔王』を討伐するための重要な宝具を預かったと聞いています」
「『五英雄』の伝説の中に、そんな下りがあったの……?」
世界で誰もが読み聞かされたことがある『五英雄』の伝説。リルルももちろん知っている。しかし、今フィルフィナの口から語られるのは、聞いたことのない要素ばかりだった。
「そもそも、『五英雄の伝説』そのものが
――そして、気が付きませんか」
「気が付くって……なにを……」
「倒されたとされている魔王は、生きていましたよね」
リルルは息を飲んだ。内臓の全部が一段階、重くなったような息苦しさに襲われた。
「『五英雄』の伝説の単純な筋書きの中でも、重要な結末の部分さえ、伝説通りではなかった。
私は、今こう考えているのですよ。
そもそも、『五英雄』の伝説は本当に実在したのかどうか、ということを」
「――――」
リルルはまたも言葉を無くした。フィルフィナが呟いた言葉が刃のように胸に突き刺さってきた。
その言葉がどれだけ危険なことなのか、肌でわかっていたからだ。
「そ……その、その話が……」
指摘するために口にするのも恐ろしい話を、リルルは呟く。周囲に聞かれないよう、本当に最低限の声で、自分の罪深さを感じながら声にしていた。
「その『五英雄の伝説』が、絵空事だったとすると……エルカリナ王国を開いた、
リルルは怯えた。自分の立っているこの地面がいきなり消えたような錯覚に襲われた。
王家がこの大陸を統治している正統性の根本さえ、揺らがせる考えだった。
「全くの架空である、とはわたしも思っていません。神話であったとしても、元になる話はあるはず。……しかし、事実を確かめねばなりません」
「じ……事実……」
「もしかしたら、それがこの謎だらけの展開の中に真実を見出すための、手がかりになるのかも……」
「でも、事実を確かめるっていっても、ど……どうやって……。五百年前の話なのよ。だから曖昧な伝説になってしまって、いまさら確かめようのないことに……」
「いるではないですか。一人、生き証人が」
その一言でリルルは思い当たった。はっと息を飲む音が刻まれた。
「『
「え……ええ……」
リルルは反射的に周囲を見渡した。この場にウィルウィナの姿がないかどうか探していた。しかし、水平に据えた眼で見えるのは、視界を
◇ ◇ ◇
そのウィルウィナは、意外にもリルルたちからそう遠くない場所で、群衆の中に溶け込むようにして立っていた。
素性を隠すため、他の亜人たちに紛れるための外套とフードで全身を隠した、エルフの女王でありフィルフィナの母である、ウィルウィナ。
誰もが水の世界樹に目を向ける中、彼女はほとんどただ一人、王城のバルコニーに立つ国王本人、ヴィザード一世に目を向けていた。
「……エルカリナ王国の国王本人が、水の世界樹を呼び出すことになるとは……これは、私も予想していなかったわ……」
アメジストの色に輝くウィルウィナの瞳は、
ヴィザードの胸に、内側から光る輝きが薄く灯っているのを。
そして、この大群衆の中で唯一、それが意味することをウィルウィナは知っていた。
「古竜神ワイブレーンから『宝玉』を奪い、自らの胸に埋め込んだのね。……そして、水の世界樹の封印を開放したということは……!」
そこからの予想は必要なかった。
これからなにをするのかを、ヴィザード一世自らが、自らの口で語ったからだ。
「余は、今よりこの『水の世界樹』を渡って天界に至り、天界におわす神に
「――まずい!」
その一言で、ウィルウィナは身を翻した。視界を覆う人々の隙間に強引に肩を入れ、硬い海の中を泳ぐようにもがく。しかし、密集に密集を重ねた人の、とてつもなく重い波は、容易にはウィルウィナを通さなかった。
「通して! 通してちょうだい! 私は……私は、一刻も早く! 急がないといけないのよ!」
「お願い、私を通して! 早く――早くしなければ! 本当に取り返しがつかないことになるわ!」
「エルカリナ王国に栄光あれ! 親愛なる臣民に幸いあれ! 我等の前に勝利あれ!」
「お願い――お願い、お願いよ!! 私を、私を通してちょうだい!!」
国王の虚像がウィルウィナの背後で右腕を突き上げ、民衆たちが一体と化した万雷の声でそれを称える。王都の全体を巻き込む熱狂の渦が街の全部を地鳴りのように揺り動かす中、自分の叫びも聞こえなくなったウィルウィナが悲鳴を上げていた。
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